夢現
黒兎は断熱材に横になると吸い込まれるように睡魔に眠りへと誘われた。
眠っている間黒兎の脳では二日分を超える情報が整理されようとしていた。
黒兎の脳で記憶整理が始まり、記憶領域内では過去に黒兎自身が一緒に一部の体験をしていたために、その時の記憶も刺激され始めた。結果、刺激された記憶も夢となって同じカテゴリーの脳内メモリへと整理されていた。
眠り始めてそう時間もたたない頃、黒兎は夢を見始めた。
高校に上がるだいぶ前、まだ男も女もなくみんな一緒に遊んでいた頃の無邪気な幼い自分たちの夢だった。
そこでは、黒兎と晏奈それに他の子どもと何人かでおままごとをしている夢だった。
公園での何気ないシーンを切り取ったような夢。
男性が一人おままごとをしている黒兎たちに近づいてきた。誰かの親だっただろうか、その顔をどこかで見たことがあった気がするけどどこで見たのか、誰なのかは思い出せない。その男は晏奈を連れて行った。晏奈の父親ではないのに、それもどこか遠くへ、黒兎の手の届かないどこかへ行ってしまうような気がした。
幼い黒兎はただ他の子どもたちとおままごとを続けていた。晏奈がバイバイと手を振っているのも無視して。
黒兎は幼い晏奈に手を伸ばそうとしたが夢の登場人物ではない黒兎には止めることも触れることも声を出すこともできない。
晏奈が遠へ行ってしまうというのに、ただただ、他の子どもと遊んでいるだけの幼い自分をとても腹立たしく思った。幼い自分に晏奈が今遠いのかも近いのかもよくわからないところにいるということがわかるはずもないのに。
黒兎はただ、歩いていく幼い少女の背中を見ることしかできなかった。
世界がぼやけていく、世界が暗くなっていく。
見えるものすべての輪郭が薄れて溶けて夢の世界は終わりを告げた。
夢が終わった。にもかかわらず、黒兎の意識ははっきりとしたままだ。
夢を見ている時自分は夢の中にいると認識できるという明晰夢があるということを知っていたが、夢が終わっても再び意識が薄くなり眠りにつくことも目が覚めることもないというのは聞いたことがない。
もしかすると、今自分が見ているというには違うが、これは夢の続きなのかと黒兎は考えた。
黒兎は幼い晏奈を連れて行ったのはいったい誰なのか、そのことを考えていた。
「く・・・ん」
まだ夢の世界は終わりを迎えたままの何もない、何も見えない世界だが、なにか聞こえた気がした。
意識を音の方へ集中させると次第に声がはっきりと聞こえてくるようになった。
「くろ・くん」
「くろとくん」
「黒兎君」
その声は聞き間違うはずのない。物心がついた頃から聞きなれている声だった。
明石晏奈、この黒兎、深月、風葉という三人を家に閉じ込められるような事態になる発端となった人物だ。
「黒兎君わかる?」
何を言っているんだわからないわけがないだろ?と黒兎はたった数日会っていなかっただけで、何年もの間離れ離れで暮らしていた感覚に似たようなものを感じた。
もしかしたら、晏奈が元凶で自分たちをこのような状況に陥れた犯人である可能性があったが、知らずに涙に似たものを流していた。
「泣いちゃだめよ、男の子なんだから」
そっと何かが自分の頬に触れた感覚を感じた。
その瞬間世界が光に包まれピンク色の花びらが世界を彩っていく。
「夏なのに季節感なくてごめんね」
桜の咲く丘、黒兎はそこに立って丘の周りに沿うように生えている桜とは別の中央に一本だけ咲く大きな桜の木を見ていた。気づけば先ほどまで見ていた夢とは違い体があるのがわかる。
「ここは夢の中なんでしょ?なら季節も何もないよ」
声も出せる。が、声はするのに肝心の晏奈の姿が見えない。
「そうだね、これはたぶん夢の中。だから本当におんなじものが見えているのかちょっと不安だったけど、大丈夫みたいだね。だけど夢とはちょっと違うかな?ほら、意識もあるし体も自由に動かせる。それに目が覚めてもここでの記憶は覚えているはずだよ」
桜の木の陰から晏奈が歩いて出てきながらそう言っていた。黒兎は晏奈が洗脳されているとノートの内容から知っていたつもりだが、今話している晏奈は黒兎の知っている晏奈と何ら変わらないように思えた。
「夢だけど夢じゃない?」
ここは夢の中の世界、黒兎自身が晏奈を補完していてもおかしな話ではない。
「うん、私の見ている夢をベースに私と黒兎君の意識を繋いでいるの」
双子なんかだと同じ夢を見たなんて話もあるが、意識的に自分と他人で夢を共有するという話を聞いたことがない。
「ん?それじゃあ僕は晏奈の夢の中に入っているってこと?」
「そうだよ、私が招待したの」
意味は違うが胡蝶の夢のようだと黒兎は思った。これが、自分の見ている夢なのか、晏奈の言う通り本当に晏奈の見ている夢なのか、実際はどうでもよいことなのだ。そこに黒兎と晏奈がいる、ということに意味がある。
「それじゃあ、十五夜と水本は?いないの?」
「残念だけどそれはできないかな、風葉ちゃんは呼べるかもしれないけど、そうするとここを維持できなくなってきちゃうから」
今どこにいるのか、今誰といるのか、今何をしているのか、どうしてこんなことをしているのか、言いたいことは山ほどあるのにまず黒兎は自然と彼なりに普通の会話をしようとしていた。この会話の中で覚悟を決めておきたかったからだ。
「この夢がどういう風にしてできているのか十五夜なら興味深いってくいついていたんだろうけど残念だったな」
「そうだね、十五夜君はそういうの好きだもんね」
「僕も本当に晏奈と同じ夢を見ているかどうかは信じていないけど、それでも、会えてよかったよ。このまま別れは嫌だったからさ」
「私がどこか遠くに行っちゃうみたいじゃない。私は遠くに行きたくないし、黒兎君を遠くに行かせたりはしないよ。ねぇ、聞きたいことあるんじゃないの?もっと重要なこと」
「あるけど、怖くて言えなかった。晏奈が僕たちをこんな目に合わせたんじゃないかって」
「ごめんね、ごめんね。もう私には私を止めることができなくなっていたの」
「自分でも自分を止められないってどういうこと?」
「あのノート見た?」
「ベッドの下にあったやつ?」
「うん、それ。あれが私の精一杯の抵抗」
風葉が言うにはあのノートには晏奈が洗脳されていくようだって言っていた。洗脳されている中での抵抗ということだろうか、黒兎はそこまで考えてある矛盾に気がついた。
文面上で洗脳されたように感じるということはそうとわかるような表現があったはずだ。そんなわかりやすい違いがあったのなら晏奈の休む前から洗脳されていたなら気がつく。晏奈が洗脳されたのが休んだ日またはその前日の放課後だったとして、風葉がいうような洗脳されていったと、段階を踏むような表現をしないのではないか。
「ねぇ、君は僕が知る晏奈なの?」
「そんなことを言うなんて、黒兎君はひどいなぁ。でも、わかるよ。少し説明がわかりにくくなるかもしれないけどいい?」
「その説明を聞けば判断できるならね」
「そればかりは最終的に黒兎君にこの私が信じられるかどうかだと思うなぁ」
「えっとね、まずは結論から言うと私は今人格のようなものが二つあります。一つは洗脳されたというか完全にいいなりみたいになっている私。もう一つがもう自分の意志では表に出られなくなったがこの私。」
「だから、現実に関して私は私の行動を制御できなくなっているの」
「まずここまではいい?」
「うん。続けて」
「そして、今の黒兎君たちの状況を作るのに協力しちゃったのがいいなりの私」
「質問の答えにならないけど、やっぱり、私が私であるって証明することはできないよ。私は私を明石晏奈だと思っているし、あなたはあなたが白崎黒兎だと思っている。今この瞬間にそれを証明しろって言っても無理な話だよ。だから私は私たちの思い出の場所、明石晏奈と白崎黒兎の関係にとって大事な話の舞台をここに再現したの」
「それがこの桜の咲く丘?」
「あの時は明るくなかったからすぐに思い出すのは少し難しいかもしれないね、ちょっと待ってね」
晏奈が桜の幹に手を当てると徐々に空が暗くなっていき次第に月明かりだけになった。
月明かりの下桜の木の下に片手を幹に当てこちらを見ている彼女の姿は、幻想的に感じられた。
「あの頃はまだこの桜もあったんだよ。私たちの想いでの桜」
「あ!」
なぜこんな大切なことを忘れていたのだろうか、黒兎は自分自身が不思議で仕方がなかった。
「思い出してくれた?」
「これは、あの時の桜か、ここはあの公園か」
「そう、ここは明石晏奈が白崎黒兎に心を開いた場所、それと同時にあなたを特別な人として意識するようになった場所。」
あれは春の夜に起こった出来事だ。
家出なんて本当にどこにでもあるような話かもしれないからこの話が特別な体験じゃないかもしれない。
晏奈から聞かされた気がするけど今となってはもう思い出せない。家出のきっかけも些細なことだった気がする。
小学生の考える家出だ。考えることなんてせいぜい友達の家に行く、そんなところだろう。
晏奈の母親は晏奈から家出する宣言をされていたらしく、行きそうな晏奈の友達の家の人に電話をかけて確認をした。
小学生の娘がわざわざ宣言してから家出するなんて可愛いじゃないか、だから晏奈の母親は止めずに気のすむまでお友達と遊んできなさいくらいの感覚だった。
その電話を近くで盗み聞きしていた幼い僕は一大事だと思って、当時そんなに仲が良くもなかったけど、すぐに外に探しに行った。
結局晏奈は電話では居場所が見つからなかった。ここで大人たちも本格的に探し始めた。
近所のコンビニや公園、子供の足で行けるだろうという範囲を探したけど見つからなかった。
僕はなんとなく自分ならここがいいなって思っていた少し遠いし一人で行くには怖いけど桜の綺麗な公園に行ってみることにした。子供の足ではつらいし、途中で心細くなって泣きそうにもなったし引き返してもう布団に入りたいなとも思っていた。
晏奈の親たちが再度電話をかけて友達の家に言っていないか確認していると次は僕までいなくなったことになっていた。
僕が桜の咲く丘の公園に行くと、桜の木の下で少女が倒れていた。幼い僕はすぐにその少女は死んでしまったものだと勘違いをしてしまった。
桜の木の下には死体が埋まっていると信じていたからなおさらだ。
僕はそこに倒れている少女が桜に食べられる前に助けなきゃと思って既に棒のようだった足で走ってそばに駆け付けた。駆け付けると電話で聞いた家出少女晏奈だとわかった。
どうすれば助かるとかなんてことは全く知らなかったから、晏奈の体をただ揺らすだけだったけど、すぐに目を覚ました。
もちろん晏奈は死んでいたわけはなく家ですると意気込んで、誰にも見つからないところに行こうと思って、この公園に来たけど着いたらついたで寂しくて怖くて泣いたらしい。
その証拠に目が晴れて赤くなっていた。
僕たちはしばらく話をした。内容については覚えていないけど、たぶんその時の家出したわけだとか両親の悪口がほとんどだったと思う。
そのうち、晏奈は帰りたいというようになったけど、ここに来るまでで足をくじいてしまったらしく痛くて歩けないと泣いた。
僕はそんな晏奈を僕自身も限界みたいなものだったけど男の子の強がりで、だったら僕がおんぶして家まで連れて行ってあげるよと、家まで晏奈をおんぶして行った。
晏奈は途中で寝てしまって晏奈の家がわからなかったから僕は僕の家に行って僕の母親に会うと安心からか一気に力が抜けた。それからもう夜も遅いからとお説教は次の日に持ち越しになっていいことをしたのになんで怒られなきゃいけないのか不思議で仕方なかった。
それからだ、僕と晏奈が仲良くなったのは。
「あの夜、僕はなんで仲良くもないただただ近所に住んでいるだけの女子のために、あんな頑張ったんだろうな?」
「それを知っているのは黒兎君だけだよ。私はあなたの行動にすくわれた側」
「あんなの誰が見つけても同じだろ、相手が違うだけだ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だけど、今一つの真実としてあるのは、あの時私は変わったっていうこと。あなたのように人の助けをしたいと思っているんだよ。私自身引っ込み思案とか人見知りとかでなかなか、思っていることを行動にはできていないんだけどね」
「そうか?僕には笑顔のイメージしかないんだけどな」
「私が家出した日の夜に、黒兎君が見つけてくれたでしょ?あの時の黒兎君私が起きるときまでは泣いてたけど私がちゃんと起きてからはずっと笑ってたんだよ。」
晏奈はニコリと笑った。
「あの時私が黒兎君からもらった笑顔は今でも残っているの。だから私はこうしてずっと返しているんだよ」
黒兎にしてみればあの日の自分が何を思っていたのかも細かい動きも覚えていない。覚えていることは、電話を聞いて行かなきゃと思ったこと、丘にある公園をなぜか目指したこと、自分が晏奈を見つけたということだけだ。
「僕はそんなもんじゃないよ」
「私にはそう感じたよ。だからこれは私が好きでやっていること、私は黒兎君と一緒にいるときは笑顔でいたいと思っているよ」
晏奈の笑顔が徐々に暗いものになってきた。
「じゃあさ、そんな悲しい笑顔するなって。そんなのは似合わないよ。もっとさ明るくしてくれよ」
「私は黒兎君たちをこんな目にあわせた人間なのよ。そんなの笑顔でいられるわけないじゃない」
「でも、晏奈は望んでいなかったんだろ?」
「私もこんなことがしたかったんだって思いたくないよ。だけどね実際にしちゃったんだよ。それってさ、私にそういう気持ちがあったって事でしょ?」
「でも、助けたい気持ちもあるんだろ?あのノートを残してくれたことだって、今僕に会っているのだってそうだろ。違うのか?」
「もちろんそうだよ。私は黒兎君たちにひどいことなんてしたくないよ。一緒にいたいよ。でももう、こんな私じゃあさ、それって都合よすぎるよね」
「そ、それは、晏奈は操られていただけなんだから・・・」
すぐにそんなことはないと黒兎は言ってあげられなかった。操られていたと言っていても監禁されているような状況の原因となったのは紛れもない事実なのだから。
「こんなにつき合わせちゃってごめんね」
「それって僕たちが晏奈の家にいること?それとも僕が晏奈の夢にいること?」
「どっちもかな、本当は伝えたいことがあって黒兎君をここに呼んだの」
「伝えたいこと?」
「まず一つはもう時間がないってこと、そこは空気の出入りもない完全な密室になってるから何時間後には酸素不足になっちゃう」
「ちょっと、待って。僕たちはそもそもどういう環境にいるんだ?晏奈の家は今どういう状況で家の外はどうなっているんだ?」
「うん、そうだね、そういうところの説明もしなきゃいけないね。見ていたけど私の家の外の時間が止まっているというのは間違っているよ。時間が止まっていたら黒兎君を私の夢に招待なんてできないし」
「じゃあどういう理屈で窓の外の景色が変わらないんだ?」
「それは私にもわからないけど、たしか黒兎君たちが入った時に私の家を亜空間っていうところに飛ばしたって言っていただけからそこはまず私たちの知っているどの場所でもない空間なんだって」
「それ、誰に聞いたんだよ、いったい誰がこんなことしてるんだよ?」
「ごめんなさいそれは私に誰がとかは言うことができないの」
「なんで?洗脳とかは関係ないんだろ?」
「そのはずなんだけどなんか誰か思い出せなくて、ごめんね」
「今犯人が分かったところでどうしようもないんだけどさ、それで亜空間って?」
「ごめんなさい私にはそういうことよくわからなくて、十五夜君にでも聞いてくれるかな?」
「わかった、それでまず一つって事はほかにもあるんでしょ?」
「次は脱出方法のこと、脱出っていうかその状況を壊す方法。その家に亜空間に家を固定する装置っていうのがあって、それを止めれば亜空間に家そのものが維持できなくなるらしいの」
「維持できなくなった家はどうなるの?」
「わからないって言ってた。もしかしたらもともとの座標に戻るかもしれないし、維持ができなくなった家が消えたりまた別の空間に飛ぶかもっていってた」
「そっちから俺たちをそっちに引っ張ることはできないのか?」
「もともとそういう予定はないみたい。だから私の家を亜空間っていうところに飛ばした段階で後は観察だけみたいなことを言ってた」
「観察ってそっちはどうやってこっちを見ているんだ?」
「なんか存在維持の安定度みたいなのを計るのがあって、家の骨組みみたいなのが画面に映っていて、そこに少し肉を付けた棒人間みたいなのがうつっていて、ええとごめんよくわかんないよね」
「なんかよくわからないけど見られてるって事はわかった。天井とか床とかに穴をあけてごめんな」
「そんなことはどうでもいいよ、もしかしたら私の家なくなっちゃうんだから、それと、もうそろそろ夢から覚めちゃうみたい。この夢でのことは私が教えたって二人には言わないでね、一応会話も聞かれているみたいだから」
「わかった。それで僕たちはその装置を探して止めればいいんだね。どこら辺にあるかはわかる?」
「家の骨組みみたいな画面でみたのはたしかキッチンのあたりだったかな。私はその装置を止める以外の方法を知らないから、もし他にもっと安全な方法があったらそうしてね」
「十五夜もずっと装置を探していたからきっとどのみち同じことだと思うよ」
「それじゃあ、最後に」
晏奈は一息深呼吸をして何かを決めたような顔をした。
「こんなことをしてなんだけど」
晏奈は黒兎との距離を縮めて黒兎の唇に自分の唇を重ねた。とっさの事に黒兎は反応できずにその行為を受け入れた。
「私はあの時からずっと黒兎君が好きだった。それが恋ってわかるのはもっとずっと後のことだったけど、いきなりこんな時にこんなことをしてごめんね」
晏奈の顔が赤くなっていって今にも泣きそうな声になっていた。
「晏奈、僕は」
「告白の返事は夢が覚めてそれでも覚えていて、私のところに来たら言ってちょうだい。それがイエスでもノーでもいいからさ。」
もう涙があふれてまともに相手を見れなくなっていた。
「絶対に私のところに来てよね」
その瞬間桜がすべて散って世界が輪郭を失い始めた。