第四節 彼はいつも砕け散りそうに笑っていた
今、見たものを極力冷静に、客観的に言ってみよう。
「コージャン師父が、狗琅真人の首を斬り落とした」――だが、そんな馬鹿な! 何が起きたのか、ウーには理解が追いつかなかった。
冷たい捕喰肢の中で、白魂蝶は「あんたたち、仲間じゃなかったの?」と目を白黒させている。
「師父!? しっかりして下さい、なんでっ師父!」
今一番この行いを問いただしたいのは、頭と胴が泣き別れになった狗琅真人だろう。見開かれたままの瞳は、無念に虚空を見つめていた。
この仙人がそう簡単に死ぬなどとウーは思わないが、狗琅真人が作り出した光の格子は既にかき消えている。少なくとも、この場は無力に違いない。
「まだ分からない? ほら、この匂いに覚えがないかな?」
うろたえるウーに、瑣慈は立てた人差し指を振って見せた。
甘い花露水の芳香――夏に訪れた殺人宿で、同じものを嗅いだ記憶が不意によみがえる。なぜ今の今まで気づかなかったのか!
「出された食事に気をつける者はいても、馨しきに気をつける者は中々いないからね! いやあ、〝試運転〟の時は、お恥ずかしいものを披露したよ」
ようやくウーは合点した。陰陽客棧、あの殺人宿でコージャンを操っていたのが、この女なのだ。しかも、一度ならず二度までも……!
「あれから二ヶ月、隅々までじっくりじっくり根を張らせてもらったよ。おかげで、ほら! 今はこの通り、自由自在さ」
白髪の邪仙女が愉しげに指を鳴らすと、それまで石のように静止していたコージャンが動き出した。闇に覆われた空間ごと、地の底まで震わす踏み込み!
それを察知したウーの脳裏には、続く神魁流の套路が過った。攻勢に対処しようという思考を、「彼女はどうする?」という迷いが遅らせる。
捕喰肢で白魂蝶を掴んだままでも戦えるが、師父を相手取るなら離した方が良い。だがそうなれば、彼女がイン・キュアに喰われてしまいかねない。
コージャンにはその躊躇で充分すぎた。
中途半端に上がったウーの手首と肘を奪う。咄嗟のことで無抵抗に引っ張られた少年の肩を掴み、喉を押さえながらぐるりと体を回して背勢を取った。
(釣顎後拉!)
意図を察したが、彼にはどうすることも出来ない。喉を押さえていた手は、下顎の穴を突いて首を脱力させながら、こちらの顔を仰向かせた。背に当てられた掌は体を前に押し出していき、後ろへ極め落とされていく頭との間で、頚椎が折り砕かれる。絶命したウーの姿は霧散し、空中で閃く黒点から再び形を成した。
瞬きする間の死と復活。
「まがい物は、そうやってよみがえるのか。きれいに造ったものだな」
感心と軽蔑と好奇、様々な感情が少しずつ混ざって均され、平坦に聞こえるキュアの声。少年には、それに耳を傾ける余裕もない。
瑣慈が言った通り、前回とは比べ物にならない。この動きは、間違いなくコージャン師父そのものだ。ただ、そこに師父自身の意志がない!
(こんなものに負けたくない! だけど……勝てるのか?)
後頭部に椅子の脚で一撃、何の技かも分からなかった。死からよみがえったばかりのウーは、再び倒れ込もうとする。その顎が強烈に蹴り上げられ、どろりとした鼻血が喉の奥へ流れた。横っ面をはられ、残っていた卓子へ覆いかぶさると、腹と言わず背中と言わず蹴り続けられる。一発一発が重く、芯まで響いた。
(駄目だ、まるで勝負に、なら……ない)
文字通りの大人と子供。前回、殺人宿で操られたコージャンを止めたのは、ウーではなく祖父の銃だった。今回も自分は役に立たないのか。
忸怩たる思いを抱えながら、ウーは必死で頭を働かせた。捕喰肢を伸ばし、闇に開けた床の際へ突き立て、そちら側へ自分の体を引っ張る。
これには相手も虚を突かれたようだが、即座に追行しようする。数歩そこらの距離は、時間稼ぎにも焼け石に水。
だが、そのわずかな間隙に割り込む者あり。
「蝶々さん!」
ウーの死と同時に捕喰肢から自由になった白魂蝶が、樹巧暗器の鉄爪で挑みかかる。両手首、肘、肩の各関節を狙う突きを、コージャンは小さく払って捌いた。
続く足払いを、躱すのではなく足先で挟んで捕らえる! これは拿踝法と言って、足首にかける小手返しのようなものだが、通常はもちろん手で足を掴んで行う。
白魂蝶は驚きながら、全身を弛緩させ、あえて相手の力に逆らわず床に叩きつけられた。損害は最小!
安堵する間を与えず、コージャンは反対方向へもう一度彼女を投げると、体が浮いた所へ肘撃(肘鉄)で殴り飛ばした。床を滑る先は漆黒の闇だ。
白魂蝶を捕喰肢で受け止めたウーに、コージャンが迫る。
強く指先を曲げた「虎爪」の手型を作っての踏み込みに、全身から発する勁力と内力が込められた、心臓破壊の殺人技〝悪虎愉心〟。これは避けられぬ!
(まずい、今死んだら、蝶々さんがキュアに喰われる!)
――りんっ、と涼やかな音がした。
◆
標的を見失ったコージャンの拳は、喫茶店の壁だった場所を大きく穿ち、そこを覆っていたキュアの補喰闇をしばらく晴らした。
「おやおや、逃げられてしまったねえ」
ウーと白魂蝶、そして首を落とされていた狗琅真人の屍体が消えても、瑣慈は悔しがった風でもない。と言うより、今彼を殺しても意味はないのだ。
「きゅうちゃん、もう良いよ」
「ちゃんはやめろ」
文句をつけながらも、外法重魂体の青年は素直に従った。
暗黒の空間がするすると裏返るように、『娯湖茶房』の無人になった店内へ戻っていく。それと共に、コージャンは瑣慈たちの方へ近づくと、傍で待機した。
「あっさりこいつは手に入ったな」
キュアが言うのを聞いて、瑣慈は三日月のように口角を釣り上げる。
「私には仇討ちよりも、こちらが本命だからねえ。とはいえ、これはタイタイの【大事之物】だ。取り返しに来られないよう、ちゃんと始末しないと」
「ああ、任せろ」
意気揚々と話し合う二人の隣、コージャンは硬く動かない表情で突っ立っていた。抜け殻か、はたまた名前すら持たない無個性な人形のように。
◆
視界を埋め尽くしていた闇が、澄んだ、しかし深い藍色に変わる。足元の感触はわずかに軋む木板。捕喰肢に抱かれながら、白魂蝶はぽかんとした。
「……どこ、ここ?」
そこは、冷たい夜の海にかかる長い桟橋の上。等間隔に並んだ柱と柱の間に、ずらりと灯籠が渡されている。この唐突さも含めて、ウーには見覚えのある場所だ。
「ああ、ここは……」
言いかけて、ウーは「ごふっ!?」と大量の血を吐き、絶命した。
先ほどコージャンに蹴ったぐられて、内臓破裂を起こしていたのだ。死体は扁平な影に変わり、そこから立ち上がった無傷のウーは何事もなかったように続ける。
「この世とあの世の狭間ですよ」
「ああ、そう」
白魂蝶が吐き捨てた溜め息は、常冬の寒さで白く曇った。
「もう突っ込まないわ、好きなだけデタラメやって頂戴」
「それは話が早くていいネ」
涼やかな声に二人が振り返ると、そこには自分の生首と帝鐘を抱えた狗琅真人がいた。衣服にべっとりと血をつけたまま、顔色も良く元気そうですらある。
ウーは「うわっ、しゃべった」とげんなりした声を出した。死んだとは思っていないが、だからって当然のように口をきかれても困る。
白魂蝶も白魂蝶で、「怪奇映画じゃあるまいし……なんで生きてんのよ……」と渋面でぶつくさと愚痴った。無理もない。
「一時的な避難場所にこちらへ入ったが、このまま歩きながら話そうか。今の所、追ってくる気配はないがネ」
ハッと一拍の間を置いて、ウーは猛然と食ってかかった。
「そうだ、クソ仙人! あなた仙人のくせに、師父が操られていることに気が付かなかったんですか! 二回も同じやつに使われるあの人もあの人ですけど!」
「ああ、そこは本当に申し訳ない。相手の隠蔽が巧妙だったことには違いないが、今の私を責めるのは、ちょっとやめてもらっていいかな。落ち込んでいるんだ」
「落ち込んでる? あなたが? いつも通りに見えますけど?」ぱちくり。
「ウン。いつも通り振る舞えるよう、今の私は楽観的な感情に全力で寄せているんだよ。でなければ、精神が停滞して動けなくなる」
白魂蝶が、「あら、そんなに?」と狗琅真人の首をまじまじと見つめた。
「当然だろう。リーくんは、私にとってはじめての友達で、【大事】なんだから」
「二百年以上も生きてきて??」
ウーはとんでもなく酸っぱいものでも含んだように、口をひん曲げた。「あ、コイツわりと若い仙人なのね」と感心している白魂蝶を他所に、狗琅真人は説明する。
「人間だった頃の私は、〝頭がおかしい〟と評判だったんだ。優しくしてくれた人は保護者の立場だったし。昇仙してからは、道兄道姐、仙人仲間とのつきあいはあったけれど……ああ、そうだね、唯一の親友と呼べる存在なんだ」
「……師父は、どうなったんですか」
「別にあれは【魂】が無くなった訳じゃないから、そこは安心だ。術さえ解けばすぐ元に戻るさ。ただ……」
「ただ?」
「あの女の趣味を考えると、正気に戻した後で拷問でもするんじゃないかな」
「へえ、うちの妹拐かさなきゃ、話が合いそう」
ウーはコージャンへの心配と、白魂蝶への「何言ってんだこの人」というイラッとした気持ちで、眉間に深々とシワを刻んで唸った。
「早く師父を助け出さないと!」
「そうだが、今の私はこの通り手も足も出ないよ。まずは耿月山へ戻ろう。あそこには予備の端末と、私の本体があるからネ」
「たんまつ?」
聞き慣れない単語に、ウーは小首を傾げた。
「分身、と言った方がいいかな。私は私自身を調べて外法重魂体を再現したが、それには体が一つじゃ足りなくてネ。うちの智能人形たちも、予備機なんだよ」
「あっ、そーいうことだったんですか!? ……じゃ、狗琅真人の本体って?」
今まで見てきた狗琅真人の姿が操り人形だったとは、妙な感触だ。だが、首を落とされて平気でいられる訳は分かった。
「君はもう見ているよ。見ても気づかなかったろうけど」
「回りくどいのはいいです」しかめっ面になる。
「君が初めて目を覚ました時、私の本体はすぐ後ろに居た」
その言葉の意味を考えて数秒、ウーの脳裏に、在りし日の思い出が浮かぶ。
――その樹、叩いたりしないでくれよ、大事なものなんだからネ!
「え、まさかあの、地底湖に生えてた樹が!?」
葉がなく、赤銅色の樹皮を晒した裸の樹。ウーが外法重魂体としてこの世で二度目の生を受けた時、もたれかかっていたものだ。
白魂蝶は狗琅真人に確認した。
「あんた、樹から変化した仙人だったワケ?」
「いや、人間だよ。外法重魂体は、複数の【魂】を繋げるのが基本だ」
そこで狗琅真人は、手に持った自分の首をウーの方へ向けた。少年としては、生首と見つめ合うのはあまり面白くない。
「離天荒夢は、私の体に父と母と兄姉、家族七人の【魂】を埋め込んだ」
――私をタイタイと呼んで良いのは、家族だけだ!
「え?」
瑣慈を前に激昂した狗琅真人を思い出し、ウーは腑に落ちるものを覚えた。このひとが離天荒夢をあれほど憎むのは、ただ実験体として己が虐げられたからではない。
家族の仇だからだ。
「それを保持し続けるには、高位樹霊の依り代となる神樹と肉体を融合させるしかなくてネ。身動きは取れなくなったが、私はそれで満足しているよ」
七つの子供に七人の【魂】、ウーの外法重魂体としての名前は「七殺不死」だ。それに、コージャン師父が言っていた言葉。
――でもな、それに関しちゃ、狗琅が自分で言って、頭下げて頼むべきだと俺は思うぜ。だから言わねえ。
「まさか。貴方がよみがえらせたい人って、その家族七人なんですか……?」
「そうだ」
何かが割れるような狗琅真人の肯定。凍てついた夜に砕けた氷のような、冷たく、そして取り返しがつかなくなりそうな、短い返事だった。
「君を造ったのは、幸薄い人生を送り、悲惨な死に方をした私の家族みんなを、よみがえらせるためさ」
直前の印象とは真逆に、狗琅真人は晴れ晴れとした笑顔を生首に広げた。
「そして、平凡で平穏で、静かな暮らしをしてもらって、最後の一人まで『いい人生だった』と笑って逝ってくれたなら、私もようやく安心して死ねるんだ」
その表情は、ウーが今までこの若仙に対して見出したことのない感情を湛えていた。陽だまりの中に立っている錯覚さえ覚えるほど、まばゆい笑み。それなのに、今すぐ奈落の底へ落ちそうな、粉々に砕けそうな危うさで見ていられない。
もしかしたら、ウーが気づかなかっただけで、狗琅真人はいつもこんな風に笑っていたのではないか?
「あんた、仙人なんでしょ。死にたいの? 不老長生は?」
ぼそりと、海の声にかき消されそうな小ささで白魂蝶がつぶやく。
「ああ、私の望みは、もうそれだけなんだ。永遠に生きていたくなんてない、今すぐにだって死にたい、でもみんなのことを思うと、私しか救えないから駄目なんだ。私が助けなんて求めたから、私が……ぜんぶ、わた、私が」
そこで、狗琅真人の様子が変わった。丸く見開かれた片目が、ぎゅるり、と妙な回転を見せる。突如激痛を覚えたように、目鼻口が震えながら歪んでいく。
「死んだ、みんな死んだ」
「あの、狗琅真人?」
ウーが声をかけても、心ここにあらず。壊れた唱片のように平板に語りだす。狗琅真人が言った「落ち込んでいる」という意味を、ウーは今さらながらに理解した。
仙人と言えど、感情の起点となる【大事之物】のコージャン師父が敵の手に落ち、自分達に襲いかかってきたのだ。その動揺はウーが想像するよりも深く、激しい。
「私の家族は七人いた。父のカオイウ(宝佑)、母のツウツウ(都都)、三人の姉はシュウ(初)、メイ(翡)、グイ(珏)。二人の兄はチェンチェン(成成)とフークィン(武平)。焼き殺されてよみがえった時、父の【魂】が私の中から消えていた。逃げようとして殴り殺された時、母が消えた。氷室に放り込まれた時は楽な方だったけれど、優しかったシュウ姉さんが消えた。そうやって七回殺されて、最後に残ったのが私だ、末っ子のタイタイだ。でも、本当にそうなのかな? 私はカオイウかもしれない。ツウツウかもしれない。姉のグイかもしれない。兄のフークィンかもしれない。ねえ、ウォンくん。私は誰だと思う?」
――ぱきん、と。
硝子のような音を立てて、片頬に涙のような闇の亀裂が走った。同じ側の目もまた闇に染まり、青い瞳だけが幽かに輝く。
「わからないんだ、体はタイタイのままで、この自分は一番下だから運良く残されたソー・ウェイタイなんだろう、と。そう思い込んで、ある日違うのではと気がついて、それからずっとわからない。この二百年ずっと、ずっと、いつだって。わからない、わからない、わからない、なあ、わたしはだれなんだ!?」
この世とあの世の狭間で、自分の生首を抱えた仙人が泣きそうな顔をしている。絶句して、ウーは狗琅真人を前にしばらく硬直していた。
なおも吠え立てるように問われ、胸中の息を絞って必死に口を開く。
「知りませんよ、そんなの!! 貴方はクソ仙人の狗琅真人で、僕を勝手によみがえらせて、何十人も贄を使って自分の模造品を造ったろくでなしのバカだ! 一家の誰だなんて僕が知るもんですか! そんなのあんたが好きに選んだらいいんだ!」
ぱぁん、と音を立てて、ウーは狗琅真人の頬をはった。生首はあっさり手の中から放り出され、桟橋の上を転がっていく。しまった、とウーは我に返った。
「危ない! 蝶々さん、拾って!」
以前聞いた所では、この世界の狭間では海に落ちると、別の世界へ行くと言う。これが分身とはいえ、狗琅真人の首がそちらへ入ってはまずい。
転がっていくそれを、文字が書かれた白い帯が絡め取り、持ち上げた。
「なるほど、事情はだいたい分かりました」
女性とは思えぬ低い声――その主は、鹿角を生やした背の高い影だ。白帯は角に幾本も結ばれており、閉じた両目から頬にかけて符呪が入れ墨されていた。
冥府を統べる鬼仙の一、嘆蝉道人である。




