第三節 歓喜と恐怖が蝶を裂く
――時は、少し遡る。
「ウー。お前、学校とか行きたくねえか」
閑散とした夜汽車の車内で、コージャンは愛弟子にそう切り出した。対面式座席を二人と荷物で占領し、引っ越しのため、武海市へ向かうその道中のことだ。
コトコトと煮込み料理の鍋気分で、心地よく揺られていたウーはびっくりしてしまう。向かい合う師弟の間で、半秒の沈黙が流れた。
少年はしゃきっと背筋を伸ばすと、表情に力を込める。それは妙に賢しい、〝ワガママなんて言いません〟と物分りの良い薄笑いだった。
「いいえ。僕はまだ、師父に指導されている身です。学校に行く暇があったら、百回剣を振っている方がいい。僕みたいな化け物に、人間の勉強なんて」
「そうじゃねえだろ、この野郎……!」
いつになく冷え冷えとした低音が、ウーの作り笑いをかき消した。ただでさえ腹に染みるコージャンの声は、その響きだけで内腑を暴き立てるようだ。
「これは剣の話じゃねえんだ、お前の話だ。つまり親子の問題だ、なにトンチキな遠慮してやがるんだよ! ちょっと前までは、普通に学校通ってただろうが。それを今みたいな体になったからとか、諦めてんじゃねえよ」
「あっ……」
しまった、という思いそのままに、ウーは眉根をバッテンに寄せた。図星の星が飛ぶのを見て、コージャンは何とも言えない顔で頭をかく。
この距離感の詰め方は、お互いまだ手探りだ。
正直、コージャンにとってのウーは手のかからない子供だった。他に経験もないし、今の子育てが楽だとは思わない。しかし素直で、言いつけはきちんと守る。敬う態度も崩さない――あまりにも、「良い子」でいすぎる。
そうでなければ、また捨てられるとでも思っているのではないか?
「あのな、俺は剣の弟子としてお前を破門することはあっても、親子の縁は切らねえ。家族ってなそういうモンだからな。逆にお前が俺を見限って出ていくことも、まあ、ちっとはあるかもしれねえ。とにかく……あァもう」
どう言えばいいものか。しばらくコージャンは両腕を組み、額を叩き、頭を振り、かと思えばぴたりと静止して沈思黙考する。
やがて顔を上げると、新米父親は自分の言い分を愛息子にぶつけた。
「変な遠慮しやがったらぶっ殺す! 俺は親なんだから、お前を一人前にする義務があんだよ! 嫌だっつっても、通わせるからな‼ 俺の読み書きそろばんは、師兄たちや師母に叩き込まれてギリギリ物になった。本当にギリギリだ。何とかやってきたが、そりゃ運が良かったってのもある。お前がしなくていい苦労を背負い込むような育て方しちゃ、安心して独り立ちさせられねえんだ呆子!」
一息に言われて目を白黒させながら、新米息子はじわじわを内容を理解し、今度は顔を赤くしてしまう。頬の熱は、薄笑いの残骸を綺麗に消し去った。
「お父さん……」
「あっちは小学が閉鎖されたり、地上げで潰されたりしてるらしいが、引越し先の近くに台堪って学校がある。お前はそこに通うんだ、覚悟しとけよ」
胸の内がスッキリして、コージャンは大きく伸びをした。汽車に乗って長いのだ。
「でも僕、何年生になるんですか?」
「順当には、二年生じゃねえか。ま、手続きの時に確かめりゃいいだろ」
ウーが学校に通っていたのは、七、八歳の二年にも満たない間だけ。見た目は十五歳ほどの体格だが、実際はまだ九歳の子供だ。多少の読み書きは覚えたが、それでもあまり得意ではない。就学経験のないコージャンは、それが心配でならなかった。
一つ所に腰を落ち着ければ、そんな心配は無用となる。これまで訪れた町と、これから訪れる町と。父子は新しい生活への希望を抱いて、夜汽車に揺られた。
◆
――朝一番に人を殺すのは気持ちが快い!
シンダー(幸路)は出勤前の通り魔殺人が日課になって、一年が過ぎようとしていた。これをやるかやらないかで、一日を過ごす意気込みが段違いなのだ。
だいたい世の中みんな、殺人鬼は夜に活動するものという既成概念に囚われてる。日が昇って間もない、洗いたての空気は程よい運動にぴったりだと言うのに!
標的を決めるワクワク感、襲いかかる隙を伺う驚険、首尾よく始末した時の達成感。おかげで毎日が楽しく、工場事務の仕事でも昇進が決まった。
(今日は若い女がいいな)
そう思って目をつけたのは、古臭い花柄の一件式洋装に、やわらかそうに揺れる馬尾弁子の女だ。可愛い顔立ちなのに、野暮ったい黒ぶち眼鏡と服装が、それをかすませている。そこがそそる!
シンダーは懐の刀子を握って後をつけ、頃合いを見て襲いかかった。
「――きゃあああああっ!?」
早市へ続く人気のない街路に、女高音の悲鳴があっちこっちへ跳ね回る。声と同じく、女も右へ左へ体をさばいて、シンダーの奇襲をかわした。
あれっ? と思う間に、女がシンダーの手を掴んでへし折る。
「ぎゃあああああっ――!?」
見たことのない角度で揺れる手首は、もはや刀子を握っていられない!
女は腰の後ろから、黒光りする透かし櫛を二つ取り出して握り込んだ。それはメキメキと音を立てて変形し、黒鉄のような刃を指の間から伸ばす。
彼女は円を描く脚さばきで、シンダーの体へ繰り返しその凶器を叩き込んだ。脇腹! 側頭! 顔面! 金的! 頸部! みぞおち! 倒れることも許さぬ乱舞!
死の舞踏を踊らされ、殺人鬼は激痛に身悶える!
(なんで俺、何もしてないのにこんな目に遭うんだ!?)
自分の行いを棚に上げて、シンダーは死んだ。
「邪魔だぞ、野良犬」
死体を壁際に蹴り飛ばして、〝白魂蝶〟のチャ・ノイフェンは吐き捨てた。そして相手のことを即座に忘れた。虫を潰したようなものである。
手の中では、生き血をすすった櫛がよりいっそう艶めいていた。
これは特注の樹巧暗器で、木材として加工されてなお生ける樹霊が、内力を受けて変形するのだ。晩鐘幇お抱えの殺師〝黒爪虎〟のチャが与えたものである。
彼女の養父でもあるチャは現在引退して、夫のヤン(甘)と診療所を営んでいる。なんでも、晩鐘幇が裏切り者の手で壊滅し、その復讐のため血で血を洗う日々を送っていた折りに、闇医者をしていたヤンと出会ったのだとか。
夫夫となって家庭を築いた二人だが、養女の教育方針で食い違った。
チャは、己が生涯で磨き抜いた殺人術を継承させたい。
ヤンは、幼いノイフェンが語った「がっこうのせんせいになる」という夢を応援したい。二人は真っ向から対立し、話し合いは平行線となった。なったが……。
結果的に、ノイフェンが「二人」に増えたことでその問題は解決したと言える。
すなわち、卓越した殺人術を身に付けた〝白魂蝶〟と、学習塾をこの春から始めた女教師・ノイフェンと。色々と揉めたが、そこはそれ。
「この街の治安、いつになったら良くなるのかしら……」
櫛を仕舞い、か弱い女に戻ったノイフェンはほとほとため息をついた。
白魂蝶でない時は、筋力の緊張が解け、勁の発し方も忘れてしまう。武術の心得があるどころか、むしろ人より運動音痴なぐらいだ。
運が悪ければ、さっきのような生命の危機でも変心出来ず、そのまま刺殺されていたかもしれない。嫌な町だ。
(でも、だからこそ私が、未来ある子供たちに少しでも道を開かないと!)
そのために、今日はルア老と約束を取り付けていた。あの老爺はこのあたりではちょっとした顔役みたいなものだが、最近は寄る年波には勝てず、ヤンの診療所をよく訪れている。その縁で、年頃の子供がいる親を紹介してもらった。
「おはようございます、ルアさん! お約束していた、チャ・ノイフェンです!」
市が開かれる広場から、少し先の商店街。雑貨屋『在泉堂』で名乗ると、店主のルア――つまりルア老の長男が出てきた。約束の相手はまだらしい。
店構えは立派なものだった。間口は狭いが奥へと深く、きつく匂ってくる香が、身をくり抜いた香木の虚へ進んでいく気分にさせられる。
「少し早かったかしら」
何の香かは知らないが、頭の芯がジンとしびれて、ポーッと体が温かくなるような匂いだった。それを振り払うように、ノイフェンは店内を見回す。
色の洪水、物が多すぎる混沌。乾物だの扇子だの傘だの書籍だの入浴剤だの古着だの、人間の処理能力を軽々と超えてくる品揃えだ。
「いえいえ、ちょっとした揉め事があって、今裏の方におられるんです」
「まあ。大丈夫なんですの?」
どことなく、店主の声も催眠的に柔らかいと思いながら、ノイフェンは返事した。
きっとここに来た客は、謎のお香と陳列技術に思考力を麻痺させられて、ついついその気もないのに何か買わされてしまうに違いない。
「ええ、ちょっとコソ泥をとっちめて頂いているだけでして」
「あらあら、朝からお忙しいですわね」
そうして革張りの長椅子で黄茶を頂いていると、店先に大きな影が差した。何の気なしにそちらを見たノイフェンは、思わず悲鳴を上げそうになる。
「おう、旦那ァ。やっこさん指潰しといたからよ、もう二度と店には……」
「お疲れ様。コージャンさん、ほら、例のお客さんですよ」
「あっ」
コージャン・リーの後ろから、ひょこっと少年が顔を出した。
「お姉さん、あの後大丈夫でした?」
「は……はは……ははははははははは」
カタカタと細かく震え、言葉を無くしたノイフェンを前に、男たちは困惑して立ち尽くした。場を代表して、店主がコージャンに確認を取る。
「お知り合いですか?」
「いや、昨日路地裏で出くわしただけだ」
「僕ら、知らない人たちに命を狙われたので、相手を殺していたんです。だから、通りすがりのお姉さんをビックリさせちゃったみたいで」
軽く流したコージャンの発言を、ウーは補足した。ちなみに、生き残った殺師のニウは戦意を喪失したので、依頼料の残りを剥ぎ取って解放している。
「おやおや! お互いに災難でしたなあ。まあチャ先生、コージャンさんは見境なく乱暴を働く方ではないので、安心してください」
店主は昨日今日知り合ったばかりの男を、いけしゃあしゃあと保証した。万が一何かあったら、コージャンを紹介した父に文句をつける腹づもりである。
一人でも多くの生徒が欲しいノイフェンは、そんな打算など知らずともここで逃げる選択肢はなかった。普段の彼女は気弱な女性だが、塾には命もかけるのだ。
「初めまして、チャ・ノイフェンです! 私、学習塾を経営してまして。ご興味ありませんか? ルア老から聞いてますよ、そちらの息子さんは、大きく見えるけれどまだ九歳なんですよね。初級学校から初級中学まで、うちで全部教えられます!」
富豪のルイが大枚はたいて再開発させた地区は、金持ちと小金持ち、そこまでいかなくともまあ他の都市の中流ぐらいの生活水準を持った連中が集まる。
その中で、家庭教師を雇わない程度の経済力の家を、ノイフェンは狙っていた。よりにもよってまた鉢合わせするとは思わなかったが、コージャン・リーは家庭教師を雇い入れる人間には見えないし、ダメ元で営業を仕掛ける価値はある。
「塾ねえ……最近引っ越してきたばかりで、まだ台堪学校の手続きも済ませてねえんだ。その後でまた、改めて考えてえンだが」
あからさまに乗り気でないコージャンに、待ってましたとばかりにノイフェンは満面の笑顔になった。
「学校なら武海から、ひとっつも無くなりましたよ? 台堪は爆破されました」
「あァ!?」
コージャンの狼狽は罵声と聞き違えそうで、彼女は思わず背筋を縮こまらせた。耐えろ、客を逃がすな、一回殺そうとした相手だけど、と己に言い聞かせる。
「そりゃ一体、どういうこった」
「白楽天大学の武海校園と、発魯大学は残っていますよ。でも、他の小学や中学は、港湾の暴力組合や黒手党に地上げされたりしたんですね……だからこの辺りじゃ、皆さん塾になさいます」
大閻帝国の義務教育は、六~七歳から九年間、初級学校(小学)と初級中学(中学)に通うことと定められている。
そこから先は高級中学(高校)、大学という高等教育だ。
しかし子供たちの未来なんぞよりも、自分たちの利益を優先する犯罪者集団あふれるこの武海市では、まだまだ教育水準は低い。
店主のルアに事実確認したコージャンは、引越し先の条件にこの点を考慮しなかったことをやや悔やんだ。
「学校……ないんですか」
悄然とした声を上げたのはウーだ。
彼はコージャンの隣で、茶菓子に手を付けてもいない。きび糖と蜂蜜、それに少々の醤油で作った飴を絡めたクルミは、普段なら夢中で頬張っているはずである。
それを見ていると、すぐにコージャンの心は決まった。
学校がないから諦めろとは言えないし、学習塾は悪くない選択だ。それにルア太師叔の紹介となれば、無下にも出来ない。
「よし、分かった。じゃあ先生、明日からでもコイツを頼む。学校は七歳の終わりごろまでしか通ってねえんだ。イチからじっくり教えてやってくれ」
「まあ! ありがとうございます!」
ノイフェンは両手を合わせて長椅子から立ち上がった。
(いやいやいやいやいや! 私こいつを殺すはずだったんだよね!? 死にそうにもないけれど! もしイン・キュアから依頼を受けていたってバレたら、すぐさまぶち殺されるんじゃないの!? あんたさっきから私を無視してないで――)
(やった、生徒が増えるわ、爸爸! お父さん! この調子で生徒を増やして、他の教師も雇って、いつか立派な学校を建ててやるだんから! 殺そうとしたから何よ、殺してないからいいじゃない! バレた時はなんでもかんでも言い訳して命乞いしてやるわよ! それに息子の担任教師なら、こいつも少しは手心加えてくれるかもしれないし……)
(ダメよ! ダメよ! ダメよ! 今すぐ断って逃げなさい!)
(嫌! 嫌! 嫌! 一度捕まえた生徒は絶対離さない!!)
(くそ気弱なくせに、なんでこんな時だけあんたは――ッ!)
「あの……チャ先生?」
ひらひらと、目の前で何かが揺れていた。人の手のひらだ。その後ろに、怪訝な店主の顔がある。どうやら、白魂蝶との会話に夢中になって停止していたらしい。
「す、すいません。恐怖と嬉しさのあまりちょっと頭が爆発しました」
「大丈夫か、アンタ。無理すんなよ」
困惑に眉根を揺らすコージャンの横から、ウーが「……た、食べます?」となぜか飴クルミを差し出してきた。それを断って、塾の詳細について話す。
今の生徒は十人ぐらいであること、文房具を無料で差し上げるが、使い切る頃にはそちらで購入してもらうこと、月謝の額面などなど。
トントン拍子に話が進み、歓喜と恐怖で彼女の内面は真っ二つになっていた。