無の章 迎撃されし至純 ~受命~
NO.4
結婚して2年が経っていた。那美は家から10分ほどにある、叔母が開業しているエンゼル助産院の玄関に、タクシーで着いた。チャイムも鳴らさずに玄関を開けると、脱いだ靴を揃えることもせず、叔母の部屋のドアを慣れた仕草で開けた。
「叔母様、叔母様、14週よ。赤ちゃん元気ですって」
ナルは驚く様子もなく机の上の本を閉じて顔を上げた。
「おめでとう、那美ちゃん。よかったわね」
「叔母様のおっしゃるとおりだったわ」
部屋の中ではしゃぐ那美を、ナルは立ち上がりながらたしなめた。
「那美ちゃん、気をつけなさい。今が大事な時期よ」
那美は首をすくめて応えた。
「そうでした」
「賢一さんに報告したの?」
「はい、病院ですぐに話しました。だってどうせ分かっちゃうでしょ。同じ病院で
すもの。わたしから一番に報告したかったの」
「賢一さん喜んだでしょ?」
那美は笑いながらうなづき、両手をお腹に当てた。
「もちろん、おなか撫でていたわ」
ナルはほっとした様子で那美を見た。
「お茶でもいかが?少しゆっくりしなさい」
2人はリビングへ移動した。那美は先にリビングに入ると、いつもの椅子に腰掛けた。
キッチンで紅茶を入れ、ケーキを皿に取り分けるナルに、那美が尋ねた。
「でもケーキ食べちゃいけないのでしょ。太らないようにしなさいって・・・」
「食べたければ食べればいい。度を超さなければいいのよ。あれもだめ、これもだめな
んて、自分の体と相談しながら、赤ちゃんに訊きながら、生活をすれば大丈夫よ」
「はい、分かりました。今日は私の赤ちゃんがケーキを食べたいと言っていますので頂
くことにします」
ナルはまったくと言いながら、愛おしい表情でケーキを口に運ぶ那美を見て笑った。
「ところでママには報告したの?」
那美は返事の代わりに首を振った。
「だって、出かける時に叔母様の見立てに間違いないって、ママは言っていたか
ら・・・」
紅茶を一口の飲んで、言い訳のように言った。
「ケーキを食べたら帰りなさい」
「はい」
返事はしたものの、那美は帰る気はなさそうに話を始めた。
「そうそう、叔母様。慶子ちゃん妊娠したからお願いしたいって、言ってました。私
達、クックッ、親子で同級生ね」
「まあ、同級生は気の早いことね。慶子ちゃんお見合いの結婚を迷っていたみたいだけ
ど赤ちゃんを授かってよかったわね。迷いがなくなる、きっと」
そんな言葉にケーキから顔を上げ、
「どうして?結婚と妊娠って関係ないでしょ?」
「そうね、結婚しなくても赤ちゃんはできるし、結婚しても授からないこともあるものね。でも赤ちゃんを授かることは特別な縁だと思わなくちゃね。人間の想いの届かないところでのことだから」
「縁って運命のこと?」
「わたしは、いただいた縁をたどって行くことが、運命だと思って生きてきたわ。今はそれでとっても幸せよ」
「私、幸せになりたい」
「なれるわ。那美ちゃんだもの」
ナルは那美の手を取ると両手で包み込みこんだ。
全てを包む慈愛に満ちたナルのまなざしは、母になることへの憧れとともに、那美の母性を目覚めさせた。
那美は、何事もなく週を重ね30週になっていた。窓から見えるの街路樹が、イルミネーションに彩られる12月の初旬、エンゼル助産院に那美と賢一が来ていた。
那美は腹部に内出血のような症状が現れているのに気付き、ナルに相談に来たのだ。
ナルは腹部を診ながら尋ねた。
「いつからなの?」
「内出血は3日前から。それまでは血管が浮いていただけだったから、妊娠線かなって気にしてなかったけれど、こんなになるなんて・・・・」
今にも泣きそうに那美が答えた。
「分からないわね。表面だけなら心配ないでしょうけれど、賢一さんはどう思う」
ナルの問いに、那美の肩をポンと叩き、那美に向かい答えた。
「明日、病院に行って検査してからだね」
翌日那美は、西宮総合医療センター病院産婦人科待合室で診察を待っていた。
診察の合間を縫って賢一が様子を見にやってきた。
「大丈夫ですか?」
一般の患者に声を掛けるように賢一は話しかけてきた。
「はい、大丈夫です、先生。赤ちゃんと頑張りますわ」
那美も面白がって答えた。賢一は小さく、後で、と言うと仕事に戻った。
ひとりで大丈夫と言った那美だったが、診察室に入るとおなかを守るようにバッグを膝の上に置いた。
「お荷物はこちらへ」
看護師に促されると無防備になったようで不安が増したが、血液検査、MRI検査を取り乱すことなく済ませ、冷静に現実を受け止めようとする那美は、母親として強くなっていた。
その日の夕方、病院カンファレンス室ではナミの検査結果を前に、豊雲院長、大古都
医師、石土医師、能見医師、御津波看護師長、和久看護師、筒賀武史事務長によるカン
ファレンスが行われていた。
検査を担当した石土医師が、検査結果について説明した。一通り説明した後、手術を
担当する産科医の大古都が確認した。
「結論としては、血管腫の原因として考えられるのは腹部動脈と直結する血管からの出血であると、・・・なぜ出血しているのか、どの程度まで拡張するのかは分からないということですね」
能見が大古都に尋ねた。
「今、30週ですので、一応経過を見ながらということでしょうか?」
「そうですね。経過を見るしかないのですが、皆さん他に何かありませんか?」
「感染症などの疑いは全くないのですか?」
御津波看護師長が手を上げ質問をした。
石土医師が答えた。
「はい、今のところ感染症はありません。血管腫以外の異変は見られませんので治療については経過を診ての検討課題となります」
豊雲院長が口を開いた。
「血腫の大きさは8ミリでしたね。大古都君、入院の必要はありますか? 在宅は可能ですね?」
「しばらくは在宅で様子を見ます。ご主人が医者ということもありますので、定期検診を受けながら、自宅での経過を報告していただくということで進めたいと思います。よろしいでしょうか? 院長」
「はい、それでお願いしましょう」
豊雲院長の決定に一同もうなづき、カンファレンスは終了した。大きな問題もないことに安堵した御津波看護師長は退出する時、カンファレンス室に残り、声を潜め話す能見医師と筒賀事務長を目にした。
日頃より筒賀事務長の行動に疑問を感じている御津波看護師長は立ち止まりかけたが、先に行く大古都に呼ばれ部屋を後にした。
一方34週をむかえた那美は、ナルの助産院で毎日を過ごしていた。
エンゼル助産院は、出産は特別のことではなく、妊婦はできるだけ生活環境を変えずに出産を迎えることをナルの信念としていた。
その時に備え、ナルは枕に頭をつけて寝ることをせずに待機していた。エンゼル助産院は個室が5つあるが、その中央にナルの仮眠室があった。母親と赤ちゃんの気配が感じられるようにとのナルの考えだった。
那美はナルの仮眠室で毎日のほとんどを過ごした。目に見えぬ出産への不安と、目に見えて日ごと大きくなっている血管腫の不安を、ナルの取り上げる新しい命の産声が消してくれた。
ある日、翌日に退院予定の母親とナルが話していた。母親の顔は曇りがちだった。
「退院の手続きは済みましたか?」
「はい」
母親は赤ちゃんから目を離さず、短く応えた。
ナルは黙って母親に白湯を差し出し、代わりに赤ちゃんを抱きあげた。
母親が思いつめていて夜泣いているのを知っていた。
母親は白湯に口をつけたが顔を上げずお湯飲みをぼんやり見ていた。
「いろいろあるね。泣きたいことあるね。でもね、赤ちゃんを産んで1週間は泣いちゃだめですよ。血の道と言って、出産後体の外へ出さなきゃいけない悪い血が、頭に上ることがあるって昔からいわれているわ。今は何を考えても心配事になるだけ。そんな時は何にも考えず赤ちゃんの顔見てたらいいの。赤ちゃんはママが大好きなのよ。ほら、今もママを探しているわ。無理はしないことね」
落ち着いた母親に赤ちゃんを返し、ナルは微笑んだ。
那美はその話を聞いた後、これからは赤ちゃんのために強くなろうと決心した。
新しい年が開けた。
賢一と那美は毎年、自宅の近くの西宮神社に初詣に行っていたが、出産を控えた那美は大事をとって今年の参拝を見送り、エンゼル助産院へ行くことも止めて、自宅で日頃と変らない生活の正月を過ごした。
新しい命は那美や家族の愛に見守られ順調に育っていたが、血管腫は腹囲とともに拡張していた。
1月10日早朝6時、西宮神社参拝の一番福、いわゆる1番乗りを競って、参道を走り抜ける「開門神事福男選び」の神事が行われた。
町を取り巻く熱気は、少し離れた賢一の自宅まで伝わってきた。この日のために参加者は日々鍛錬に励む。そして、この日だけは、日頃願いを胸に訪れた人を神前へと導くための参道が、鍛錬の成果を競う道となる。
毎年繰り返される神事は、参加する人々に願いを込めて一陽来復を告げる。テレビの中継で今年の一番福の男性が意気揚々とインタビューを受けていた。そんな映像に映る西宮神社を観ながら、那美は初詣に行かなかったことを悔やんでいた。
西宮神社は、商売の神様の恵比寿様が祀られているのだが、その恵比寿様のもうひとつの物語が、那美にとって心の拠りどころとなっていた。
いにしえの物語で、いざなぎの命といざなみの命との間に生まれた、悲運の御子の名はヒルコ。御子として認められず、葦の船で海に流され捨てられるが、ヒルコの神は、海の守護神エビス神として再び現れ、西宮神社に祀られたと言われている。
那美は悲運のヒルコの神に、生まれ持ったものがどのような厳しい定めであろうと、必ず救われるものがあると信じて、毎年祈りをささげ願ってきた。神前で手を合わせ、一年の無事と幸せを祈り願う少しの時間。その束の間が那美にとって、かけがえのないやすらぎの源だったことに気づいた。
出産を目前に手を合わせることが叶わなかったことで、平穏な日々は二度と訪れないのではという恐れが、那美の出産への不安を計り知れないものへと変えていた。
そんな年明けに、深刻な顔のナルが賢一の自宅を訪れた。賢一と那美、那美の両親が揃っているリビングに入るなり、ナルはいきなり賢一に切り出した。
「明日入院する、その上様子を診て帝王切開をするなんて。健一さん突然すぎません?」
剣幕に押されながらも賢一はナルに椅子を勧めて、冷静に答えた。
「叔母様、お掛けください。昨日の正月明けの検診で血腫の拡張が速まっていました。2週間以内に手術をしなければ、血腫の範囲が広がり手術できなくなります。ぎりぎりまで待ってあと10日です」
「どうして選択肢が帝王切開だけなの?」
「血腫の原因がわからない上に、出血の場所が動脈瘤になる可能性があり、自然分娩に耐えられるかどうか保証できないからです」
ナルは青ざめた那美を見て、意見を求めるように視線を兄の宇治地に移した。
「お兄様」
「ナル、那美のためだ。病院に任せよう」
その言葉にナルは、今度は母親の智子に同意を求めたが、智子は目を伏せ、お茶を入れると席を外した。
宇治地はナルが智子への説得を始める前に話し始めた。
「君が、那美の子供を人任せにせず、自分の手で取り上げたいのは分かっているよ。しかし途中で血管が破裂したらどうする? 腹部動脈に問題があるとすれば、子宮の収縮でどんな影響が出るか分からん。問題がなくても出産が命がけだというのは、お前が一番よく分かっているはずだ。那美の場合、普通分娩はリスクが高すぎる。はっきりしている危険は回避すべきだ」
ナルは震えている那美を見た。
「分かりました。賢一さん、よろしくお願いします」
ナルは落ち着いた口調に戻っていた。
納得していなかったが、口論することで那美を追い詰めることになると思い、しばらくすると席を立った。
ナルをすがるような目で追う那美に、
「那美ちゃん、赤ちゃんと乗り越えなきゃね。大丈夫よ」
声を掛けリビングを出たが、玄関で見送る賢一にため息をついた。
「賢一さん、分かっているのよ。だけどあなた達の言う危険は、あなた達が今思いつく、目に見える範囲の危険でしょ。母親は、我が子を守るためなら覚悟ができるものなの。でも那美はまだその覚悟ができてないのよ」
「すみません」
賢一は頭を下げ、ナルを見送るとリビングに戻った。
リビングでは那美の横に智子が座っていた。
「ママ、叔母様が・・・」
「気にしないで、ナルちゃんは感情的になりそうだったから失礼したのよ。自分が抑えきれなくなったのね、那美のことが心配でたまらないのよ」
賢一も横に座り、少しでも那美の不安を取ろうと肩を抱いた。
「叔母様も今の状況は分かっていらっしゃいます。母親は我が子を守るためなら覚悟ができる、っておっしゃっていました」
「我が子を守る覚悟か・・・生まれるまで実感がないからな、父親という者は」
那美は家族それぞれの顔を見た。那美を思い、子供を思い、はっきりと言い切れない選択の重さに、それぞれ心を痛めていた。
「賢一さん、私、赤ちゃんと一緒に頑張るから」
那美はお腹に手を当てて、賢一に涙目の笑顔を向けた。
翌日午前10時、那美は西宮総合医療センター病院に入院した。
那美は緊急事態を想定し、個室に入った。ひとりベッドに座っている那美は、まだ見ぬ我が子に話しかけていた。
「ママが守るからね。あなたを。大丈夫だから。きっと会えるから」
何度も、何度も、自分に言い聞かせるように繰り返していた。
一方、病院のカンファレンス室では、那美の担当の大古都医師、和久看護師が宇治地夫妻と賢一に入院計画を伝えていた。
入院計画書には、稲木那美 手術日 平成7年1月14日午後1:00と記入されていた。
1月13日 手術前夜、産科3階ナースステーションに大戸野ナルが面会のために現れた。夜勤の新人看護師樋口は、面会時間を過ぎていることを気にしたが、ナルは身内だからと押し切り、堂々とした態度で病室へ向かった。
ナースステーションの2人の看護師は声を落として話し始めた。
「何者ですか?」
樋口看護師は見えなくなったナルの姿を追って質問した。
「那美さんの叔母さんらしいわ。西宮で助産院をしていて、普通分娩をする予定だったらしいけど、あの状態じゃ病院じゃないと無理ね」
「でも原因わからないし、血液も抜けないでしょ」
「抜いてもすぐ出血するらしいわ」
「それじゃ血腫破裂したら大変じゃん」
「だから早めの手術なのよ」
「大丈夫・・・なんですか?」
「エコーでも問題ないみたいよ。順調らしいわ」
「でも、何かありそうですね」
「なんて事言うの。めったな事言うものじゃないわ。さ、仕事しなきゃ和久主任にしかられる」
長引きそうな噂話を切り上げて、尾上看護師はカルテを持って消灯の準備に病室へと向かった。話に未練がある樋口看護師だったが、座り込むとチョコレートを口に放り込んで、何食わぬ顔でパソコンに向かった。
看護師の態度など気に留めず、ナルはノックして那美の病室に入った。賢一は不安そうな那美の手を摩っていた。ナルの顔を見るなり、那美はほっとしたのか子供のような泣き顔になった。
「叔母様」
「ごめんね。忙しくて来られなかったわ。でも赤ちゃん3人取り上げたわよ。明日は那
美ちゃんの番ね」
賢一は、込み上がる思いが止められなくなった那美に、叔母と姪の関係を越えた絆
の深さを垣間見て、席を立つことにした。
「叔母様、ちょっとお願いしてよろしいですか?」
にこやかにうなずくナルに一礼し、賢一が部屋を出ると、ナルは那美の顔を覗き込んだ。
「叔母様怖いの、怖いの」
「そうね、怖いわよね、一人で抱えているからね。周りは何にもできないもの」
ほろほろと泣く那美を、ナルは静かに暖かく語りかけながら、那美の手をおなかに当てさせた。そしてその上から自身の手を重ね、胎児に語りかけた。
「大丈夫よ。心配しないで、ママがいるから大丈夫」
今度は那美に向かい諭すように言った。
「那美ちゃん、あなたの不安があなたの赤ちゃんを不安にさせるの。赤ちゃんはあなた
の一部、一心同体なのよ。出産は親子で一緒に乗り越える最初の仕事なの。たとえ帝王
切開だとしても同じこと、気をしっかり持って臨みなさい」
泣き止み、大きなため息をついた那美の手に、我が子の存在が伝わってきた。那美は
愛しそうに自分でおなかを摩っていた。ナルは穏やかな口調で続けた。
「那美ちゃんしっかりしなさい。出産はね、途中で止められないの。赤ちゃんがこの世
に無事生まれるまで、痛くても、辛くても、投げ出すことはできないの。あなたが母親
になり、我が子を抱きしめるために、乗り越えなきゃいけないことなの。それは授かっ
たその日から始っているのよ。分かっているでしょ。こんなことで弱気になってどうす
るの。赤ちゃんにはあなたしかいないのよ。あなたが守るの。あなたの赤ちゃんなのだ
から。赤ちゃんと一緒に頑張らなきゃ」
「叔母様・・・」
顔を上げた那美は母親の表情になっていた。