第四節 呪われの愛おしき
ウーのやつはさぞかし憤慨していることだろう、斬られたことよりも、その剣技の腑抜けっぷりに。苦々しい思いで、コージャンは飛び散る愛弟子の血潮を眺めた。
彼の意識は現実から分断され、眼の前の出来事を観察することしか出来ない。解呪の心得もあったはずなのだが、その知識も封印されているようだった。
切り裂かれた胸から血を流して、ウーが叫ぶ。
「師父!? どうしちゃったんですか!」
「Улах(殺す)――!」
忘れて久しい故郷の言葉で、自分が何か言っている……今コージャンの体の主導権を握っているのは、幼い頃の彼自身〝カイムタガーン〟なのだ。
いくつか聞き取れた単語からすると、こいつは目の前にいる相手を強盗と思い込んでいるようだ。祖母と母を救おうとして殺した、あの見知らぬ男。
「Кгур мотон ашеер скол яwаш!(ばあちゃんとかあちゃんから離れろ!)」
「何を言って……ああもうっ」
叩きつけられる刀の乱舞からウーは必死に逃げた。壁にかけられた水墨画が、電話が、廊下に置かれた長椅子が、斬り散らされていく。
いつ覚えたとも知れぬ動きに戸惑いながら、カイムタガーンは愉悦していた。それが自分でも分かるのが、我ながら腹立たしい。
「 Ыи чамаигсадай улна!(殺してやる!)」
例え寝ぼけていても、鍛え抜いた体は正確に神魁流の型を演じることが出来る。だが、精神は流派に入門する前の六歳だ。
何も知らない、分かっちゃいないカイムタガーンに引きずられて、今やコージャンの剣技は半分以下にまで落ち込んでいた。
これがウーとの稽古ならちょうど良いぐらいだが、問題はすぐ傍にいる父・エンギンと幼い甥のダイファム、姪のモノンだ。この三人は弟子と違って不死ではない。
その点はウーも承知のようで、三人からコージャンを引き離すように動いていた。六歳児は単純なので、まんまとそれにおびき寄せられているが……。
ざくりと、ウーの肩に刃が深々と食い込む。
「あぐっ!?」
血肉の手応えが、苦悶の表情が、一方的に伝わってくる。動きの止まった腹へ蹴りを入れると、カイムタガーンはそのまま胸へ切っ先を突き立てた。
どくどくと、手の中の柄が拍動に震える……ウーの心臓を握りしめる気分だ。それは柔くも二つに割れて、少年の姿は闇に溶ける。
(かあちゃん、こいつが悪魔なのか)
家族を守って人を殺したカイムタガーンが、今度は家族を殺すのだ。自分に出来ることは何かないのか、この呪縛を振り払える道筋は。
呪縛。今さら認めるまでもない、かつて自分は剣を棄てたいと願っていた。誰を殺すことも争うこともなく、平和に暮らしていければと。
だがそんなものは、夢とも言えぬただの妄夢に過ぎない。本当に棄てたければ、いっそ手でも足でも切り落とすべきだった。
そうしなかったのは、師父や師兄たちと共に技を培った日々もまた大事な思い出で、鍛え上げた身も心も、自分自身と不可分な誇りだからだ。
それが呪いとなって、己の生き方を縛ったとしても――いや、積み重ねた過去に、血肉になった経験に、縛られない人間などいるだろうか?
人はなまじ何かに才能を見つけると、他の道を選ぶことが出来なくなるものだ。呪いも力も心も、自分自身が作った。けれど。
『死んだままだったら、あなたの剣を見れなかった!』
『僕は、僕も、あれになりたい!』
『こんな綺麗なものがあるのに、手に入らなかったら、生まれて来なかったのと同じだ、同じなんだ‼』
自分の剣をそんな風に言ったのは、ウーが初めてだった。
剣技の冴えを褒められ、称賛されたことはいくらでもある。狗琅真人も常々、君に斬れないものはない、と自分のことのように誇らしげに語ったものだ。
だが、コージャンの剣を生きがい、人生の目標と定めた者など他に知らない。それを自分の物にするまで、死んでいる暇などないと……。
つまりこういうことだ。
ウー、お前は俺の呪いを受け継いでくれるのか、と。
さんざん人を殺してきて、今さら安らかな余生も死に方もあるまい。とっくに棄てたはずの妄夢を、どこぞの左道使いなぞにほじくり返されてしまった。
だが、その報いは生き延びてからの話だ。今日か明日か十年後か、とにかく自分は死ぬ、この愛弟子に、息子に業のすべてを託して。
「すみません、師父」
闇の中から輪郭を取り戻し、刺殺死からウーが復活する。離れた所でそれを見ているエンギンらは、どう思っただろうか。だが少年にそれを気にする余裕もない。
ウーは神魁流拳法の開始動作〝新開式〟を取った。右の拳を左手で包む請拳である。意気軒高!
「しくじりました。でも、今度はあなたを止めます」
(そうだ。俺が親父を殺す前に――お前が俺を殺せ、ウー)
呪いごと、魂ごと、ほふってみせろ。コージャン・リーの息子として!
◆
調度の数々を斬り捨てられ、床のあちこちを踏み込みで陥没させられ、壁は所々くり抜かれ――コージャンが暴れた客棧の廊下は酷い有り様だった。
彼と対峙するウーは、一度はその凶刃に斃れ、再び立ち上がっている。
痛みはあった、けれどそれはさして問題じゃない。今コージャン師父がウーの胸を貫いたのは、鑽刀という刺突動作だ。以前も見たことがあるが、まるで別物だった。
姿勢の正しさ、力強さ、動きの敏さ、精神を集中し、それを兵器に込めて放つ意念の仕上がり。その何もかもが、違うのだ。
(違う! 違う! 違う! 誰が師父にこんなことをした? こんなものが――師父の剣なわけがない! だとしても僕に見せるはずがない!)
振り抜いた後、引いた後も神魁流には決まった動作がある。だが目の前のコージャンはそれを無視して、だらしなく雁翅刀を手に提げていた。
師父の動きはもっと複雑で精妙だった。一見すると不規則な動きも、決められた型を組み合わせた架式であり、また架式をつなげた套路である。
こんな状態の師父に負けるようでは、弟子として恥ずかしい。
「行きます!」
床を蹴ってウーは懐へ飛び込んだ。その動きにコージャンは機敏に反応し、軌道上に切っ先を置く。眼窩にそれが突き込まれる寸前、ウーは刀身を握って制動をかけた。その刃はメチャクチャな使い方をされて、あちこち欠けてしまっている。
(ごめんよ雁翅刀、まだ君の名前もつけてあげられていないのに)
刀に謝りながら、ウーはそれを力任せにへし折った。柄から数厘を残して、刀身を床に放り捨てる。掌が裂けたが、指は落ちていない。
ウーはコージャンに正式な弟子入りをしたが、その修業はまだ基礎の段階だ。練習は主に素手で行い、刀剣術と動作の共通する神魁流拳法を学んでいる。
「まだ教わること、たくさんあるんですから。とっとと目を覚ましてください!」
転身劈剣。体を回転して斬り下ろす要領で、拳をコージャンの脇腹へ叩きつける。掌で防がれるが、その手首から嫌な濁音がした。
七十七の【魂】を持つウーは、常人の何十倍という内力を持つ。通常の筋力に加えて、【魂】の力で増幅がかかっている状態だ。だが合理的かつ最大限に力を発する使い方〝勁〟の習熟度ではまだまだである。
コージャンの前蹴りが床に落ちていた刀身を捉えた。刃が飛んでいく方向を思わず見やると、そこに座り込んだ双子たちがいる。ウーの血の気が引いた。
「Хööх!」
「オロー!」
両腕を広げて立ちはだかった老人、その分厚い腹肉に折れた刀が突き刺さる。エンギンは重力に引かれて垂れ下がる刃をそのままに、木製の拳銃を構えた。
銃火と炸裂音が闇夜を散らす。
胸を撃たれたコージャンは、その場に崩れ落ちた。
◆
「まったく、何がなんだか」
ぐびぐびと酒瓶をあおりながら、さすがのエンギンも不機嫌そうに嘆息した。
腹の傷は浅いと自己申告し、応急処置を済ませてある。双子は祖父の背中や腕に取り付いて、片時も離れようとはしなかった。
「ほんと、何やってるんですか、師父」
目が潤むのを隠そうともせず、ウーは床にはいつくばり、げえげえと吐いてるコージャンを見守る。夜目にも黒いそれは、吐き出された端から蒸発していった。
抜け殻に火薬を詰めた虫の弾丸と、全身木工細工の銃。獣から身を護るための備えだと昼間エンギンに見せられたが、その虫弾を受けたわりにピンピンしている。
一瞬死んでしまったかと思ったのだが、近づいた途端に飛び起きてこの有り様だ。まだ襲ってくる可能性に備え、ウーは警戒態勢を解いていない。
「ああ、ちくしょう……ぶっ殺してやる……鼻削いで、顔の皮剥がして……」
「えーと、師父? ですよね?」
「おうよ。よくやったな、ウー。刀はまあしゃあねえが、頑張った」
也亦遜許語ではなく軒轅語で返され、ようやくウーは力を抜いた。傷の手当をしながら手短に説明された所によれば、食事か酒かに一服盛られたらしい。
「酒? オローは大丈夫だったんですか?」
「最近、食後は薬草を噛むのが習慣になっとる。あれが毒消しか何かになったかもしれんな。単に左道使いとやらが、ワシに用がなかっただけかもしれんが」
「左道使いの仲間、部下? ならもう二人ぐらい殺したんですけど」
体内に取り込んだその死体は、まだ残っているはずだ。だがそれを出してみても、双子たちを怖がらせるだけだろう。コージャンが立ち上がって伸びをする。
「他に従業員が隠れてなきゃ、手下どももそんな残ってねえだろうな。いくぞ、ウー。そいつら皆殺しだ」
「元気ですね。モノンとダイファムも脱出させないといけませんし、お供します」
「頼もしい息子と孫で嬉しいわい。まずはこの迷路を抜けんとな」
「まかせろよ」
服の上から巻かれた包帯を少しずらしながら、コージャンは袖に手を入れ、そこから剣の柄を引きずり出した。いざという時の予備武器である。
コージャンは人差し指と中指を立てて拳を握った。
「天に十六、地に八方……違うな。まだ記憶が戻ってきていねえ」
「大丈夫なんですか、師父」
「ちょっと待ってくれ。えーと百事通霊の……あーそうだ、親父、酒くれ、酒」
「父親を酒屋扱いするでないわ」
言いながら、エンギンは酒瓶を投げて寄越した。受け止めて一口グビリとあおり、コージャンは額に指を当ててまた考え込む。
やがて、カッを目を開いた。
「看原形!」
ずだん、と空中に剣を突き入れる。虚空の一点に剣身が飲み込まれて消えるのをウーは見た。コージャンがそれを引き抜くと、細い線のような穴が裂け、ざあっと黒いものが噴き出す。一瞬虫の群れに見えたが、それは一つ一つが小鬼のような生物だった。コージャンは酒瓶の中身を残らず群れにぶち撒ける。
「親父、火をつけろ!」
「ワシの酒返すんじゃぞ!」
エンギンは怒鳴りながら、防水火柴をこすった。火の点いたそれを二本三本と殺到する小鬼の群れに投げ入れる。度数の高い蒸留酒まみれの小鬼たちは、たちまち辺りを火の海で満たした。双子が互いに抱き合って、悲鳴を上げる。
「目を閉じてね」
ウーは捕喰肢を伸ばして双子を包んだ。中で大人しくしてくれているが、気絶しているのか、諦めたのか。ともかくこれで火傷はすまい。
二人を抱えながら、エンギンとコージャンはどうかと見やれば、それぞれ火のない所を見つけて移動したり、外套を振るって逃れていた。ウーもそれに追従する。
波が引くように小鬼の群れが消えていくと同時に、廊下の様相が元あった客棧に戻っていった。コージャンが壊した物は相変わらずだが。
けれど、火はあちこちの床や斬り刻まれた調度品に燃え移っていた。火事になるのは時間の問題だろう。
コージャンはエンギンを背負うと、そのまま階段の方へ走り出す。ウーもそれを追い、師弟は階下へ飛び降りた。眼の前で「ひえっ」と悲鳴が上がる。
「よう、退房手続きしたいんだが」
コージャンに声をかけられて、三人目の従業員は脱兎のごとく逃げ出した。それを逃す二人ではない、が――奥へ入った男を追うと、もう姿は消えていた。
エンギンを下ろすと、何もない壁にコージャンは剣を突き立てる。それは刺さると言うよりも、何の抵抗もなく刃が潜り込んでいるように見えた。
「幻術だな。さっきの野郎も、左道使い本人も、ここにいるはずだ」
「落とし前つけてやりましょう、師父!」
「ワシら外で待っていたいんだがのう」
「あ、どうぞどうぞ」
ウーは捕喰肢からモノンとダイファムを解放した。ふたりとも白目を向いて気絶している。心なしか捕喰肢が湿っぽくて、ウーは床にこすりつけて拭いた。
孫たちを両脇に抱えて去っていくエンギンを見送り、師弟は幻術で造られた壁に向き合う。こんな酷い宿、絶対に文句をつけてやらねば気が済まない。
二人に突撃された従業員はひとたまりもなかった。