幼馴染の真意は・・・
二人が晏奈の部屋に入るとベッドの台を机代わりに黒兎はまだルーズリーフに意識を失っている間にみたものの内容を書いているようだった。
「白崎どうだ、まとまったか?」
「いまいち何をどう書いていいのかよくわからなくてね」
「他人の一日の体験レポートなのだからわからないと言われてしまえば仕方がないと言わざるを得んな。しばし、手をとめてこちらの話を聞いてもらいたい」
「何か見つけたの?」
「まあ、そう思ってくれて構わない。水本嬢、説明頼む」
風葉はノートの先ほど見たところを開きながら
「このノートの事なんだけど、白崎には何が書かれているか見える?」
「僕にはわからないな」
黒兎は風葉の開いたページを見ながら言った。そのページは風葉にしか見えないということだった。
「じゃあ、これはうちにしかわからないってことなのね、うん、わかったわ。ここに書かれていたのは端的に言えば、晏奈が洗脳されていくって感じるような内容よ。それもそれが始まったのはここ最近というわけじゃないような」
「じゃあ、晏奈は洗脳されてこんなことしているっていうのか!」
黒兎の声に力が入った。自分の幼馴染が自分の知らないところで洗脳されていて、しかも晏奈がきっかけのようなもので黒兎、風葉、深月の三人は現在この明石家に閉じ込められるという状況に現在ある。
晏奈が自らの意志でこんなことを画策したのであれば許せると言いうわけではないが、誰かに支持されて、誰かに命令されてこんなことを起こさせられたというのが特に頭にきていた。
「そうよ。最初はどちらかというと相談みたいな感じで書かれているの『私はどう接していればいい?』って感じで。それで最後の方は『何をすればいいの?』って自分のこれからの行動を聞くようになっていったわ」
「そう、僕はそんなことになっている晏奈の変化に気がついてあげられなかったのか・・・」
黒兎は誰に言うでもなく自分を責めるようにそう言った。
「じゃあこんなことするようなやつに洗脳されているっていうならさっさとここから出て晏奈を戻してやらなきゃな」
「その通りだ。俺たちはここから出なければならない。残念なことにこのノートは俺に読むことはできないようでその点は力になれなくて多少心苦しいが、どうにもできないことにくよくよしても何もうまれん。俺は俺のできることをしよう。外の色が変わらず時間の感覚が薄れてきてはいるがそろそろ腹が減らんか?」
「あんたにできることって料理ってこと?」
深月は風葉の手からノートを取って
「料理に関して言えば俺はここにいる三人の中で一番料理がうまいと思っている。そして、このノートの管理だな。今のところ俺にだけ影響はないからな。俺が持つのが一番安全だと言えよう。まあいい、リビングにこい、特に白崎には脳に栄養分を与えなくてはならん」
「勝手に冷蔵庫のもの使っていいのかな?」
「監禁状態で冷蔵庫に食料があるのだから問題なかろうよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて作ってもらおうかな。僕はレシピ見ながらじゃないとまともな物を作れないから」
「うちはなんか作る?」
「水本嬢とはいえ女子の手作り料理というのはとても魅力的だが、水本嬢には水本嬢の見たノートの内容のまとめをしてもらう。白崎も同様だ」
「水本嬢とは言え女子っていうのはなんかちょっと引っかかるけど、わかったわ」
「了解」
三人はリビングに移動すると
「ねぇ、あの穴なに?」
黒兎は深月が床下を探索するために風葉と共に床下を剥がして作った穴を指して言った。
「ああ、あれか。あれは俺と水本嬢の努力の結晶だ」
「間違ってもないけど、正確にはこいつが床下潜るための穴ね」
「僕がルーズリーフにまとめ書いてた時にそんなことしてたんだね」
「まあな、天井に穴をあけて天井裏も見てきたぞ」
「何やってるんだか、穴開けてばかりなのか」
「正攻法ではいけないところはやはり穴をあけるしかないだろ」
「十五夜って頭いいのに時々馬鹿だよな」
「おっと、それはもとの俺への評価が高いだけだ。残念だが俺は俺自身を理知的だと思ったことはないさ。オカルトが好きというのも一般的に考えればあまり頭がいい利口者とは思えないしな。むしろ頭がおかしいやつという印象を受けかねない」
「あんたが変態だっていうのは少なくともクラスの共通認識よ」
「おっと、変態とは心外だな」
「自分でいま頭おかしいやつって言ったじゃない」
「それは、自己評価とは違うのだがな。まあ、そんなことはどうでもいいせっかく俺が料理をごちそうしてやると言っているんだ席にでもついていて待っていてくれ」
「あんた、そんなに偉そうだったっけ」
「気のせいではないか?」
黒兎と風葉はリビングにあるテーブルの席に着き、深月はキッチンの冷蔵庫へ向かった。
「ところで、何か夕食のリクエストはあるか?生もの以外なら大抵料理できると思うぞ。」
「うーん、リクエストって言われるとなー難しいよね。テレビとか見ていて急にテレビで取り扱っている食材を使ったものとか料理そのものを食べたくなる時があってもこの年で何食べたい?なんて聞かれないから」
「うちは美味しければ何でもいいわ。極論肉焼いて焼肉のたれあれば充分よ」
「さすがにその感覚は女子として致命的ではないか?」
「僕でももう少し何かキャベツの千切りあたりが欲しくなるところだな」
「栄養となればすべて同じよ」
「そう言われてしまうと作るこちらもメニューに悩んでしまうな。とりあえず水本嬢には焼いた肉とちぎった野菜と米を出せばいいか。白崎よ、俺たちはどうする?」
「ちょっと、うちだけ別メニューでしかも手抜きっておかしくない?それじゃあ、何かスタミナ着きそうな料理と呼べるもので」
「スタミナ料理か」
深月は冷蔵庫の中を確認すると牛、豚、鶏の生肉や卵なんかのたんぱく質を中心にしようと考えた。
「では、牛豚鶏でどれがお好みかな?」
「それだったら、女子的にも鶏がいいわね、低カロリー高たんぱく」
「なるほど、大体方向性は決まった。メインは親子丼でいいか?」
「それでいいわ」
「うん、それでいいと思うよ」
スタミナ料理というお題に対して親子丼という回答はちょっとずれている気がしないでもないと二人ともそう思ったが、決まればそれでよかったためあえてそのことを言おうとは思わなかった。
深月が手際よく料理をしていくその姿を見て風葉は料理を全くしない自分の女子力というものをこんな状況でありながら考えてしまっていた。晏奈なら料理もできるんだろうなと思いながら。
「ねぇ、ところで一品だけなの?」
「男の俺たちはそんなものなのだが水本嬢は違ったか?」
「なに、さりげなくうちを男のカテゴリー入れてんのよ。うちも一品ものにサイドメニューつけないで食べるけどさ」
「ならば、問題なかろう、念のためにあまり多くの食材を使いたくはないからな」
冷蔵庫の食材はびっしりと入っていたせいかそれほど温度が低くなく深月の見立てでせいぜい五日持たないくらいの感覚だった。これからどのくらいかかるかもわからない脱出に初日から贅沢に食材を使うわけにはいかずにいた。
親子丼に使う少し奥にあった鶏肉を取り出す時、なぜか奥の方が温度が高いことに気がついた。
「ところで、ごはんってどうなの?親子丼って言ったけどさ。炊いてるわけじゃなかったわよね」
「そちらは今、具と平行して土鍋で炊いている。土鍋ごはんというやつだ」
「へぇ、ごはんってそんな感じで炊けるんだ」
「待ってるだけってのもなんかあれね、手持無沙汰ってやつね。何かしたくなってくるわ」
「そう?僕は人が料理している姿見ているっていうのも好きだけどな」
「ふむ、人によってそんなとこにも違いが出るのか。手持無沙汰というのならばノートの内容をまとめていてくれ。俺の作る料理に一切の手を加えさせるつもりはないからな」
「いつからキッチンの支配者になったのかしら。わかったわルーズリーフ取ってくる。あと女の私が言うのもなんだけど男の料理姿見ているのが好きってだいぶ変わっていると思うわ」
「僕も書くべきなのだろうけど、ここで待つだけにしておくよ。少し休憩した方が書きやすくなると思うんだ。あと、男女関係なく料理する姿を見るのが好きなんだよ」
「食事中、食事前後三十分はゆっくり休んでいろ、根を詰めても効率とパフォーマンスが落ちるだけだと俺は知っているからな。本当は水本嬢にも休んでもらいたいのだが、まあ今はおそらく止めるべきではないのだろうがな」
「そういう深月は休んでるの?」
「ああ、自分の行動の合間に休んでいるから安心しろ」
「そういうことを言う十五夜がちゃんと休んでいるならいいんだ。医者の不養生っていうのかな、そういうのってよくないからね」
実際深月はこの家に入ってからほとんど休んでいない放課後から深月の時計で午後七時までの三時間程度ではあるが、体か頭を常に働かせている。黒兎には深月の行動をほとんど共にしていないため何をしていたのかなどは細かくはわからない。
だけど黒兎の経験上、表面にはほとんど出していなくても今回はだいぶ特殊なケースだが興味をひかれたものには全力で当たるのが十五夜深月という男であると知っていた。
だから今回一番労力を使うのが深月であるということもなんとなく予想できていた。
「もうしばし、ご飯が炊けるまで待っていてくれ、それで完成だ」
深月は土鍋の様子を見ながら言った。
「ところで、スマートフォンって圏外でも正しい時間なの?」
「GPSを介して時刻情報を得ているものや携帯会社の基地局と同期して時刻情報を得ているものが主だ。それらの情報が得られなければそこらのデジタル時計と変わらんようになる」
「じゃあ、この時計はほとんど時間のずれはないってことだね」
「ああ、そういうことになるな」
「圏外じゃ、スマートフォンもただのメモ機能付き時計程度にしかならないんだ」
「文明が生んだ生活をよりよくする多機能便利機器は文明から離されとたんに多機能でも便利でもなくなるとはな」
「皮肉なものだねってやつなのかな」
「そうだな」
風葉が自分の鞄から筆箱とルーズリーフを持って来てテーブルの上に置いた。
「さて、ご飯も炊きあがったことだし、水本嬢が来たところで夕食といこうか」
「うちがこれらを持ってきた意味は?」
「残念だな、なかったようだな」
「まあまあ、それは夕食が終わってからということで」
「どのみちやるんだし、いいか。じゃあまずは今後のための腹ごしらえね」
「さあ、冷めないうちにどうぞ召し上がってくれ」
深月はテーブルに親子丼を三人分置いた。
「なにこれっ、卵ふわふわだし鶏肉ジューシーになってるし、そこら辺のお店のよりも美味しいんじゃないの?」
「たしかにファミレスとかで食べるようなものとは段違いに美味しいね」
「おほめ頂き光栄の至り」
「悔しいけど今回に関しては当たっているのよね」
「深月って普段料理してるの?」
「むろん、俺は自炊生活だからな」
「一人暮らしでもコンビニ弁当とかばっかりって人も多いって聞くけどな」
「俺はそんな添加物まみれの食べ物を頻繁に口にするつもりはないからな。そして俺が作った方が圧倒的にうまい」
「今度からこいつの家でご飯いただこうかしら」
「うん、そう考えちゃうぐらい美味しいよねこの親子丼」
「よせよせ、そろそろ俺とて照れてきてしまうではないか。ああ、少しなら余りがあるぞ」
「まんざらでもないくせに、あ、うちお替りお願い」
「白崎はどうだ?」
「じゃあ、お願い」
深月は黒兎と風葉から器を受け取り残りのごはんと具を二人に分けた。
「少し冷めてしまったが勘弁してくれ」
「まだ暖かいし美味しいよ」
「喜んでもらえて何より」
先に食べ終わった深月は二人が食べ終わるのを待ちつつ自分の使った食器を片付けていた。
「ごちそうさまでした」
「洗うのはうちがするわ」
「水を無駄にするのではないぞ」
「わかってるわよ。どんぶりの方はラップ取るだけでいいんだしフライパンと鍋洗うのにそんな何本もボトル使わないわよ」
「では、俺と白崎は洗い終わるまで休憩とさせてもらおうか」
「ええ、いいわ」
そう言うと風葉はキッチンのシンクのところへ行きIHからフライパンと鍋をシンクに移し水の入ったペットボトルをそのうえで逆さまにした。
「水本嬢よ、もう遅いが親子丼の具を作ったフライパンの方は先に紙かなんかである程度拭いてからの方が節水できるぞ」
「悪かったわね」
風葉はそのままスポンジで洗剤を泡立てて二つを洗っていく。
「さて、白崎よ、頭の方に何か異変はないか?」
「うーん、とくにはないかな」
黒兎はここに閉じ込められてから二度気を失っている。気を失っている間は本来知るはずのない晏奈と過ごした日を見ていた。その気を失っている時間が五分程度に対して晏奈の過去を見て記憶として保存される時間がおよそ半日だ。
あまりにもバランスがつり合っていない上実際にではないといえ一日で黒兎は午後七時にして既に三十時間近くもの情報を体験している。
人が夢を見ている時間は起きる直前の数十分の間だというが、黒兎の場合夢に当たる時間が長すぎる。それによって脳がオーバーヒートしてしまう可能性があると深月は危惧していた。
「何か異変があったらすぐに言え。俺たちには何もすることが出来ないかもしれんが、出来うる限りの対処をするつもりだ」
「どうも、ありがとう」
「お前はここを出るカギなのだからな。丁寧に扱われるのは必然というものだ」
「僕は物扱いですか」
「そういう意味ではなかったのだがな」
「僕にはそういう風に聞こえたんだけどな。」
「言葉の綾というやつだ。話を戻そう、意識を失っている間は明石嬢の過去の追体験でよかったな?」
「そうだよ、完全に一人の時の行動はそう言い切れないけど、誰かと二人だとかそういう状況ならそれがあっているのか答え合わせできるし、さっき水本と軽い確認したからそうだと思う」
「意識を失った後に頭が痛くなるんだったな」
「しばらくすれば痛みが消えるよ」
「それはどのあたりだ?」
黒兎は耳の少し手前の位置を指で指して
「この内側っていうのかな、そのあたりが痛む」
深月も黒兎と同じように耳の手前に指、手を置いて
「俺は脳について詳しくはないが、この辺りの部位はたしか側頭葉、側頭連合野は記憶、聴覚あたりを司る部位だったか」
「記憶を司るっていうのが海馬っていう名前ぐらいなら聞いた子とあるかな、本当にその程度だけど」
「でだ、その海馬が痛みという悲鳴を上げていたというのならば意識を失って明石嬢の過去を見ることは非常に危険であると言える。一つの可能性として海馬が耐え切れなくなった場合白崎は記憶障害を引きお起こすことになる」
「それって、記憶喪失みたいなもの?」
「いや保存も読み込みも機能低下が起きるからな、アルツハイマー、認知症と言えばわかりやすいか?」
「それならわかるよ。けどさ、僕にしか晏奈を見ることができないなら僕が見るしかないよね」
「そうなるな。残念なことに俺にその資格は与えられなかったようだ。水本嬢もノートに字が見えるようになったようだが、明石嬢の過去を見ることはなかったようだからな」
「だったら、水本もカギなんじゃない?」
「それはそうなんだがな」
「十五夜にしては歯切れが悪いね」
「水本嬢はカギにはカギなのだろうが、お前よりも背負うリスクが圧倒的に小さい。情報の価値としては同じなのか今はまだ判断できないがより明石嬢の本質に触れることが出来るのは白崎、お前だと俺は思っている。そして、明石嬢に救いの手を差し伸べることが出来るのもな」
「そんな僕じゃなくても晏奈は」
「あんた鈍いわね白崎君じゃなきゃいけないのよ。晏奈の鎖で繋がれた心を解き放ってあげられるのはうちにはたぶんできない。もちろんこいつにもできやしないわ。唯一子供のころからの付き合いなんでしょ?黒兎君、あなたができないと言うのなら、あなた以外に誰があの子の心を動かしてあげられるの?」
洗い物を終えて、空のペットボトルを数本シンクに残したままテーブルの席に戻ってきた風葉はくよくよしている黒兎にそう言った。
「確かに僕が一番晏奈との付き合いが長いけどさ、晏奈の洗脳に全く気がつけなかったわけだし」
「それは俺も水本嬢も同じことだ。ここにいる三人のうちだれか一人が気がつけばその時点で今という未来が変えられていたのかもしれん。という意味では全員が気がつくことのないほど明石嬢は自然な振る舞いをしていた。日常生活に違和感も支障もなく、かつ自分の言うことを聞くようにする。それほどまでに効果のある洗脳を掛けられていたんだ。幼馴染も実の両親さえも気がつかないような。ならばかけた本人以外にその事実を見出すことはできんだろ」
「えーと」
黒兎は深月の言葉が少しわからなくなり返答できなくなっていた。
「要は誰も気がつけなかったんだからあなた一人が気負う必要はないってこと」
「なんかごめんね、ありがとう」
「脱線もこのくらいにして再び話を戻すぞ」
「今のいい話風のを脱線程度の扱いにするわけ?」
「さて、どこまで話が進んでいたか」
「無視するのね、うちを無視するつもりなのね」
「そうだな、白崎の脳へ影響がでる可能性の話だったな。そこで、白崎にはあと一、二時間もしたら寝て脳を休めてもらう。」
「そんなに早い時間に?」
「寝ている間に脳は記憶の整理をするからなむしろ足りないぐらいかもしれん。なにせ約二日分の情報量を一日分の睡眠時間で整理しろというのだからな」
「その間十五夜たちは?あと、寝る場所は?」
「そうだな、そのあたりも決めねばならんな。俺としては不測の事態も考えてできれば三人同じ部屋というのが好ましいと思うのだが、二人の意見を聞こうではないか」
「僕は別にいいけど、水本次第じゃないかな?そういう問題は」
「うちは流石に男子と一緒に寝るのは抵抗あるけど、夜に何かあっても一人だと困るっていうのもあるし、ああどうしよ」
「ではそうだな、夜は俺と水本嬢が交代で見張りを務めよう。で、あればいくらか懸念されることが解消されるのではないか?」
「そうかもしれないけど、でもあんたらのそばで寝るのはなぁ」
「案ずるな、だれもお前なぞ襲ったりはせん」
「それはそれで傷ついた」
「なんだ襲ってほしいのか?」
「断固拒否」
「全く困ったものだ。とりあえず白崎と俺の寝る場所を決めるか、と言っても寝具は明石嬢の部屋かそのご両親の部屋にそれもほとんどむき出しという状態だから床で寝ても大して変わらんが、しいて言うならば窓のない部屋、またはしっかりとしたカーテンのついている部屋でなければ外からの光でなかなか寝付けんだろう」
深月の見立てによるとこの家の外の時間は深月たちがこの家に入った時の時間で止まっている。よってこの家は常に夏の夕方の少し傾いた日が家の中に入ってくることになる。そんな日が当たる場所ではちゃんとした睡眠をとることはできない。
そして、この家で日光を遮ることが出来るようなところは、晏奈の部屋、その両親の部屋、リビングぐらいだろう。
「んー三人ってことを考えるとリビングかな、今は夏だし夜も毛布とかなくても何とかなるし、あれ?」
「どうした?」
「いや、そういえば今は夏なのにそんなに熱くないなって思って。こんなに日がさしているのに」
この日の気温は二十八度で日中はとてもじゃないが汗をかかずに生活するというのが難しいくらいだった。にもかかわらず黒兎たちは今汗一つかいていない。この家に着いてからエアコンなどを使ったわけでもないというのに。
時間を考えればさして不思議というわけでもないが、現在この家の外にはまだ光がさしており夜の気温になっているとは考えにくかった。
「ふむ、言われてみればそうだな。気温についてはこの現象の弊害と考えるべきか、それともまた別の何かの影響なのか、興味深いな」
「はいはい、まずはどこで寝るのか決めるんでしょ?」
「水本はどうするか決めたの?」
「ええ、覚悟を決めたわ。私の身に何かあったら、あんたたちと一緒にうちも死ぬ」
「なんでそうなったかなぁ」
「あなたたちが何もしなければいいのよ」
「もちろん何もしないけど、さすがにそう言われると僕たちも信用ないなぁって」
「確かに死ぬは言いすぎたかも、一緒には死なない。一方的に」
「よりひどくなった!」
「さて、水本嬢よ、あなたに俺が殺せるかな?」
「あら?一方的に死んでやると言ったつもりだったのだけれど。それともそちらの方をご希望かしら?」
「万が一にも俺か白崎が原因でそのような事態にはならんがな。可能性があればイレギュラーがあって水本嬢含む、俺たちに何か不幸があった時だ。残念なことに何が起こるのかだとかは全く見当つかんがな」
「オカルトオタクが今回は本当に使えないわね」
「今回は俺とて自分自身の知識とこういった超常現象的なシチュエーションへの対応力の低さに落胆しているところだ。心に傷ができてしまうではないか」
「ちょっと違うけどこれで人の気持ちが少しはわかったかしら?」
「だが、俺は前に進もう。たとえいばらの道とて、一度ここのカーテンを閉めてみるぞ」
深月がリビングのカーテンを閉めてみると、電気を消してもそれほど暗くはならならなかった。
「リビングでは遮光性が低いな。次は明石嬢の部屋だ」
晏奈の部屋続いてその両親の部屋にもいって同じことをした。するとどちらの部屋でも眠るのに十分な暗さが確保できた。
「で、明石嬢の部屋とそのご両親の部屋どちらを寝床にする?」
「うちは晏奈の部屋に一票」
「三人でなら僕もそれで」
「では明石嬢の部屋に三人で寝る、ただし俺と水本嬢は交代で見張りということでいいな」
「もう寝るの?お風呂はやっぱり無理?」
「女子にはちときついかもしれんが、貴重な水を無駄にはできんからな風呂の方は仕方あるまい我慢してくれ」
「ええ。仕方ないわね」
「睡眠時間についてだが、全員最低でも六時間は寝てもらう。それも疲れをできるだけ残さないためには断続的ではなく連続的なのが好ましいな」
「うちとあんたで見張りを交代交代するんでしょ?六時間寝てたら朝にならない?」
「安全だと確信できない限りそれは仕方あるまい。誰かが寝ている、気を失っている状態であれば必ず安全確保のために一人は起きてそばにいなければならない。白崎には確実に脳の情報を整理できるだけの睡眠時間は確保してもらう。俺たちは肉体が回復すればいい、俺は三時間も横になっていれば十分だ。硬い床では逆効果かもしれんが」
「なにより、俺はいいとして何時間も寝ている二人の隣に何もせずいるなど嫌だろ?」
「この部屋から出ないっていうか、寝ている二人が見えるところにいるのが前提だもんね。それで、何時から何時までを睡眠時間にするの?うちたぶんその時間に自然に起きることとかできないけど」
「そういうのは僕もできないかな。普段ならこのくらいの時間に寝るとかないけど食後だからかなんか眠くなってきた」
黒兎はそう言いながらあくびをした。
「白崎のそれは脳が睡眠を欲しているのだろう。」
深月はスマートフォンで時刻を確認した。時刻は午後八時をまわったところだ。高校生がねむりにつくにはあまりにも早い時間だ。もしかしたら今時の小学生でもこの時間にベッドに入るというのはごく少数なのかもしれない。
「そうだな、白崎はもう寝ていろ。俺も三時間ばかし睡眠をとるとしよう。すまないがその間の見張りと三時間経ったら俺を起こしてもらえないか?」
「ええ、わかったわ。だけどその前にどっちか充電器持ってきてない?うちのよくわかんないけどここ来てから電池の減り速くなったみたいでさ、学校でも使ってたからもうそんなに残ってないの」
「電池の減りに関して言えばおそらく基地局やらの電波を端末が探しているからだろう。機内モードにすればいいそれだけで幾分ましになるはずだ。それと充電器に関してだがない」
「僕も、充電器は持ち歩いてないかな」
「やっぱりそうよね。残り三十パーセントで持つかしら」
「それだけあれば十分だろ、どうせ時計、タイマー程度にしか役割を果たせないのだからな。それと俺のを使ってくれて構わんさ」
「じゃあ、借りるわ」
「さて、後はいかにしてこの硬い床でよりよく寝るかだな」
「どこかに毛布か何かでもあれば下に敷けるのにね」
「うちらの制服下敷きにしてもね」
「流石にフローリングに直で寝ることには抵抗があるからな」
「うちの持って来ているタオルとかじゃ敷いたところで全くかわらないし、この家キッチンの調理器具以外のものがほとんど何もないし」
「どうしたものか」
そう言い深月は自分の鞄の中身を出していた。
「今日は体育があったからな、これは枕として使えるか」
深月は体育着の入った袋を取り出して言った。
同じように黒兎も体育着の入った袋を取り出す。
「水本嬢も同じようにしたらどうだ?この際だ、多少汗臭くても我慢するほかないだろ」
「女子は水泳だったの知ってて言ってるでしょ。うちのは濡れているうえに塩素のにおいするのよ」
「または、体育着で寝るか、制服で寝るのもあまり良い睡眠がとれそうにないからな」
「寝ている間に温度が上がったりしたら汗だくになるもんね」
「俺たちが着替えている間ちょうどいいから水本嬢も着替えていたらどうだ?」
「あんたさっきのうちの話覚えている?わざと言っているでしょ。もう塩素が溶け込んだ水に浸かった水着を着てこれから過ごせっていうの?ばっかじゃない?」
「俺は面白いからむしろ歓迎なのだがな、水着が濡れているのが嫌だというなら水着を干していたらどうだ?」
「水本が気にしているのは面白いとか面白くないとかじゃ全くないと思うけどな」
「全くよ、体育着を着た男二人の家の中で女のうちが水着でいるなんておかしすぎるでしょ、どこの罰ゲームよ」
「冗談はこのくらいにしておき、敷けるようなものを俺は持ってなかった。硬い床で寝ることが決定してしまったわけだが、二人は何か持っていないか?」
「あんたの言うことは時々というかほとんど真面目に言っているのか冗談なのか判断しにくいのよ。ふざけた発言って事はわかるんだけど、うちはそういうもの何も持ってないわ。冬ならブランケットとか持ってたけど、夏だしね」
「おっと、俺は常に真面目なのだがな」
「あ、そうなんだ」
「白崎よ、お前も俺がただただふざけているような人間だと思っていたのか。我が同志にそのように思われていたとはな全く残念と言うほかあるまい」
「そう言ってもまったく思っていないだろ。あと、僕も何もない基本財布と昼ごはん以外授業で使うものしか入ってないし。」
「このまま寝るしかないか」
「寝始めれば意外と眠れるかもしれないしね」
深月と黒兎は体育着を入れた袋を置きその上に頭を乗せ仰向けになり目を閉じていった。
「体育着になるんじゃなかったの?」
「俺は制服のままでいいさ」
「ああ、じゃあ僕は一応着替えようかな」
「じゃあ、すまないが見張りをよろしく頼む。三時間ほどしたら交代のため寝ていたら起こしてくれ」
「ええ、わかったわ」
「水本いるし廊下で着替えてきた方がいいかな?」
「気にせんでいいだろ。俺たちが通っている高校に更衣室などなく、最初こそ分かれて着替えていたが、わざわざ分かれるのが面倒だという空気ができてからは男も女も関係なく各々自分の席で着替えているではないか。何をいまさら恥ずかしがる必要がある?」
「確かに男子は隠す気配も全くなくて見慣れちゃったと言えば見慣れちゃった感はあるけど、それでも少しぐらい隠しなさいよって思うわね。あたしは道場とかで見慣れてるから別にいいんだけど」
「そんなところで男の裸体を見慣れているとアピールされてもこちらは反応に困るのだけなのだが」
「そ、そうだね」
深月も黒兎も反応に困り苦笑いをして顔を見合わせ互いになんか言えよと目でけん制していると
「あれ、十五夜のそばに落ちてる白いの何?」
深月は黒兎が指さした自分のそばに落ちている白い毛玉のようなものを手に取った。
「そうか、それがあったな」
「それがどうかしたの?」
「水本嬢よ、見て分からんか」
白い毛玉のようなものを見て何か思いついた深月に対して、同じものを見たはずの風葉は何も思い当たるものはなかった。
「いいえ、全く」
「これは断熱材だ」
「断熱材?」
黒兎は何のことなのかわからず深月に質問をした。
「断熱材は住宅を建てる際壁などの間に挟んである熱を通しにくくするためのものだ」
「それが?え、まさかそれを取って敷布団代わりに使うんじゃないでしょうね?」
「そのまさかさ」
「じゃあ何、今から壁を壊したりするの?」
深月と風葉で行動していた時の事を知らない黒兎が既に天井に穴をあけたことはさらっと言ってはいたが覚えているはずもない。床下にも穴をあけて実際にそれを夕食の時にその穴を見ていたが、黒兎はそれらしいものを見ていなかった。
「まさか、そんなことをする必要はない」
「もう穴をあけた場所が二ヶ所あんのよ」
「閉じ込められてはいるけど、ここは一応僕の幼馴染の家なんだけどな」
「そう、細かいことは気にするな。取りに行くだけだからな俺一人でも構わんのだが二人は待っているか?」
「三人分の簡易ベッドが作れるほど必要なんでしょ?だったら三人の方がいいんじゃないかな」
「そうね」
「では取りに行くか」
三人は深月と風葉が天井に穴をあけた部屋までやってきてその時同様深月が見事な三角跳びで天井裏までいった。
「わざわざ、そんなことして天井裏までいくんだったら、リビングの床下から取った方がよかったんじゃない?」
「残念なことに床下の断熱材は吹き付けるタイプのようでなあれじゃ使えん。水本嬢も床板を剥がすときに見ただろう?」
「そうだった?覚えてないけど」
「天井裏に使用されているものは繊維系、おそらくは羊毛だな。床板の間にはめるのはちと難しかったのだと思うぞ。こいつらは重力に引っ張られるからな。では下に落とすぞ、受け止める必要はないただ当たらないようにだけ気を付けてくれ」
穴の下で深月を見上げていた二人はその場から数歩下がった。
「では、いくぞ」
天井から白い繊維の塊が落ちてくるとトス、トスと重いのか軽いのかいまいちわからないような音が聞こえてきた。
深月が断熱材を二つ落とすと
「これで一人分ぐらいになるか?」
「ちょっと待ってて」
黒兎は落ちてきた断熱材を並べてその上に横になってみる。
「こんな感じ」
縦の幅は黒兎がもう半分入りそうなほどに余裕があったが横幅はせいぜい仰向け、うつぶせになれる程度で余裕はほとんどなかった
「縦に二つ並べると明らかな余裕があるな、対して横は収まってはいるが寝がえりをうてるようなスペースはないと」
黒兎は今度、横に二つ並べてそこに横になった。
「縦一枚分だと足がでちゃうな」
今度は黒兎の膝のあたりからはみ出しているのに対して横幅は黒兎が2人はいるほど余裕があった。
「横幅は二枚でちょうどいいぐらいだな。もう一枚落とすぞ」
黒兎が避けたのを確認してから深月はさらに一枚断熱材を下に落とした。
「そいつを横にして足してみてくれ」
黒兎は横に二枚並べた断熱材にもう一枚直角になるように並べて横になった。それでも深月の足は断熱材を敷いた範囲から足が出てしまっていた。
「これでも足りないね、この感じだとあと二枚ぐらい必要かも」
「そうだな、一人あたり四枚だと明石嬢の部屋に入らん可能性もある、二人で三、三に並べるといったところが妥当か。どうせ俺と水本嬢は見張りの都合で寝る時間をずらすことになる今日のところはそれでいいとするか。断熱材落とすぞ」
深月はさらに三枚の断熱材を下に落とした。
「試しに二人で寝転がってみてくれ」
黒兎と風葉は断熱材を並べるとそれぞれ端に寝転がった。
「なんだ、水本嬢は一枚でも足りるんじゃないか?」
深月が上から見下ろすと風葉の足は二枚目にちょこんと出たぐらいで、横幅も寝がえりがうてるほどではないが余裕があった。
「何よ、うちがちっこいって言いたいわけ?」
「おっと、俺はただ、使う断熱材の枚数が減らせるのではないかと思っただけなのだがな。やはり自覚しているということではないか」
「うっさいわね。あたしが一枚サイズだろうとあんたと見張り交代するんだから枚数は変わんないでしょ」
「それもそうだな、俺としたことがそんなことを失念していたとは」
そうは言っても深月はうっすらと笑みを浮かべていた。
「その顔絶対わざとでしょ」
「まあ、そうかっかするな。二人とも寝心地はどうだ?硬いようなら胴体部分ぐらいは二枚重ねるようにするが」
「僕は大丈夫だよ。水本はこれでいい?」
黒兎は寝転がったまま顔だけ風葉の方を向けてそう言った。
「うちも、うん、大丈夫かな」
黒兎の声に風葉は顔を向けて答えようとすると同じものに寝転がって二人で顔を向い合せる、という風葉には何とも言えない表現できないような感じたことのない感覚を感じたために思わず一度は顔を見たもののすぐに顔を背けて黒兎の言葉に答えた。
「そうか、ならば二人とも、見つめ合っていても構わないのだが、そこでは俺の落下という邪魔が入ってしまうぞ」
「べ、別に見つめ合ったりなんかしてないわよ」
「話すときは相手を見てが基本でしょ?」
「ま、そういうことにしておくか」
二人が避けたのを確認すると深月は敷いてある断熱材をマット代わりに飛び降りた。が、着地の瞬間風葉が深月にからかわれた腹いせに足元の断熱材を勢いよく引き抜いた。
着地直後に自由の利かないときにそんなことをされれば体勢を崩して転んでしまうが、深月はあえて自分から転がって着地の衝撃を綺麗に流した。
「まったく、危ないではないか。これが俺ではなく白崎なら顔面で受け身をとっていたぞ」
転がってとったポーズのまま深月はそう言った。
「そもそも、白崎君にはそんなことしないわよ。されるようなことをしているあんたが悪い。言葉で傷ついても体に返してやるわ」
「はて、何のことやら?俺にはそのようなことをされるようなことをした覚えなど微塵もないのだがな」
「まあいいわ、これとっとと運んで寝なさいよ」
風葉は時分が引き抜いた断熱材を深月に横の回転が加わるようにフリスビーの要領で投げた。
「ははは、そうだね」
黒兎は乾いた笑いをしながら断熱材を三枚重ねて持ち、深月もやれやれといった表情で自分に投げられた一枚と残りの二枚を持った。
「ごめん水本、ドアを開けてくれる?」
風葉は黒兎の前に進んでドアを開けそのまま晏奈の部屋に先に行きこちらの部屋のドアも開けておいた。
「サンキュ」
黒兎と深月は晏奈の部屋に入り断熱材を並べてベッドスペースを作った。
その様子を先に部屋に入っていた風葉はベッドに腰かけてみていた。
「今更だけどこのベッド利用できたんじゃないかしら?」
「そうすれば何も硬いところに腰を下ろして座る必要もなくなるし。」
「サイズを考えてみろ。縦も横も断熱材一枚では一回りも余るが二枚以上でそこに敷き詰めようとするとはみ出るに決まっているだろ。なんだ水本嬢はそちらでの睡眠時間をご所望かな。一枚しか入らないそのベッドで」
「はぁ、あんたも懲りないのね。あんた寝ている時間も気は抜けないわよ」
「おっと、俺に安寧はないのか」
「たった今自分でその時間潰したよね。自業自得だよね。僕は何もフォローしないよ」
「同志白崎よ、いつからお前は俺に冷たくなったというのだ」
「睡魔に襲われ始めた時かな」
「大変だぞ。水本嬢よ、白崎がもう限界のようだ。こんな話し合いなどどうでもいい。早急に眠れる環境を作ってやるんだ。ほら子守歌などどうだ?」
「白崎君、こんな奴無視して、自分のスペースだけ確保して先に寝な」
「それは、さすがに悪いかな」
「白崎君は仕方ないわ、だって相当頭に負担かけてるんでしょ?それならしっかり休まないと。鍛錬で痛めつけた後はしっかりとした休憩をとることこれは基本よ。ほらこんな奴の事を気にせず先に寝なさい」
「別に脳を鍛えていたわけじゃないんだけどな」
「肉体面を鍛えたいならうちは入門いつでも歓迎よ。それじゃあ、お休み」
「ははは、考えておくよ」
黒兎とはせっせと自分が眠れるだけのスペースに断熱材を敷くとそのうえで横になった。今までは立っていたおかげで抑えられていた睡魔は横になったとたん勢いを増し黒兎を飲み込んでいった。
「もう寝てしまったか、相当のようだな。では俺も明日に備えしっかりと睡眠をとるとするか」
黒兎の敷いた断熱材につけるようにして断熱材を並べ、深月もその上に横になった。
「急ごしらえなら及第点と言ったところか」
「つまらないこと言ってないでとっとと寝なさい。休めるときに休む基本でしょ」
「そんなこと言ったか覚えはないがまあいい。では、お休みと言っておこう」
「はいはい、お休みお休み」
深月は瞼を閉じた。
風葉は深月から渡されたスマートフォンで時間の確認をするとまだ午後九時だった。風葉は普段から午後十一時、十二時頃から寝始めるから三時間起き続けていること自体に問題はない。
三時間、この薄暗い部屋では何かを書くことも読むこともできなくはないが、あまり適した環境とは言えない。
大多数の人なら何もすることがなく退屈になるほどの時間だが風葉にはちょうどいいくらいの時間かもしれないと感じる程度の時間だった。
風葉は二人からできるだけ離れた位置に行くと一度心をリセットするため瞑想を始めた。
それから立ち上がり準備運動をする。
その後ゆっくりと空手の型を取り始めた。空手の型は流派によって数も形も異なり型の数が少ない流派だと十前後なのに対して、型の多い流派であれば四十を超えるほど数がある。
風葉の師匠から教わった流派はその型の多い方の流派で一つ一つの型をゆっくりとするだけで数十分とかかる。
型の練習が終わると足を肩幅より少し広く広げ、踵を軽く外側へ向け腰を落とす騎馬立ちと言われる構えをとり、突きを両手交互に百回ずつした。
その後もあまり音が大きくならないような日課の練習メニューを五分程度の休憩をはさみつつこなした後で、筋トレを始めた。
筋トレも一通り終わると三時間という時間の大半は過ぎていた。
風葉が時間を確認すると十二時まではまだ時間があった。
二人に気を使ってあまり派手な動きができないこともあって、普段の練習メニューは完全には消化しきれていない。
それでも、体を動かした後のせいか、座っている今睡魔が見え隠れしている。約束まではまだ三十分以上もある。風葉にとって深月は遠慮も何もいらずに接することが出来る相手だとしても流石に無理に起こそうという気にはなれない。
風葉は晏奈のノートに書かれていることを写そうと思い深月の周りからノートを探すが見当たらない。
続いて深月の鞄の方も漁ってみるが晏奈のノートはなかった。
「ったく、どこにあんのよ。寝てまでうちをからかう気のようね」
晏奈のノートを見つけられなかった風葉は意識が睡魔に狩られる前に一度立ち上がり残りの三十分何をしていれば起きていられるかを考えた。結果、最初の練習メニューの消化に戻ってきた。
しかし、風葉は既に二人を起こさないような音を抑えることが出来る練習メニューは既にある程度こなした。
それもその場突きといった、踏込まず足の位置を固定するような突きの練習やゆっくりと型の確認程度に動く程度だ。
本当は得意の足回りをしていたいが、音で2人が起きてしまう可能性があるためできないと判断するしかなかった。
人間はおよそ九十分と前後十分程度の周期で深い眠りのノンレム睡眠と浅い眠りのレム睡眠を繰り返していて、その一度の周期が終わるタイミング毎つまりは九十分の倍数の時間に目が覚めると目覚めもよく頭もすっきりするといわれている。また、一日に九時間もの睡眠時間を必要とする人もいれば一日の睡眠時間が一日三時間程度でも十分な人もいる。
深月は睡眠時間が短くてすむというショートスリーパーと呼ばれる種類の睡眠体質で、さらに周期が九十分よりも八十分に近いため、実は既に十分な睡眠をとったともいえるが風葉がこのことを知っているはずもなく、三十分感心拍数が大きく上がらない程度に柔軟をしてただただ、睡魔に耐えるだけの時間となってしまった。
途中、開脚をして体を前に倒したまま、二、三分ほど眠りに落ちていた姿というのはとてもじゃないが人には見せられないし言えもしない。
そんな睡魔と闘いながら、きっちり三時間が過ぎた時、風葉は深月を思いっきり揺さぶって起こしてやろう体に手を伸ばして体を掴んだところで深月は体を起こした。
「きゃっ、お、起きるなら起きるって言いなさいよ」
「起きる前には起きると寝言でしか言えんが、俺に寝言のコントロールをしろというのか」
「ちょっと触ったぐらいで起きるあんたがおかしいのよ。せっかく脳みそ揺れるように揺さぶってあげようと思ったのに」
実際のところ深月は風葉に体を掴まれたことで起きたわけではない。その少し前から起きていた。それがおよそ風葉に起こされる十五分前、ちょうど風葉が柔軟中に寝落ちしかけていた頃だ。
完全に百八十度の開脚でお腹までベタっと床につく、それほど体が柔らかければおかしな格好にも見えなかっただろう。しかし、風葉はそこまでは体が柔らかくなく自分で百二十度ぐらいで開いている。もちろんお腹が床にゆくはずもなく床についてもあごだ。
するとどのような格好で眠ってしまっていたかというと、客観的にみれば、制服姿の女子高生が座って足を大きく開いて自分のスカートの中を見ているように見える。
このとても恥ずかしい姿に関しては深月は眠ったふりをすることで風葉の女子としての既にあるのかないのかわからない羞恥心を守ってあげた。流石に深月でもこれについて触れる気にはなれなかった。
「ほう、それは残念だったな。それよりも水本嬢、既に目がトロンとして体が眠りにつこうとしているが、速く横になったらどうだ?」
深月が自分の使っていた三枚断熱材が横に並んでいるうちの黒兎とは反対のスペースをあけると既に眠気で意識が曖昧になっている風葉は真ん中のスペースに横になった。
「誰があんたの寝た直後の場所で寝るもんですか」
風葉はそう言うと一気に意識を夢の狭間に誘われた。
「おっと、これは手厳しい」
深月は辺りを歩き確認するように壁や床に変わったところがないか見ていった。
「どうやら、何も起きてはいないようだな。さてこれから本来の時間であれば丑三つ時か妖怪、怪異の時間だ。何か起こってくれるか。または本来人が寝ているはずの時間だ。俺たちを本気でどうにかするつもりであれば何か仕掛けてくるなら好機だろ?」
深月は誰に言うでもなくそう言った。
もしもこの部屋が監視されていたのであれば、この深月の発言はそれだけで相手に対して準備はできているというニュアンスを感じさせることがあるはずだ。
深月が挑発的ととれなくもない言葉を選んだのは、けん制の意味とは裏腹に深月自身は相手が行動を起こした方が脱出のための材料になるからだ。
この一般家庭の域をでない二階建て程度の家をそれもほとんどの物がない家の中を見て回るのはこの家に入った直後に一通り見終えた。
言ってしまえば、深月には既に脱出に関しての情報を得るすべはこのノートに書かれているという内容を黒兎と風葉を介して知るだけになっていた。何度同じ場所を見て回ったとしてもそうそう新たな発見をできるわけではない。
「さて」
深月は枕や寝るときに敷くものを探して自分のバッグから物を出した後、それらの物をしまう時に底板の下に晏奈のノートを隠しておいた。そのノートをバッグの底板の下から取り出した。
深月が寝ている時にそのノートを隠していたのは、風葉が勝手にノートをとった時に不測の事態が起こり三人とも動けないという事態は避けたかったからだ。
どうやらそのようなことにはならなかったようだが、風葉自身が寝落ちしかけていては変わらないのではないかとも感じないでもなかった。
深月は取り出したノートをパラパラとめくってみるが、やはり深月には何が書かれているのかわからない。黒兎、風葉には読めるページが確かに存在するようだが、その人にしかわからないというのはどのような意味を指しているのか、そこに、この物をとことん排除したここに唯一あるということに意味があるのだと思えてならなかった。
「読める人間の条件、その内容、そして記憶か」
黒兎は晏奈の体験を晏奈の視点で見た。
風葉は洗脳されていく過程の一部を読んだ。
深月は何もかかれていない白紙しか見ることができない。
深月は果たして自分にも意味は与えられているのかと考えた。白、白紙、何もない、見えない・・・
どのように考えてもおよそわかりそうになかった。実際に深月は晏奈といるときは必ず黒兎または風葉と共にいた。深月と晏奈が二人でいたことは深月の記憶では一度もない。
深月は一度見方を変えるために黒兎に書いてもらっていたルーズリーフをベッドの脇から拾いそれを見てみる。
ルーズリーフには入学式の晏奈の動きが箇条書きで細かく書かれていた。
「事実を並べただけではそこにある感情や想いは見えてこないな」
深月は晏奈のノートは晏奈の想いをこちらに伝えるための手段であると仮定してみることにした。
黒兎には自分がその時どう思っていたのか、もっと自分を知ってもらうことを
風葉には今の自分がどのように変化してしまったものだと
深月には・・・
「ふむ、やはり俺には明石嬢にとっての俺の意味を見出せないな、ならばこの現象そのものについての打開策を考えていく他ないか」
深月は一度カーテンの内側に入り外を見た。
窓から見える外の景色は相変わらず明るいまま、深月たちがこの家に入ってきた時のままの景色を映し出していた。
深月はもともと時間停止と思っていたが、非常にゆっくりと外の時間が流れている可能性もあった。
深月はこれで時間停止であると確信した。
時間の流れを完全に切る方法についてはてんで見当がつかないが、人為的に起こしたものなら何かしらの装置を使っているのだということは想像できる。
部屋を見て回って、天井と床に穴をあけても見つからなかったものだ。だとすると室内ではなく室外に設置されているのではないかと深月は思った。そうなるとこの空間から外に出ることはほぼ不可能になってしまう。
そんな悪い予想を切り捨てると、この状況をどこかで監視しているのならば、あえて深月も寝ているように見せて、あえて隙を作った方が何か仕掛けられやすいのではないかと考えた。
深月は一応ではあるが既に睡眠を取っている。だから少しぐらいなら寝たふりをして目を閉じていたところで、気がつけば寝ていたなんてことにはならないだろうと思ってはいるが、人間横になって目を閉じていれば自然と眠りに落ちていくものだ。
それに抗い残りの時間を寝たふりで過ごすことはおそらくできないと深月自身思った。
まず、三十分ぐらいなら大丈夫かと深月はつい数十分ほど前まで寝ていた場所に戻った。
まず、眠らないために常に思考は動かし続けなければならない。
堂々巡りになるとわかっていても先ほどの問を再び自分の脳内で答え始めた。
残念ながら、自問自答に答えは得られず、何かが起きることもなかった。
時刻の確認をするともうすぐ丑三つ時、深夜二時だ。何かが起きるならこの時間だと、深月は感じていた。一度体を軽く動かし脳を完全に覚醒させてから再び寝たふりを始めた。
午後二時が過ぎ、寝たふりをして仕掛けてくるのを待っている深月は横から、黒兎の方から小さなうめき声が聞こえてくるのと感じた。
深月は黒兎のもとへ行くと黒兎は苦しそうな顔をうかべそれと共にうめき声が漏れている。
深月は黒兎に何かあったのかそれとも、この家に監禁のようなことになったタイミングだからか悪夢を見てしまっているのかの判断ができなかった。
ただの夢としての悪夢なのならば自然と目が覚めてしまうだろう、意識を失っていた時のような状態であるのなら、おそらくそれは黒兎にも晏奈にも悪いものを見ているのか体験してしまったということになる。
黒兎の苦しそうな顔をただ見ているのはつらかったが深月は判断できなかったため少しの間その姿を見ていた。
しばらく見ていると、苦し気な顔は終わり一転して、晏奈ですら小学生の時ぐらいにしか見たことのない、怒っている顔をした。
深月は黒兎の怒っている姿も晏奈の怒っている姿も見たことはなかった。そんな二人が激怒と表現できるようなところまで感情が昂ってしまう理由とはいったい何なのか、少しだけ別の興味も持ってしまった。
「白崎よ、お前はいったい今何を見ているんだ?」
この時黒兎が見ていたものは実際晏奈が体験したものではなく、そのため黒兎本人の感情がこうして表に出ているのだった。
黒兎の怒った顔が終わると、今度は無表情と言えばいいか悪夢も何もなく寝ている時の顔に戻っていた。
夢はあくまでも大脳が記憶を整理する際に見えてしまっているものだ。覚えていようと思って覚えられるものでも見ようと思ってみることができるものでもない。
もしかするとこれが単なる夢であればこの瞬間の黒兎が何を見て、何を感じて、何を思ったのかはわからないのかもしれない。
そしてこれが晏奈の記憶の読み込みによっておこることなのであれば、寝ていても体は休めているのかもしれないが脳の方は酷使しっぱなしということになる。本当にオーバーヒートしてしまう前にしっかりと、脳を休ませるため朝になってもノートを預けてはいけないと深月は思った。
一日中外の景色が同じだとどんどん時間の感覚がおかしくなってくる。深月の感覚ではもう三時をまわっていてもおかしくないと思っていたが未だ三時にはなっておらず、むしろ十分程も前の時間だった。
深月はもともと朝の六時まで見張りをしているつもりだったが、何も起きないこと、この部屋ではこれといってすることがないこと、その点からこの部屋にい続けても何も起きないだろうと思った。
深月は二人を晏奈の部屋に残したまま部屋を出て行った。