爪先の境界線 ―シマ―
僕が生まれた時から、周りにはたくさんのネコがいた。
僕はネコたちに育てられた。ネコ達と遊び、ネコ達と働き、ネコ達と暮らした。
そして僕は、気付いた。ネコ達が案内してくれた神殿と、そこにある書物に教わった。
この世界にいるネコ達は、かつてネコではなかったのだと。
***
ナズナが授業中に酷い頭痛を訴えるなど、いつも一緒にいる3人から見れば大変珍しいことだった。周りに迷惑をかけたがらない彼女ならば、1人でジッと耐えてチャイムが鳴ってから勝手に保健室に出向く。余程耐え切れないのか、足取りもふらついていた。保健委員に連れられて教室を出ていくナズナの姿に、カズキ・アサミ・シュウトはそれぞれ、違和感と不安を抱いた。どうか授業が終わるまで、ナズナが安静にしていてくれるように、と。
「ナズナさん、大丈夫ですか?」
「うん……少し休めば、多分……ごめんなさい、シマくん」
「いえ、これが僕の役目ですから」
授業は友達に頼んでノート見せて貰えば問題ない、と、保健委員のシマは微笑する。
「でも、珍しいですね。ナズナさんって、我慢してしまうタイプに見えますし」
「我慢したかった、けど……ひどくて、どうしても……」
ふっとナズナの身体が斜め前に傾く。
「危ない…!」
間一髪、シマがナズナの肩を抱き、身体を支えた。瞬間、彼はナズナの尋常じゃない体温に驚く。
「ナズナさん、熱ひどいんじゃ…!」
「だい、じょぶ…」
「大丈夫じゃないですよ」
なおも自力で歩こうとするナズナを、シマが抱え上げた。申し訳なさから「ごめん」と呟くナズナに、「気にしないでください」と返すシマ。
そのまま保健室に辿り着いたが、養護教諭は不在だった。職員室に戻っているのだろうか。
「私はいいから、シマくん、授業に…」
「熱測っててください。僕、冷却シートの場所知ってますし」
「……ありがと」
「ナズナさんは、いつもそうして自分で解決しようとするんですか?」
「え…?」
「頼りになりそうな幼馴染みが3人もいるのに」
ソファに座り、背中は壁に寄りかかった状態で体温計が鳴るのを待つ。冷却シートを用意するシマの質問に、ぼうっとした瞳でナズナは小さく答えた。
「……頼りすぎたく、ないんだ……」
「どうしてです?」
「多分……ずっと前から、守られてる、から…」
「何から?」
「…………わからない」
測ってみれば38度7分もあり、シマはナズナの額に冷却シートを貼った。
「わからないでしょうね」
「え?」
「あの3人のうち、誰かが必ずナズナさんの傍にいるんですから。それでこんなに時間がかかってしまったんです」
「シマくん…?」
「いつも、ババ抜きやってますよね。アレの意味、知ってますか?」
「意味…?」
ナズナの胸中から、得体の知れない寒気が湧き起こり、全身に広がっていく。それは、次のシマの一言によって弾けた。
「呪いですよ。記憶を閉じ込めるための」
どくんどくんと速さを増す脈。どこか危うさを感じさせるシマの微笑み。
「思い出していないのはナズナさんだけのようです。だから、僕が直接【こちら】に来なければならなかった……」
金縛りにあったように身動きのとれないナズナ。その頬を撫でて、シマは続ける。
「昔話をしましょう。ある所に恐ろしい【魔王】がいました。名は、アスモデウス。退屈嫌いな魔王は、気紛れにその世界に住む人間を全てネコに変えようと決めました。ですが、【神官】が生贄を用意しました。魔王と永遠に暮らすことに文句を言わない【聖女】を。彼女が魔王と共に暮らすことで、全ての人間はネコにならず救われていました。ところが、彼女を好いていた男が【勇者】となって魔王討伐に来たのです」
シマの語る昔話に、ナズナは涙を流す。
「聖女を奪還すべく、勇者が魔王に剣を突き立てようとした、その時でした。神官の祈りが奇跡を起こし、彼らは皆、【こちら】に転生してゆきました。けれどその後の【あちら】は、悲惨な運命を辿ることになりました。聖女が失われたことで、魔王の呪い通り……全ての人間がネコとなったのです」
授業終了のチャイムが鳴る。だがナズナは、流れる涙を拭うことなく、シマを見つめるしかできなかった。
その物語を、ナズナの心は知っている。その登場人物を、ナズナの心は覚えている。
「田畑は荒れ、家畜は死に絶え、村も街も滅びました。だからネコ達は待ち望んでいるのです……聖女のご帰還を」
風もないのに、バササッとはためくカーテン。と、同時に、勢いよく保健室のドアが開く。
「ナズナっ!!」
「ナズナ!?」
声をあげて入ってきたカズキとアサミの前で、シマはナズナを抱き寄せた。
「邪魔しないでもらえますか? といっても、少し遅かったですけど」
シマの背後の「空間」が歪む。どこからともなく吹き荒れる突風によって、養護教諭のデスクにあったプリントが舞い始めた。
「彼女は僕がもらいます」
「待て!!」
「アンタ一体…!」
カズキとアサミの声が耳に入り、ナズナは反射的に目を向ける。が、やはり体は動かなかった。
「……カズキ、ごめん」
「ナズナ!!」
「私、行かなきゃ…」
「ダメだ!!」
突風の中、手を伸ばすカズキ。だが、その手がナズナに届くことはなかった。
「さようなら。【昔馴染み】の皆さん」
悪意溢れるシマの挨拶を最後に、ナズナとシマは歪んだ空間の中へと姿を消し、保健室の中の突風も止んだ。
残ったのは、床に散乱したプリントと、自らの目を疑うカズキとアサミ。そして、廊下の外から悔やむように拳を握るシュウト。
誰も、何も話そうとしなかった。無言で散らばったプリントを片づけ、風で乱れたシーツを整え、保健室をあとにする。
「……なぁ、」
教室に戻ろうとした3人の中で、口火を切ったのはカズキだった。
「次の授業、サボろうぜ」
真っ直ぐな視線を受け、アサミとシュウトは無言で頷く。3人はカバンの中の財布とケータイだけを持って、外に出た。向かう先は、いつもの喫茶店。
「こうなっちまったら、共有するしかねーよな。どっからどこまで覚えてる?」
「俺は…ほぼ全部」
「ウチも」
「だったら話は早い」
2人の前で、カズキは深く頭を下げた。
「力を貸してくれ。俺は……【向こう】に行きたい。ナズナを、取り戻したいんだ」
***
シマに連れられて来たのは、広い神殿だった。たくさんのロシアンブルーが、2人を出迎える。
「……すごい、こんなに」
「このネコは全て、人間でした」
「私が、【こっち】からいなくなったせいで」
「そうです。けど、貴女は帰ってきてくれました。【聖女ナナ】として」
その言葉に反応するように、ロシアンブルーが光り出す。神殿の中だけでなく、外にも同じ光が見えた。
「聖女様!!」
「信じておりました!」
「ありがとうございます、本当にありがとうございます…」
人間の姿に戻った人々が、とっかえひっかえでナズナと握手をする。戸惑うナズナの横で、シマが高らかに宣言した。
「さぁ皆さん! 荒れたこの世界をよみがえらせましょう!!」
「シマくん、私は何をすれば…」
「【ナナさん】は、【こちら】で生きてさえいてくれれば良いんですよ。もう貴女の自由を縛る魔王はいませんし、身勝手な勇者も神官も、【あちら】に置いてきたのですから」
身勝手……本当にそうだったのだろうか。自由を縛る……本当にそうだったのだろうか。ナズナの中には、【聖女ナナ】として生きていた頃の記憶が、まだ全て揃っていなかった。けれど、直感的にシマの評価を否定したくなる。ナズナがナズナとして【向こう】で生きてきた間、幼馴染み3人はいつだって味方してくれた。心配して、怒ってくれた。一緒にババ抜きして、笑い合って、喜んで、勉強して、出掛けて……――
ぽろぽろと、涙が零れる。
「聖女様でも、ホームシックになるんですね」
そう言ってシマは、ゆっくりとナズナの頭を撫でた。
安心してください。続きますよ。