第一節 誰も過去しか見えない
潮騒もまどろむ夜の波止場は、枯れ行く夏の寂しい風が吹いていた。だが波間には腐った食べ物や油が重なり漂い、移り変わる季節の風情などこそげ取られている。
その闇夜に、白目のない虚ろな双眸が、赤く瞳を灯していた。
「コージャン・リー(赫煉理)だ。こいつを殺せ」
場に集まった三人の殺師に、義眼の男、イン・キュア(殷嶽)は古い写真と報酬の額面を示す。前金だけで、数ヶ月は食うに困らない額だ。
インの顔には、真一文字に両目を断ち切られた傷痕があり、生き延びたのが不思議なほどだった。その視力を補っているのが、〝樹械〟義眼・文殊杏花の果実である。
樹械の核・樹霊子――〝人工樹霊〟が工場で効率よく生産可能になって数年。
かねてより都市の基幹施設にのみ利用されていた樹械は、家庭にまで行き渡り、昨今では人体移植にさえ利用されるようになっていた。
各種臓器苗に、生身のものより優れた義肢。その需要は日々増すばかりだ。
「……知っているぞ、この男。手強いなんてもんじゃない」
頭髪を徹底的に剃り上げた巨漢は、訳知り顔に言った。
渡された写真は十数年前、寧順戦争のものだ。土埃にまみれた兵士たちの中、ひときわ凶悪な面構えの男に朱で印がつけられている。
軒轅民族には珍しい赤毛に、恵まれた体躯。歳を重ねた現在でも、とても他人と見間違えそうにない強烈な容姿だ。
「この仕事、三倍はもらわんと割りに合わんな」
剃髪の巨漢、ニウ(牛)はふてぶてしく上乗せを要求した。堅靭性に裏付けされた自信と、相手の力量を冷静に判断した上での申し入れである。
「首を持ち帰れば、五倍でも払ってやる。腕一本だけでも、二倍は出そう」
インは動じない。あくまで目的を達成出来るなら、金に糸目はつけないのだろう。他の二人も、それで依頼に乗り気な様子を見せた。
妖花な柳腰の女、チャ(解)と、陰気な小男、ハー(高)。
「長らく行方がつかめなかったが、新しくここ、武海に移り住むつもりと突き止めた。 これぞ福徳百年目、逃さず、必ず仕留めろ」
「それは……面白い……」
含み笑うようにハーが言う。湿った石の下から聞こえるような、暗く淀んだ声音。示された標的・コージャンには彼も一度煮え湯を飲まされていた。
「モタモタすれば、始末する相手が際限なく増えそうだ」
チャはきびすを返して歩き出す。獲物を横取りする者がいれば、そいつごと殺す気だ。コージャンに恨みはないが、トドメは誰にも譲らない。
彼女にならい、他の二人も場を辞していく。その背を見送って、インは目の傷痕をそっと撫でた。今宵は静かな古傷も、触れれば受けた屈辱を思い出す。
あの日飲まされた憎悪の毒が、イン・キュアを別人のように変えた。
「……思い知れ、コージャン・リー」
弟子を得ようが過去を忘れようが、お前は自分自身がしたことを、臓腑と骨身の隅々に渡って理解し尽くすべきだ。痛みと共に!
◆
晩夏も過ぎた青空を、銀の鱗をきらめかせて怪魚の群れが渡っていく。長い牙と尾を持った凶暴そうな顔で、海のもので言えばホウライエソに似ていた。
見た目の奇っ怪さにふさわしく、ギャアギャアとさんざめくのも、海の魚と空の魚の大きな違いだ。長い石段の下に立ち、少年はその様を物珍しげに見上げていた。
四つ口袋の上着に、揃いの前つば帽子。古着屋で見つけた緑の作業着は、最近の彼のお気に入りだ。十五歳ほどとおぼしき少年に、背広姿の男が上から声をかけた。
「なにやってんだ、ウー。置いていくぞ」
傍で聞く者がいれば、心臓をブチ抜かれそうにドスが利いた声だ。だがウー少年は動じず、むしろ朗らかに「すいません、師父!」と振り返る。
石段の上に立つ声の主は――おお、どこの地獄から現れたのか、その男!
脱走した亡者を追ってきた獄卒が、偽装のため人間の振りをしながら、隠しきれない威圧感で空間を軋ませているような超弩級の強面である。
その名をコージャン・リー。見ての通り極めつけに悪い人相で苦労している。
血と溶岩をこね合わせたような逆立つ赤毛に、虎のごとく発達した犬歯。二公尺近い体躯は筋骨たくましく、眼光鋭い四白眼は見る物に穴を穿ちそうだ。
渓谷のごとく彫り深い顔立ちは、恐怖に耐える胆力があれば、男前と見られるかもしれない。だがほとんどの人間は、出会った端から食い殺されると思うだろう。
「でも見てくださいよ、あれ! 空に魚ですよ魚」
ウーは無邪気に上天を指さした。少年はコージャンに剣術を教わる弟子であり、顔が怖い程度でひるむような脆弱さとは無縁である。
「町中なのに、宙遊魚ですよ。こんな所に、群れがたくさん!」
「あァ、ありゃ灰魚ってんだ。この町、煙いだろ?」
ちょいちょいとコージャンは手招きした。ウーは両手に大きな旅行かばんを提げているが、それを物ともせぬ全力疾走で、百段近くを一息に駆け上がる。
そして、頂上からの光景に歓声を上げた。
「うーみー!」
「前も見ただろ」
町の高台に位置するここからでは、港の様子がよく見える。近くで見ればゴミだらけだろう灰色の海に、箱を並べたような倉庫街。そして、乱立する煙突と、空に逆さのかさぶたを張るような黒煙。だが今のウーには、そんな物は目に入らない。
「汽車の時は夜だったじゃないですか。暗いのも得意ですけど、ほら、えーっと……蝶々みたいです、海は!」
「なんだそりゃ?」
「海の上のキラキラ、白い蝶々がたくさん集まってるみたいじゃないですか?」
「そりゃ文学的だな。日記でも書くか、どうせ学校に行くなら文具も揃えないといけねえし。ちと交通は不便だが、まあがんばれや」
「はい!」
そこまで話してから、ウーは灰魚のことを思い出した。
「それで、師父。煙いことと、あの魚になんの関係があるんですか?」
「おーし戻って来たな。あいつらはな、元々火山の近くで灰を食う生き物なんだよ。それを人間が捕まえて、町に放して、工場の煙を掃除させてんだと」
「へー」
近年普及し始めた火力樹霊発電の弊害は、灰魚の放流によって解決されるだろうと考えられていた。少なくとも当時はそうだ。数年後には灰魚による新たな弊害が起きるが、それはまた別の話。ウーには町の何もかもが新鮮だった。
大閻帝国東部の蘿州発魯半島は、北の法海と東の白海に突き出して、析津半島に向かい合う閻最大の半島である。
その主要都市の一つ、武海市はかつて西の大国・イムダレットの租借地として武海衛と呼ばれていた。
当時の閻国官吏と都市樹霊は難癖をつけて追い出され、半島の法秩序は崩壊。十五、六年ほど前の寧順戦争で返還されたものの、その傷痕を今も引きずっている。
麻薬はおおっぴらに流通し、流氓は抗争を繰り返し、油断すると子供はすぐ誘拐される、まさに「魔窟」! 「死と暴力の巷」!
しかし、そんな治安のザルさがコージャンには都合が良く、山育ちのウーは海が見える所ならどこでも良かった。かくて師弟は武海市最東端・湖鵠の町(湖鵠鎮)に腰を落ち着つけることにしたのである。
◆
大家のルア(劉)は、小柄で陽気な老爺だった。
元はコージャン師弟と同門の神魁流で学んだ門弟であり、コージャンから見れば師父のそのまた師父(太師父)の弟弟子、太師叔である。
何でも四十代の頃に内臓を損傷し、内力を発揮出来なくなったとか。日常生活に問題はないが、武術を演じてもただ踊っているのと変わらない状態だ。
「思ったより立派な家で、ほんと申し訳ねえです」
珍しくかしこまった口調で、コージャンは礼を述べた。堅気の務め人みたいに領帯なんぞ締めているのも、同門の大先輩に会うからこそである。
案内されたのは、高い壁の中、中庭を囲むように四つの家屋が並ぶ古民居だ。
東西南北「四」棟と「院」子と呼ばれる中庭を「合」わせて、四合院と言う伝統の建築様式。一度扉を閉めれば、外界から完全に隔離される。
「なに、前に住んでいたルー(魯)さんが、息子に呼ばれて外国に引っ越しちまってなあ。どうせ持て余していたんだ、二人暮らしにゃ少し広いが、鍛錬するなら場所があるに越したこたない」
ニコニコしながら、大家は簡単に家屋を説明した。
寝室があるのは北棟、厨房と風呂は南棟、西棟は空き部屋が三つ。電話線は引かれておらず、電視函もないが、だいたいの家具は揃っている。
「で、発電樹があれだ」
ルアは中庭の中央に生える、背の高い木を指した。花もなければ葉もない、白銀のように白く金属的な樹木。要するに、発電所から電力を買ってない家なのだ。
「樹霊はまだ寝てるでな、起こすならそちらさんで道士を呼んでくれ」
「分かりやした」
発電樹を触って具合を確かめながら、コージャンは返事した。西棟に関しては、部屋の壁をぶち抜いて鍛錬房に改装する予定だ。
ルアの息子夫婦は、最近新しく雑貨屋を始めたと言う。その用心棒代わりを務める約束と、同門のよしみで、家賃は破格の安さになっていた。
「あー、くそ! 領帯なんざ締めるもんじゃねえな!」
大家が帰ると、コージャンは母屋に入って首元を緩めた。師父のいつにないかしこまった態度に笑いをこらえていたウーは、とうとう吹き出してしまう。
その顔に、コージャンは上着を投げつけた。早着替えで、白襯衫も既に脱ぎ捨てている。せっかくの背広がシワになりそうだ。
「お前もとっとと用意しろ、ホコリまみれで寝たくなきゃ、掃除だ掃除!」
「はい、師父!」
師弟は三角巾をかぶり、前掛けをつけ、腕まくりして窓という窓を開け放った。時間はまだ午前中、カビ臭い空気を何とかしなければ休めやしない。
元がぼっちゃん育ちで、大掃除に慣れないウーは、苦労しながらもコージャンの指導のもとキビキビと動いた。これも新しい生活の準備と思うと、力が入る。
(学校に行ったり、友達が出来たり……普通の生活をするんだ)
コージャンと師弟関係になり一年半、義理の父子となってからはもうすぐ半年。春から夏いっぱいを放浪生活で過ごしたが、それもようやく終わりだ。
一つの土地に腰を落ち着け、家を持って暮らす。それが以前よりもっと、家族になった感じがして嬉しかった。旅だって楽しかったが、いつまでもとはいかない。
とはいえ、ウーにとって一番大事なのはコージャンの剣をすべて受け継ぐことだ。そのために、普通を捨てなくてはならないとしたら? 自分は喜んで捨てるだろう。
「ま、こんな所か」
弟子の胸中を知ってか知らずか、一通り水拭きし、空気を入れ替えた家の中を見て、コージャンは満足した。といっても、まだ一棟だけだが。
「ウー、飯食いに行くぞ。どうせ台所もまだ使えねえしな」
「はい! えっと、町も見に行っていいですか?」
「食い終わったらな。明日も明後日もやることが山積みだ」
師弟は気分良く新居を出た。周囲は、高い灰色の壁に囲まれた胡同だ。
密集する四合院は、老夫婦がひっそり暮らしている所、家族が賑やかに暮らしている所、集合住宅に改築されているもの、空き家と様々だが、壁の向こうのことなのでどれがどれとはよく分からない。
胡同を抜ければ、すぐに大通りが広がっていた。
町のそこかしこには小船が行き交う水路が走り、それに沿って黒い瓦を載せた白壁の家が軒を連ねる。水辺の石段では、特産品の絨毯を洗う人々の姿が見えた。海辺の日差しは秋とは思えないほど強く、家々の白黒をより鮮やかに際立たせている。
最近になって再開発されたここ普城大路は、清潔かつ治安も良好。観光客の姿も見える安全地帯だ。少なくとも、建前上は。
では建前の利かない所ではどうか?
「なあ、ウー。どう思う」
「はい、師父。一つぐらいです」
「ぐらい、じゃなくて言い切れ」
師弟は肌の感覚で、殺気を捉えていた。だがすぐ襲ってくる様子ではない。威嚇しているのか、隠しているつもりで漏れているのか、誘っているのか。
隣り合って歩きながら、二人は誘いに乗ることにした。