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無の章 追撃されし至純 ~受命~

NO.5

異例の手術が終わり、1月16日午後、病院カンファレンス室には豊雲院長、大古都医師、御津波看護師長、能見医師、筒賀事務長が揃っていた。

筒賀事務長が責めるような口調で大古都にたずねた。

「意識が戻らない原因が、つかめないというのはどういうことですか?」

「そのとおりです。原因がわからないということです。それどころか何が起こったのかも分かっていません」

筒賀事務長は口調を変えず、間を置かずに続けた。

「大古都先生、それはいかがなものでしょうか。家族には手術をしなければ危険といっておきながら、何が起こったか分からない、現在の状況さえ報告できず、先の予測も立てられない。どう責任をとられるのですか?」

答えに詰まった大古都に、豊雲院長がゆっくりとした口調で質問した。    

「今の状況はどうなのですか?」  

「生存可能のレベルを超えての生存状態です。生存機能アップのために様々なこと

を行いましたが、効果がなく、今は一切治療を行っていません」

「稲木君はどう言っているのですか?」

大古都の代わりに御津波看護師長が答えた。

「精神的なショックが大きく、具体的なお話はできていません」

さらに豊雲院長がたずねた。

「宇治地先生はお見えになりましたか?」

続けて御津波看護師長が答えた。

「稲木先生の了解を頂いて、ご両親を始め一切の面会をお断りしています。」

「大古都先生、今後の対応はどう考えていますか?」    

「今後は・・・」

大古都は豊雲院長に対し返答に詰まった。  

「院長、大古都先生もショックを受けていらっしゃいます。私が立ち入ることではありませんが、今後の病院としての対応を考えますと、大古都先生が患者に対して客観的かつ総合的な判断が無理なようであれば、しばらく主治医を能見先生に代えて治療や原因の究明にあたっていかがでしょうか?」

それを受けて院長が確認した。

「大古都先生、ご家族にどのように説明されますか?」

「・・・何とか・・説明はできます。・・・」

「看護師長、産科の他の患者の状況はどうですか?」

「異常分娩については3件あります。今のところ通常の業務になっています」

「それでは稲木那美さんの件は能見先生にお願いします。大古都先生には通常業務に戻っていただいて産科全体を見ていただきましょう」

豊雲院長は結論を出した。

「・・院長・・」

口ごもる大古都を尻目に筒賀事務長は、書類を片付けながら御津波看護師長に同意を求めた。

「稲木那美さんは経過観察が主になります。この病院には大古都先生を必要としている患者さんがたくさんいらっしゃいます。先生を必要とするところで活躍して頂かないと効率的ではありませんからね」

「そうですね、困難な手術も予定されていますし、大古都先生に手術に専念していただければ、私達も安心です」

御津波看護師長も同意した。

豊雲院長は席を立ちながら、大古都に声を掛けた。    

「くれぐれも無理をしないで業務を遂行してください」

大古都と御津波看護師長も院長の後を追って部屋を出た。

解散後、カンファレンス室には筒賀事務長と能見が残っていた。

「能見先生、すべてに目を通してください。見直して手術にミスがあれば責任の追及ができます。そして書類上生存については母子ともに明確に記録せず、今の状態が生存といえるかどうかは結果次第にしてください」

「分かりました。究明途中の死亡はありえないということですね」

「最悪、死亡の場合は1月17日になります」

「しかし、稲木先生が納得されないでしょう」

「書類上の処理ですから大丈夫です。その当たりの書類は揃えます。患者が入院中に急変することは医者であれば経験しています。情報開示を要求されて答えられるように初めから準備をしてください。まず先生は患者をすぐに研究棟へ移して、家族との距離をとって下さい。国内初の症例ですから、これは先生の将来にかかわる重要な仕事になります。極秘でお願いします」

筒賀事務長は能見に念を押した。   

「このことは院長も知らないことですから、スタッフは最小限で、私の息のかかった者で固めます」

能見の射るような視線の中の疑問に、筒賀事務長は蔓延の笑みを作り、答えた。

「私のバックですか?そのうち分かります」

能見はその答えにそれ以上の追話をやめた。

      

1月17日、枕元の時計は午前4時を指していた。 

妻の様子を診に来た賢一は、横たわる那美に告げた。

「那美待っててくれ。僕達の子供は僕が守るから」

固い決意の賢一は音を立てずに部屋を出ると、夜勤の和久看護師に声を掛けた。

「和久さん、ちょっと家に帰ってきます。後をお願いします」

「どのくらいで戻られますか?」

「2時間ぐらいかな」

「2時間ですね。分かりました。何かありましたらすぐ連絡します」

無表情で見送る和久看護師は、新生児室の方へ遠ざかる賢一の後姿が、視界から消えると、両手を机に着き、大きく深呼吸をした。

新生児室に着いた賢一は、固い決意を秘めて、抱きしめることさえ禁じられている我が子の元へ向かい、白いカーテンの中に入った。

 しばらくすると両手でボストンバックを抱きかかえた賢一が、無人のナースステーションを通った。そしてロッカールームに寄ると、準備しておいた同じようなバックを取り、足早に従業員出入り口へ向かった。

 行き交うスタッフに挨拶しながら、賢一は階段を下りて行った。

荷物を下げ歩いてくる賢一に守衛が声を掛けた。

「お疲れ様です。お帰りですか?」

会釈してそのまま出口へ向かう後方からコール音が聞こえ、守衛が賢一を呼び止めた。

「稲木先生、藤原看護師からです。すぐに奥様の病室にお戻りください」

賢一は持っている2個のバッグを見た。

「分かりました。荷物を2つここに置きますから」 

返事をしながら、2個のバッグを重ねるようにカウンターの下へ置いた。

その様子を見て、守衛が受け取ろうと手を差し出した。

「こちらで預かりましょうか」

「いいえ、洗濯物ですし、すぐに戻りますので」

「分かりました。気をつけておきます」      

妻の病室へと駆け出した賢一は時計を見た。

「5時を過ぎてる。後1時間だ」

賢一は階段を駆け上がった。

3階の防火扉を開けようとした時、地響きとともに、すざましい揺れが賢一の足元を襲った。

立ってられないほどの揺れはしばらく続いた。

冬まだ寒い夜明け前、関西地方を巨大地震が襲った。

揺れがおさまると賢一は、とっさに、もと来た階段へ引き返そうとしたが、尋常ではない警報に防火扉を開け、那美の病室へ急いだ。

物が倒れ、混乱する中、賢一は適切な指示を看護師に送りながら、妻の病室にたどり着

いた。 

「那美・・・」

ドアを開け、賢一が見たものは空のベッドだった。そこに那美の姿はなかった。

賢一は病室を飛び出し、周りを見回した。

ナースステーション付近で、電話をくれた藤原看護師を探していると、御津波看護師長に呼び止められた。

「稲木先生、お戻りだったのですね。よかった。地震で怪我をした方々の受け入れが決まりました。3階までは搬送困難なので、1階待合室で処置をすることになりました。よろしくお願いします」

御津波看護師長は賢一の返事を待たずに、二人の看護師を連れて1階へ向かった

賢一は一瞬目を閉じて、心の中で「ごめん・・・」とつぶやき、白衣を羽織った。

 小児科待合室は怪我をした子供達でいっぱいだった。賢一は待合室での治療に没頭した。何も考えまいと決め、目の前の子供達を処置していった。

「右足裂傷、止血していますが出血がとまりません」

「局部麻酔で縫合」

右足をけがして両親に抱えられ痛がっている男児に、賢一は優しく声を掛けた。

「痛かったねもう大丈夫だよ」

「背中,中央に打撲と裂傷、出血骨折はありません」

父親に抱かれぐったりとしている幼児の背中を見た賢一は、看護師に指示をした

「消毒して薬を塗ってください。脱水症状が見受けられるので点滴です」

 全寮制の学校の生徒達が、教師に連れられて来ていた。子供達は事態を飲み込めず、声を立てずに泣いていた。それぞれの怪我は大したことなく、問題はなかった。

 賢一はグループから少しはなれたところで、ひとり左耳の後ろに手を当てて、泣きもせず身動きしない女の子へ近づいた。

「大丈夫かな?怪我をしたの?先生に見せてくれる?」

女児は手を外そうとはしなかった。様子に気づき、責任者らしい女性が両手を広げ、大げさな動きで飛んできた。

「美加ちゃん、先生に診ていただいて、わたくし校長の主田琉と申します。早くほら」

校長だという女性が無理に女児の左手を掴んだ。

それでも美加という女の子は首を振って拒否した。

「わかった。わかった。そのままでいいからちょっとだけ上から触っていいかい?」

賢一は包み込むように女児の患部に触れた。

そんな賢一に負傷者の数を伝え看護師が急ぐように催促した。

「うん大丈夫だね。怖かったね。大きな怪我ではないから心配しなくていいよ。でもばい菌はいるといけないからお薬塗ろうね」

 賢一は首に当てた女児の手を、そっと握ったまま患部から離し、治療を終えた。

次々に運ばれる子供達に、病院スタッフはフル活動で対応した。

 夕方近くになり、病院の様子も落ち着くと、賢一は和久看護師に場を離れることを伝え、守衛室に急いだ。1階は上階ほどの建物のダメージはなく、倒れたものがいくつかあったが、人通りもなく閑散としていた。

 守衛室前にたどり着いた賢一は、朝の記憶をたどった。カウンターの下に置いたはずの二つのバッグが消えていたのだ。慌てて守衛室の中に入り、部屋の中を見回した。倒れた椅子を立て、机の下を見た。キャビネットを開けてみた。ほとんど、物の置いていない部屋にバッグがないのは一目瞭然だった。もう一度警備室の外に出てカウンターの下を覗き込み、置いた痕跡を確かめるように、手でなぞった。

 賢一は朝の行動が夢だったのではないかと思った。守衛室の前壁に寄りかかり、疲れた表情でたたずむ賢一は、何もかもが夢であればいいと思い始めていた。

 那美の手術、哀れな我が子、この甚大な被害をもたらした地震も、全て夢。目覚めれば、優しく穏やかな日々が、何事もなかったように続いているのだと、思い込もうとしていた。

 そんな賢一を現実に引きもどしたのは、新生児室の白いカーテンの中、稲木ベビィの名札のついた空のベッドと那美の消えたベッドだった。

「那美はどこにいるのだろう」と繋がらない思考の欠片が囁いた。

 目の前の惨事に那美の事を忘れていた。看護師から那美についての報告は受けていない。病院内で無事なのは確かなはずだ。・・・無事?なのか。

「結局、俺は・・・何も守れなかった」



そんな肩を落とした賢一に、夕日の差し込む出入り口のドアが静かに開き、覗くように顔を出した震災のボランティアが声をかけた。

「先生、ここの病院の先生ですか?」

賢一は顔を上げ、声のほうを見た。 

重い気持ちを抱えたまま、何事かとドアに近づく賢一に、ボランティアが小声でいった

「先生、この子どうしましょう。話せないみたいです」

美しい夕映えの中に、人形を抱きしめて小首をかしげている女の子が立っていた。

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