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無の章 迎撃されし至純 ~受命~

NO.2

賢一は西宮の自宅に帰るとベッドに倒れこんだ。疲れきった身体は手足の先まで重く沈んでいくのに、胸には飲み込めない現実が杭を打たれたように刺さっていた。

その刺さった杭の周りを若かりし賢一と那美が戯れていた。


 那美との出会いは、賢一24歳、那美19歳の夏だった。

国家試験を間近に控えた賢一は、友人の秋津と祖父の住んでいる淡路島に行った。2人は祖父の家に一泊して、翌日鳴門の渦潮を観光しようと南下した。昭和60年の6月、大鳴門橋が開通すると、展望台から間近に渦潮を見ることができるようになったのだ。潮が渦を巻く時刻は満潮と干潮の時で、その日によって違う。

 この日の渦潮は昼の12時と夕方の6時過ぎが見ごろだった。賢一たちが着いたのは夕方の6時を過ぎていた。賢一と秋津は、早速渦潮を見ようと展望台に降りて行った。

 先に何人かの観光客がいたが、賢一はその中に、柔らかく巻いた髪が華やなのに清楚な雰囲気の女性に目を留めた。その人は、はしゃぐ姿はまだ少女のようなあどけなさがあり、キラキラと輝いて見えた。

「なあ、渦潮に飛び込んで自殺した者はいないそうだぞ」

秋津の突拍子のない言葉に、賢一はその人から目を逸らし、風にあおられた髪を触りながら渦潮を覗き込み、ばつの悪さを隠した。

「やっぱり、渦に巻かれる自分の姿を想像すると、飛び込めないな」

腕を組んで分析をしているような口調の秋津に、こいつは何があっても覚めているだろうと、ひとりで納得をした賢一は、気になった人のことを秋津に話すことをやめた。

「秋津、もういいだろ。帰るぞ」

「俺は海と河がせめぎ合う、河口ってやつが好きだが、この海峡っていうのも気に入った」

賢一はそんな秋津を置いて、先に駐車場に上がってきた。

 夏の太陽はゆらゆらと赤金の衣をまとい、島の浮かぶ海に隠れ始めていた。賢一は海峡に沈む夕日に見入っていた。渦潮を見終わり、帰り始めた観光客も足を止めていた。賢一は後ろに気配を感じたが、落日の瞬間を見逃すまいと振り返らずにいた。

「秋津、すげえな」

少し間をおいて、予想しない声が返ってきた。

「ほんとうにきれいですね」

耳を疑いながら振り向くと、その人は小首を傾げて賢一をみていた。気になっていた女性、宇治地那美との出会いだった。

 海に臨む人々は、自然の織り成す壮大な瞬間に居合わせた偶然を、心ゆくまで楽しんだ。昼が終わりを告げ、しめやかな夜の訪れの始まる夕間暮れの中で、2度と見ることのない情景を共有したことで、賢一と那美に言葉は必要なかった。茜色の静寂の中、地球の鼓動と二人の鼓動が重なることが、必然に感じられた。

二人の夕日影がそっと寄り添ったのを遠めに見ていた秋津はにやりと笑った。

「扁桃体、パワー全開ってね」

「なんのこと?」

「パワーって何?へんとう、なにかするの?」

那美の連れの金山美由紀、埴屋慶子は、秋津の面白がっている様子を見て、今から寄り添う2人に起こるであろうことに胸を躍らせていた。


 那美達は南あわじ市の福良にあるやぶ萬という老舗のホテルに宿を取っていた。それを聞いた秋津は賢一に内緒で同じホテルに宿泊することにしたのだ。賢一はそんなこととも知らず、那美達をホテルに送っていった。

「チェックインは済ませておくから」

助手席の秋津は先に降りると、賢一には説明ひとつせずフロントに向かった。

また何かに興味を持ったなと秋津の後姿を目で追いながら、賢一は那美達を降ろすと玄関前の駐車スペースに止めた。

 たまたま空いていた部屋はベッドが2つ並び、食事用に丸テーブルがある洋室だったので、賢一達は那美達の部屋で一緒に夕食を取ることになった。賢一と秋津は温泉に入ってから浴衣に着替えてきた。その間、那美は美由紀と慶子からの質問攻めにあっていた。

「いつからなの?渦潮見てたとき?」

「どこがよかったの?私、秋津さんが好きだけど」

「ええ?・・あんなドSのどこがいいの?信じられない」

「とにかく頑張るのよ、那美。医大生でしょ。いいじゃない」

 那美は、親友たちのお節介に困惑しながらも、心惹かれる人との時間を楽しみにしていた。しばらくして夕食が運ばれてきた。ソファーに座り、席を決めるのにもめている2人を笑って見ていた那美は、突然のノックに思わず立ち上がった。慶子が返事をしながら賢一と秋津を出迎えた。

 上座に座るように促す慶子を無視して、秋津は窓を背にした席に座り、賢一に横に座れと合図した。結局、賢一の隣に那美が座り、向かいに美由紀と慶子が座った。秋津は一滴の酒も口にせず、酒を勧める美由紀と慶子を適当にあしらいながら福良の海の幸を堪能していた。

 賢一はビールを飲みながら、話に付き合っていた。那美は成人していないからと賢一の注ぐ酒を断ったが、周りに押し切られ、甘めの酒に口をつけた。一口の酒は、片恋人の存在を息苦しくなるくらいに大きくした。

 しばらくすると、那美は膨らむ想いを持て余し、そっと席を立ち、部屋を出ると階下に行き、フロントに散歩すると告げた。外へ出た那美は、ホテルのほぼ正面にある神社の階段を眺めた。静まり返る夜の神社は独特の雰囲気を放っていた。

「散歩、止めようかな。でも」今部屋に帰っても、苦しいだけだもの。那美は持ちきれない戸惑いを紛らわそうと、左に折れ歩き始めた。昔ながらの家並みが続く静かな路地をゆっくり進んだ。

 やがて頭上の優しい月が、那美の行く道を照らしはじめた。今夜はいざよいの月、ためらいながら昇ると言う月の光に、那美の戸惑いは切なさに変わっていた。

 賢一はフロントに尋ねて那美を追った。那美が席を立ったのは気づいたが、煩わしさが酒をあおらせていた。秋津と賢一の間に入り、酔って絡む慶子の脇から、秋津が部屋の鍵を差し出して、追えと目配せした。面倒臭さを装って立ち上がったが、部屋に戻ると着替えることさえもどかしく、慌てている自分に気づいた。

 左へ行ったとフロントは言った。福良の町は、船から直接水揚げをするために造られた水路が、いたるところに通っていてる。水路を見ながら道なりに少し歩くと、福良港に出た。逸る気持ちを抑えて海沿いを歩く賢一の前に、月映えの那美がいた。

 賢一はなおさら、逸る気持ちを抑えて声を掛けた。

「どこに行くつもり?」

その声にとくっと那美の胸が躍った。那美は振り向く前にもう一度、いざよいの月を見た。

「どうしたの?」

「ひとりじゃ危ないよ」

「・・・そうよね。・・・ありがとう」

返事になっていない会話に賢一は笑った。

「少し歩く?」

混乱している那美は、返事をせずにひとりで歩き出した。防波堤が切れて、穏やかに揺れる海面が現れた。歩きながら賢一は目の前に浮かぶ小さな島のことを話し始めた。那美は賢一の声に酔っていた。

「大丈夫?お酒がだめだった?」

那美は小さく首を振った。

「帰ろうか?」

今度は、はっきりと首を振ると立ち止まった。後ろから那美の肩に触れようとした賢一の右手に部屋の鍵があった。那美と右手のひらの間にある鍵の存在が秋津だった。

「やはり帰ろう」

そう言うと、賢一は那美の手を引き、ホテルに向かった。歩きながら那美が見上げた月は、遠くにぼんやりと見えた。

「慶子ちゃんと美由紀ちゃんが心配だな」

那美に歩調を合わせながら、帰る言い訳のように賢一が話し始めた。

「どうして?秋津さんの方が心配だわ。あの二人お酒強いし、飲むとめちゃくちゃだから、きっと秋津さん困ってると思う。」

「そうか、めちゃくちゃなのか。だったら余計心配だな。秋津の趣味は人間観察と解剖だからね。」

「え・・・解剖・・・」

「そう、内臓の模型を片手に、解剖の話をする時だけ赤ワインを飲むんだ。秋津はね」

「じゃあ、私の大切な親友は秋津さんに、今解剖されているかもしれないのね」

「そうだよ。そして僕達もね、あいつの餌食にされそうなんだよ。用心しなきゃ大変だよ」

 那美は賢一の気遣いが分からないまま、差し出した心の置き場を探しながら歩いていた。ホテルに着くと、賢一は那美の部屋の前で足を止めたが、

「それじゃ、面倒だから僕はこのまま部屋に帰るよ。秋津にほどほどにって伝えてね」

賢一はたたずむ那美に言い残し、部屋に向かった。

 明日、秋津に人間観察されるのは真っ平だと、賢一は自分に言い聞かせ、鍵をブラブラさせながら部屋に着くとドアを開けた。部屋に入りながら、那美との別れ方が気になり立ち止まった。

 引き返そうと思い直し、閉めかけた左手の力を抜いた時、その手に華奢な指がそっと絡んできた。開けたドアに隠れて、切なさに震える那美を、賢一は迷わず抱き寄せ部屋に入れた。


 翌朝早く、那美が部屋に帰ると秋津の姿はなく、二人の友は飲み過ぎたらしく起きる気配はなかった。那美は身づくろいを済ませると、昨夜お参りしようと決めていた神社に向かった。気恥ずかしさで、友人達の前で賢一と顔を合わせる時間をできるだけ遅らせたかった。

 そんな那美を朝風呂をすませた秋津が見ていた。部屋に帰ると賢一の姿が見当たらなかったが、秋津はかまわずにテーブルに用意された朝食をすませた。

 朝食の後、合流した5人は、昨夜のことをそれぞれが気にしながらも、言葉にせずに

福良港から沼島に向かった。

 慶子の勧める沼島は淡路島の南4.6Kmの海上に浮かぶ周囲10Kmの離島。

窯元の娘の埴屋慶子は、土いじりが高じて、地層を見て歩くことを趣味にしていた。

沼島は勾玉の形をした、国生み神話のゆかりの島で、国土創世の際、「天の沼矛あめのぬぼこ」の先から滴り落ちたしずくが、凝り固まってできたという「おのころ島」だといわれている場所のひとつらしい。

 沼島に着くと、慶子の案内で、室町時代に造られたという沼島庭園や、王の川と呼ばれる八角井戸、沼島特有の青色片岩、赤色片岩を使った石垣などを観て回った。

 帰りのフェリーまでの時間、古事記に登場する上立岩とおのころ神社場所を観ることになったが、島を横断する上立岩と、おのころ神社の2ヶ所を観るには無理があった。どちらにするか決めかねていると、

「稲木と那美さんはおのころ神社、後の3人は上立岩、でどうだ」

と言いながら、秋津はすでに腰を上げていた。

「それいい」美由紀はすぐに立ち上がった。

「でも、みんないっしょに・・・」

言いかけた慶子はくすくす笑う美由紀をみて、企みに気づき、

「わかった。そうしよう」と後を追った。

 残された賢一と那美は、料理屋の裏手にある古事記ゆかりのおのころ神社に向かった。参道とは思えない細い道を、稲木に手を引かれて登って行く那美には、その一歩一歩が運命のように思えた。途中、足元の悪さや、急な勾配に賢一について行くのがやっとだったが、山頂に向かいまっすぐ伸びた階段を登りきると、静かなたたずまいのおのころ神社に着いた。

 小高い山にあり、木々に囲まれ、ひっそりと建っている質素なお社。その飾り気のなさは、手を合わせる人に素のままでよいのだと告げていて、それが故に、この場所は長い年月、苦しみと向き合い幸せを願うためだけの神聖な神の空間として、生活に感化されず守られて来たのだろう。

 那美は神様が祀られているという奥の方へに目をむけた。その奥から聞こえる鳥のさえずりに耳を傾けていると、じわりじわりと周りがゆがみ、お社の壁が少しずつ消えていった。那美自身も、お社と同化して透明になり、大きな柱に取り込まれ空へ昇っていくような錯覚に陥った。遠くで賢一の声がした。

「昔から人々は願いを胸にここまで御参りに来たんだね。こんなにしてまで上がってきたんだ。神様も叶えてあげようって気になるよな」

賢一に引き戻されたように感じた。おぼろげに残る不思議な心地よさに、那美は言葉にしないと決めていた胸に秘めた想いを、賢一の背中に呟いた。

「神様、お願い叶えてくださるかしら?」

声が届かなかったのか、賢一の返事は聞けなかったが、2人は社殿の前に並び手を合わせた。

 下山すると上立岩から帰った3人がフェリー乗り場で待っていた。海原を背に、雄大にそびえ立つ上立岩の中央にハートの形が見えたことや、道すがらの秋津との会話を面白おかしく話す美由紀と慶子に、笑って応えた那美だったが、心のうちでは賢一の気持ちが分からず、途方にくれていた。

 別れの時間が近づくにつれ、寄り添いたい気持ちとは裏腹に、那美は賢一から離れていた。気持ちを察した美由紀が秋津に何か話していたが、賢一はといえば、慶子と他愛もない話をして笑っていた。

 フェリーに乗り込むと、賢一は秋津と座り、那美は2列後方の窓際に座った。フェリーが動き出した。海を渡ると別れが待っている。衝動的な行動のあっけない幕切れが訪れようとしていた。横に座った慶子が場つなぎの話を始めた。

「この海の下には、構造線が走っていて淡路島側と沼島側の地層はまったく違うのよ。目に見えないけれど、何万年前から底にあるの。そこを今私達、跨いでいるのよ、すごいと思わない?地球そのものをかんじない?」

 那美は慶子の言う構造線が走っている海を眺めた。その奥底に何が潜んでいようと何が起こっていようと、那美の目の前にある海は海でしかなく、慶子のように想像できなかった。

「賢一さんと一緒だわ。何も分からない」

「何か言った?」

美由紀と話していた慶子が尋ねた。

「うん、人の心と一緒だなって思ったの。表面じゃ分からないから」

遠い海を見ている那美にそれ以上言葉を掛けずに、慶子は美由紀に目配せした。

 港に着くと、那美を見ることもなく通路を通り過ぎた賢一が、うつむいている那美の視野に入った。指先が白くなるほど手を握ると、那美は涙をこらえて立ち上がった。

フェリーから桟橋に渡った。美由紀と慶子は先に歩いていた。賢一に2度と会えないと思うと足が進まなかった。苦しくなって立ち止まった那美に、賢一が声を掛けた。

「大丈夫?」涙で言葉の出ない那美の手を取り待合室に入った。

それぞれ別れの挨拶をすると、少しだけ笑顔の戻った那美に、賢一はメモ用紙を渡した。

「楽しかったね。いい思い出をありがとう。それからこれは連絡先」

那美はメモを見て番号を確かめた。

「ありがとう、連絡します」

泣き笑いの那美の顔をそっと指で拭くと賢一は車に乗り込み去っていった。那美は賢一を見送ると、メモ用紙を挟んで手を合わせ、繋がった縁を沼島の神様に感謝した。

 その後、那美は何度か連絡をしたが、沼島を後にして東京に帰った賢一からの連絡はなかった。

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