終節 過去は、前を向く者の背を狙う
素足が、白魚のように翡翠色の湯を跳ねる。耿月山は守墓人洞の温水地底湖岸で、女と見まごうような優男が一休みしていた。
青みがかかった灰色の長い髪をゆるく結い、顔つきは眠り猫のように柔和。この洞府の主であり、地上に暮らす仙人(地仙)の一人、狗琅真人である。
仙人と言うと日々のんびり過ごしているように思われがちだが、大半の者は非常に多忙である。忙しさの定義にもよるが、彼はこの一ヶ月、一睡もしていない。
「リーくんは、そろそろ落ち着いた頃かな」
ついでに独り言が増えがちだ。
ここを去っていった友人から、引っ越し先を決めたとたよりが来てしばらく。寄り道も多いようだが、もうそろそろ新居を訪ねられるだろう。
ウーは嫌がるだろうが、定期的に様子は見ておきたかった。
あの子を【大事】に思っている訳ではない。コージャン・リーの邪魔になるようであれば、いつでも殺していいぐらいに狗琅真人は考えている。
だが、〝七殺不死〟は……外法重魂体は重要だ。一つ造るまで難儀した。あれには出来るだけ長く稼働してもらって、自分の研究を進めてもらわねばならない。
復讐は何も産まないと人は言う。そうかもしれない、邪仙〝離天荒夢〟はコージャンと共に討ち果たしたが、奪われたものは戻ってこなかった。
だが今はウーの、七殺不死としての成長にかかっている。取り戻す手立てがある。子育てを始めたコージャンは楽しそうだが、なるほどこれはいいものだ。
「……早く、【みんな】に逢いたいネ……」
顔を上げ、湯けむりの向こうに立つ赤い木を見つめる。湖の、いや耿月山すべての中心となる神樹。花も葉もなく、ただごつごつと節くれだった赤銅色の樹皮は、美しさや神々しさよりも、寒気のする禍々しさを覚えるだろう。
それを見る狗琅真人の眼差しは、暗く潤んでいた。それでいて眼球はぎらぎらと底光りし、奇妙にちぐはぐな明暗を見せる。
それは、言葉を知らない幼児がもどかしさに叫びだしたくとも、声そのものを無くして悶えるような、内に抑え込まれた焔だ。そして不意に、
――ぱきん、と。
硝子のような音を立てて、頬に涙のような闇の亀裂が走った。
◆
「なあ先生、俺たちが何なのか、確かめねえで良いのか?」
あるじのルアが店の奥へ入った隙に、コージャンは切り出した。対面で飴くるみをつまんでいたノイフェンは、頭の上に小さく疑問の雲を出す。
「それ、触れて良かったんですか? ちゃんと月謝を払ってくださるなら、細かいことは詮索しませんわ。どうせこの町は、スネに傷持つ方だらけですし」
「ごもっともだが、限度があるだろうが。バックられたらどうすんだよ」
案外とイイ根性してやがる、と思いながらコージャンはこの女教師が心配になってきた。なりふり構わず生徒を集めて、月謝を滞納されたらどうするつもりなのか。
「その点については、ちゃんと対策していますわ。ご心配ありがとうございます」
コージャンは預かり知らぬことだが、そういう悪質な生徒とその家族には、〝黒爪虎〟のチャや、〝白魂蝶〟といった殺師が月謝を取り立てにいく仕組みになっている。三度までは滞納を許すが、その後は死か、退塾だ。
「まあ、それならいいんだがよぉ」
「でも、訊いて欲しいなら訊いちゃいますよ? あなた達二人、一体何者なんです? 妖怪か、それとも左道使いの類とか?」
「ええっ!?」
それまでニコニコしていたウーは、不服そうに口角を下げた。
「妖怪じゃないですよ! クソ仙人が造った、ええと、ねずみ……」
「そりゃ実験動物だな」とコージャン。
「そうそう。死んだ人をもっとよみがえらせられるように、って。七十七人の生け贄から造られました。あ! でも、ちゃんと人間の戸籍もありますよ」
「へー。すごいのねー(なにそれわかんない)」
平板な声で相槌し、ノイフェンは茶をすすった。七十七人だって? それは、かつて殺師をしていた黒爪虎が、引退するまでに殺した人数より多い。
こと仙人絡みは、話二分三分に聞くに限るが、確かに絶命したはずの少年が異様な形で復活した。父子が仙人の実験体だったというのは、事実なのだろう。
「コージャンさんも、そういうお体で?」
「さあて、どうだろうな。毒やらなんやら仕込まれたこともあったから、俺も自分の体がどうなってんのか、実はよく分かんねえんだ」
「何やってんですかあの仙畜生!」
コージャンは適当に質問をはぐらかしたが、ウーはびきびきと眉毛を逆立てた。これは教師として見過ごせない、ノイフェンは人差し指をぴんと立てる。
「ウォンくん、うちの生徒になるなら、そういう悪い言葉はいけないわ」
「す、すいません」
鼻先になんだか甘酸っぱいものを覚えて、ウーは素直に謝った。なんだろうと彼がいぶかしんでる所へルアが戻り、流れで話し合いが終わる。
(ああいうお姉さんみたいな先生が、勉強教えてくれるんだ)
『在泉堂』の帰り道。ノイフェンに「めっ」された時のことを思い返していると、ウーは心がほわほわと湯気を立てそうだった。
「何ニヤニヤしてんだ、おめーは」
こいつも男なんだなあ、と今更ながらに察してコージャンは笑う。
「えへへ。塾、楽しみですね」
「あの先生、美人だったしな」
「えへへへー」
(十六になったら、花街にでも連れてってやるか)
それまであと五、六年。短いようであっと言う間だろう、明日にはウーは塾へ行き、一日一日、頭や体や心を鍛えて成長していく。
それを育てるのは自分だ、父親というものは、楽しい。コージャンは上機嫌で、息子と肩を並べて町の人波へと吸い込まれていった。
◆
追われるように逃げる身の上に、秋の夜風はやたらと染みる。駅の站台上に一人立つニウ・ボーは、煙草売りから買った花を食べていた。
これは花煙草というもので、売り子になる人間の背中に植えて育てる。猛毒のトゲを持つので、耐性を持つ売り子の手を介さなくては、盗むことも出来ない。
紫のツツジに似たそれはひと噛みごとに、鼻へ抜ける芳香と舌が痺れるような甘みをもたらす。大量の花から精製した麻薬は高級品だが、これなら手頃な気晴らしだ。
それでもなお、苦々しい思いは消えない。
(コージャンの野郎、俺の金でさんざん飲み食いしよってからに……)
命あっての物種。コージャン・リー殺害に失敗した、というか諦めた挙げ句、ニウは当のコージャンに依頼の前金をほとんどむしり取られた。
だがそもそも、こちらは捨て駒のように死ぬところだったのだ。意趣返しと保身のため、彼はイン・キュアの名もあっさりと白状した。
だからこうして、武海から逃げようとしている。
「やあ、おにいさん。ニウ大哥」
誰かが自分を呼んでいる――どこから? 前からのようにも、後ろからのようにも、上からのようにも思えた。ゾッとしながらも、冷や汗は出ない。
むしろ、乾いてさえいる。水分の抜け落ちた皮膚が、ぱらりと一枚、自分からはがれ落ちる感覚。己の輪郭が、得体の知れない気配にぞわぞわと削られていく。
それは、ニウが殺師人生の中で、一度も感じたことがない種類の戦慄だった。
「ウチの〝きゅうちゃん〟(嶽児)の仕事、ほっぽり出すんだってねえ? カカッ」
引きつったニウの顎を、陶器のような繊手が撫でた。つるりと、すべらかにまた輪郭が削られる。唐突に現れた黒い着物の女に、ニウは完全に気を呑まれていた。
いや、そもそもニウは站台の端に立っていたのだ。女の足場は線路上――つまり空中、ということになる。だがニウは、首を動かして下を見ることすら出来なかった。
「ひどいね、きゅうちゃん……おっと、イン・キュアはお金を払っただろう? 依頼人を平気で裏切って、君には仁義も矜持もないのかなあ」
女の長い髪は、おろしたての筆のように白い。熟した葡萄に似た暗紫色の瞳が、怯えきったニウの顔を映している。誰だ、この女は。自分をどうしたいんだ。
何を言おうにも、ニウの舌は痺れて動かなかった。一体なんの妖術か。
「いい加減、ちゃん付けはやめろ、瑣慈」
背後からイン・キュアの不吉な声がして、ニウは運命を悟った。いや、この女が制裁に来たであろうことは察しがつくが、状況が異常すぎる。
そもそもが甘かったのだ。不死身の人間などという者が居て、それをどうかしようというインが、ただの人間とは限らない。そして、その仲間も。
「ニウ大哥、〝俺はどうなるんだ〟って訊きたそうな顔だね?」
白髪の女は、恋の駆け引きでも楽しむような甘ったるい声で言う。目も鼻も口も、綺麗に盛り付けられた菓子のように鮮やかで蠱惑的だった。
それに誘われた男たちは、これまでどんな目に遭ったことか。ニウは、これから自分の身で思い知ることになるのだろう、とただただ内臓を凍てつかせた。
「いいからそこを退け、瑣慈」
女はすーっと横滑りに離れていく。足を前に出して、後ろへ振って、などという通常の歩行動作では絶対にありえない。空中浮遊でもしているのではないか。
そして、インが一歩近づくと、ニウが見る世界にひびが入った。
稲妻が走ったような亀裂は、そう明るくもない照明の下で深々と虚ろな闇を覗かせる。幾重にも伸びてくるそれの根本は、イン自身だ。
それで、気付いてしまった。これはひびではなく、義眼の男から広がる闇の流体なのだ、と。深淵の暗黒がニウめがけ、虚空をまっしぐらに伸びてくる。
(やめろ――やめろ――やめてくれ!)
声にならない悲鳴は、そのままとぷり、と暗転に飲み込まれた。一切、何も見通せない無感覚の闇。眼球に残っていた光も奪い去られる、無限の欠落の中に。
(ああ……あぁ……ぁぁぁぁ……! ……!! ………―――――)
あるのはただ、寒さだけ。肌を刺す冷たさではない、指がかじかむ冷え込みではない、がちがちと震えるような寒さではない。純粋なる温度の奪取、かけがえのない大事な何かが剥離していくその感覚は、永劫、奈落へ落ち続ける心地だろう。
「きゅうちゃんの踊り喰いは、見てて楽しいねえ。美味しかった?」
「酸味が強い。飲めなくもない酢だな、こいつの【魂】は」
淡々とイン・キュアは告げた。そのへんの野良犬をけしかけても、何ら役には立たない。だから怒りを覚えている訳ではないが、見逃す理由も特になかった。
「やっぱりさ、先にあいつだけ始末しちゃおうよ。あんな剣だか人だか分からない面白いの、ワタシ欲しいな。〝タイタイ(来々《らいらい》)〟の奴は、その後でも」
「駄目だ」
きらきらと無邪気に目を輝かせる瑣慈に、インはすげなく応じる。その声には、深く怨みの影が彫り込まれていた。
「今は狗琅真人とか名乗っていたか。奴はコージャン・リーの元に必ず、また、現れる。逃す訳にはいかん――父上の仇だ」
「そう、そしてワタシのお師匠さまの仇でもある」
〝離天荒夢〟または離天帝君イン・アンファ(殷恩波)は、十年ほど前に、コージャン・リーと狗琅真人の手で討たれた。
冥府より邪仙と定められていたが、インにとっては大事な「父」だ。
弟子の瑣慈は難を逃れたが、交戦したイン・キュアは斬り刻まれ、生きることも死ぬことも出来ない断片と化していた。それが二ヶ月前までのことである。
「本当に、大変だったんだよ? 寸刻みにされたキミの欠片を探して、集めて、一つ一つこうしてくっつけて。だからコージャン・リーはワタシに譲ってね?」
瑣慈が山奥の宿・陰陽客棧で仇敵を見つけたのは偶然だった。
頭の足りない凡俗をだまくらかして、軽めの実験場として使っていただけだったのに、思わぬ収穫だ。あの男の頭を覘くのは愉しかった。
「冗談だろうな、瑣慈? あの日から、苦痛が消えた試しがない……奴にやられた傷は、どれも治らんのだ、どれも。何よりこの眼が! 忌々しい!」
眼球ごとインの頭を切り飛ばしたのが、コージャンが最初に与えた致命打だった。目を押さえて恨み言をうめくその体から、深淵の色をした帯が幾本も生えていく。
それは出現するだけで空間から熱を奪い、獲物を求めるように不気味な揺らめきを見せていた。【魂】を喰らう、外法重魂体の捕喰肢と同じもの。
「俺を肉片にして地獄を味わわせたコージャン・リーも、父上を殺した上にその研究を盗んだ狗琅真人も、奴が猿真似で造った七殺不死も、全て殺す! この俺こそが、唯一にして本物の重魂体――〝万神万死〟だ!」
夜の底に穿たれる闇の触手は、彼自身の怒りを証明するように、禍々しい亀裂を咲かせていた。その傍らで、白い女は生ぬるい愛情の眼差しを注いでいる。
灼熱する刃を連ねたようなインの叫びに対し、瑣慈の心は淡白なものだ。
師の仇討ちなど、彼女にとってはもののついで――でなければ、インをもっと早く復活させていただろう。今欲しいものは、一つだけだ。
(あの男を本当の剣にしてみたら、どんな神剣宝刀が出来上がるかなあ?)
ひとを、道具に加工するのは愉しい。離天は良い師とは言い難かったが、この愉悦を教えてくれたことには感謝している。
瑣慈は、鮮やかに赤い舌で唇を舐めた。
【師弟搬家 終】