無の章 迎撃されし至純 ~受命~
NO.1
シカレドモ クミドニオコシテミコ ヒルコヲウミタマイキ
然れども くみどに興して子 水蛭子を生みたまいき
コノミコハ アシブネニイレテ ナガシウテキ
この子は 葦船にいれて 流し去てき
-イザナキノミコトとイザナミノミコトの国生み・神生みのエピソード-
稲木賢一
稲木那美
大戸野ナル助産師那美の叔母
秋津勇人
金山美由紀
波邇屋慶子
御津波看護師長
和久霧子看護師
大古都医師産科医師
石土医師産科医師
筒賀武史西宮総合医療センター病院事務長
能見医師内科医
大戸日医師麻酔科医
石巣看護師手術担当看護師
天之医師内科医
豊雲院長西宮総合医療センター病院長
宇治地真 那美の両親
宇治地智子
稲木角雄 賢一の両親
稲木活代
常伊達代議士
風木事務次官
主田流モデルアカデミィー校長
20年前兵庫県西宮市
地域総合西宮医療センター病院の産科病棟の特別室。
1月の中旬、小寒の冷気をまとった空が夜明けを告げ、新しい1日が始まろうとしていた。だが、当病院の内科医、稲木賢一の心は深い闇に沈んでいた。
賢一の妻、稲木那美は2月中旬に出産を予定していたが、腹部に発症した原因不明の血管腫の為、大事をとり1ヶ月早く帝王切開手術を受けた。手術自体は成功だったが、妻の意識は戻らなかった。
しばらくICUで経過を診ていたが、夕方には特別室とは名ばかりの、心電図の器械とベッドとパイプ椅子だけの簡素な病室に移され、那美の病状は隔離が必要との判断で、面会は禁止され、限られたスタッフでの看護を受けていた。
那美の目覚めを願いながら、硬く凍った夜を過ごした賢一の虚ろな視界に、ブラインド越しに外の明るさが部屋の中に伝わると、ゆっくりとした呼吸で、ベッドに横たわる青ざめた顔の那美が浮かび上がった。
生きているのか、生きていると言えるのか、仮死に近い状態で、対処のしようがなく、さらに急変することもあるとの診断を受けた妻。医者でありながら、その妻に触れることも出来ずにいる賢一は、膝に置いた手を祈るように合わせて、ベッドから離れた椅子に座っていた。
傍目には、落ち着いて見える賢一だったが、逃げ場のない後悔に疲労も重なり、冷静な思考は妨げられ、「私手術したくない」と言っていた那美の泣き顔や声が、苦しみを重ね塗った壁となり、賢一を押しつぶそうとしていた。
1月14日午後1時
手術台の上の那美は全身麻酔で眠りにつき、周りを囲む医師、看護師は慣れた手つきで準備に取り掛かった。
「これより稲木那美さんの帝王切開手術を始めます」
大古都医師が重々しく告げると、スタッフに緊張がはしり、大古都がメスをとり手術は順調に進んだ。
「子宮切開、胎児を・・・」と言いかけた大古都は絶句し、手を止めた。
かんしを持ったまま何事かと覗き込んだ石巣看護師は、嗚咽のような悲鳴を上げ、全員が子宮に包まれている胎児の異様さに息を呑み、時が凍ったように動けなくなった。
大古都のメスを持つ右手が、かすかに震え始めた。心電図の異常を知らせるアラームに、大古都は落としかけたメスを持ち直した。
「母体の血圧、脈拍低下しています」石土医師が冷静さを取り戻し伝えた。
大古都は慌てて胎児を取り上げた。胎児を受け取った和久看護師が短く叫んだ。
「呼吸なし、心音ありません」
「石土先生、子供を頼む。縫合を急ごう」
大古都は通常の帝王切開の処置を行い、手術を終えた。
手術室の前で待っていた賢一は、「手術中」のライトが消えたドアの向こう側が、ただならぬ気配なのを感じ、立ち上がった。
帽子を取りながら強張った表情で出て来た大古都に、賢一は矢継ぎ早に尋ねた。
「それで、手術は?」「那美は?」「子供は?」
賢一の切迫した表情に大古都はたじろいだが、意を決したように口を開いた。
「手術は成功した。奥さんもお子さんも・・・無事だ」
その言葉に一変して安堵の表情を浮かべた賢一は、大古都に頭を下げた。
「ありがとうございました」
だが、大古都の強張った顔が苦痛に歪むと、搾り出すような声で告げた。
「いや、無事じゃない、無事じゃないんだ」
「何を言っているのですか。分かるように説明してください」
賢一は目を逸らした大古都の腕をつかみ、正面に立った。
「説明できない。命は取り留めた。手術による身体的なダメージはないがバイタルが尋
常じゃない。意識が戻るかも分からない。お子さんも同じだ。お子さんについては、」
言いかけて弱々しく首を振り、後ずさりする大古都に、賢一は返事を迫った。
「言葉に出来ない程の状態なのですか?」
大古都のうわずった声は、那美を運ぶストレッチャーと看護師の声にかき消された。
賢一は那美に駆け寄り、ゆっくりとした呼吸で、寝ているように見える那美に、
声を掛けた。
「那美・・・」
いつもの姿の那美を見て、安堵の表情になった賢一に対し、岩本の険しい表情は変わらなかった。
「子供に会わせてください」
事の重大さを感じた賢一は、医師の冷静さを取り戻していた。何が起こったのか、経験豊富な大古都が説明が出来ないとは何なのか。考えをめぐらす中で、賢一は先を歩く大古都の背中が何かに怯えているようにも見えた。
出産から2日後の16日午前中、妻の病室で賢一は、担当の能見医師と那美のベッドの傍らに立ち、事務的に話をしていた。
「術後、バイタルは低下していきましたが、今は状態が安定しています。体温、血圧、脈拍、心電図では人としては有り得ないことですが、実際のところ奥さんの生命は維持されています」
看護記録を見ながら賢一は改めて自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「体温34.0度、血圧60/30、脈拍20、この状態が3日続いている。生命維持装置をつけても変化がない。食事どころか、点滴さえも必要ない。それでも生きてい
る」
能見は、賢一の言葉を無視して、話を進めた。
「これからは緊急保護管理棟のほうへ移っていただき、時間をかけて治療をしましょう。豊雲院長もそのようなことを話されていました」
賢一はこの病室に移った時から管理病棟行きを覚悟していた。管理病棟は、完治の見込みのない原因不明の患者や研究対象の患者を収容する病棟。覚悟はしていたが、あまりに急で一方的な話に即答できなかった。
能見が返事の催促をするように早口で言った。
「お子さんとご一緒に明日にでも移りましょう」
賢一は看護記録をパタンと閉じ、返事の代わりに感情を消して尋ねた。
「在宅を希望しますが、どうでしょうか」
能見は看護記録を受け取り、代わりに病室移動の同意書を賢一に渡すと、ドアに向かいながら告げた。
「今の状態は急変する危険性があります。初めての事例ですし、原因についてもはっきりしていませんので、詳しく調べる必要があります。感染症の疑いもありますから、在宅は危険でしょうね」
能見が部屋を出ると賢一は、妻の顔にそっと触れ、儚げな温かさを確かめた。今にも消えそうな温もりは手術直前の、頼りなげにほほ笑む那美との会話を思い出させた。
手術直前、賢一は、ベッドの脇に座り、黙りがちな那美の不安を少しでも除こうと、那美の華奢な手を摩りながら話しかけていた。
「大丈夫だよ。今のところ母子ともに何の問題もないし、大古都先生にお願いしてあるから、心配しないで」
「分かっているわ。分かっているの。でも切りたくない」
「傷が残るからいやなの?」
「そうじゃない。ただ普通に産めるかもしれないのに・・」
「ナル叔母様はそうおっしゃっていたが、血腫の広がりを考えるともう限界だよ。君と僕の子供にとって、手術は今できる最善かつ、安全な方法だよ」
「ええ・・・でも赤ちゃんが切らないでって言ってる・・・」
那美は胸を押さえ、込みあがる感情を飲み込むよう目を閉じた。短い沈黙の後、賢一に気づかれないように小さなため息をついた。
賢一は深刻な雰囲気を和らげようとすこし笑ってみせた。
「不安なのはよく分かるよ。君とおちびちゃんは、僕がしっかり受け止めて守るから」
賢一に応えるように、那美は不安を隠した笑顔でうなずいた。
「そうね、もし、何かがあったとしても、あなたを信じる。守ってくれるって信じているから」
「約束するよ」
賢一は顔を上げ、会話の終わりを看護師に合図した。那美は賢一の手をゆっくりと放し、目を閉じると、不安を抱えたまま手術室へ消えていった。
手術後2日経った16日の午後になっても、妻の病室は面会謝絶の札が掛かったままになっていた。思いつめた賢一の耳に、激しく言い争う声が聞こえてきたが、疲れきった身体は一切反応しなかった。助産師をしている那美の叔母、大戸野ナルが、病室の前で看護師と押し問答をしていた。
「困ります。面会謝絶です」
「私は那美の身内ですよ。面会できないなんて理不尽な、通しなさい」
病院の命に従い、病室のドアを背にてこでも動かない藤原看護師に、詰め寄る大戸野ナ
ルの怒りは手を上げんばかりに達していた。
「藤原さん、402号室の丸園さんの処置をお願いします」
背中越しの声に振り向くこともなく、ナルは看護師を睨みつけていた。
そんなナルの脇を藤原は身をずらしながら通り、声の主、主任看護師の和久霧子に訴えかけたが、有無を言わせぬ静かな視線に従い足早に立ち去った。
「大戸野先生、失礼いたしました。稲木先生に取り次ぎますのでお待ちください」
その声に、ようやく振り向いたナルに一礼し、和久看護師は面会謝絶のカードを外すと
ノックした後、賢一に取り次ぎナルを通した。
「和久さん、ありがとう」
苛立ちを抑えてナルはゆっくりと病室に入った。ナルは穏やかに横たわる那美の姿
に、尋常ではない不自然さを見て取ると、突然の見舞いに戸惑い椅子から慌てて立ち上
がった賢一に、怒りの矛先を向けた。
「賢一さんどういうことなの?説明して頂戴。手術の立会いもできず、3日たっても連
絡がないので来てみれば、那美の意識はない。子供はどうしたの?無事なの?いったい
どうなっているの」
言葉なくうなだれる賢一を、攻める言葉は容赦なかった。
「だから言ったでしょ。母親の体は子供を守るようにできているの。あんなに嫌がっていたのに、那美は納得してなかったはずよ。それをあなたは」
ナルは怒りで身体を震わせながら続けた。
「あなたは何を信じて判断したの?」
返事も出来ず、賢一は崩れるように椅子に座った。賢一の耳にナルの声が、「貴方を信じる」と言った那美の声に変わっていた。意識の戻った那美に不甲斐なさを攻められているようだった。
ノックの音でドアが開き、御津波看護師長が声を掛けながら入ってきた。
「稲木先生よろしいですか?」
御津波看護師長の呼びかけにナルは、冷静になり息をついた。
「どうぞ」
疲れ果て感情の消えた視線を那美に向けたまま賢一は低い声で応えた。ナルに一礼した御津波看護師長は、穏やかな口調で話しながら、賢一とナルの間に割って入った。
「大戸野先生ご無沙汰しております。・・・ご連絡も差し上げず失礼いたしました。早速で申し訳ありませんが、よろしければ私のほうで今回の経過報告をさせていただきたいと思っております。稲木先生いかがでしょか?」
御津波看護師長は答えのないことを前提に話を進めた。
「大戸野先生、今からお時間よろしいでしょうか?」
「大丈夫ですよ。そのつもりで来ましたから」
ナルは硬い声で応えながら、那美を守るように枕元に移動した。
「それではしばらくの間、那美さんについていただけませんか?稲木先生、この3日間ずっと那美さんにつきっきりで・・・」
ナルは、その言葉にあらためて賢一に目を向けた。肩を落とし、頭を抱えたその姿に賢一の絶望が見えた。
「賢一さん、貴方・・・ここは私に任せて家に帰ってさっぱりしてらっしゃい。無精ひげもお似合いだけど、目が覚めたとき那美がびっくりするわよ。その間に御津波さんに今までの経緯を聞いておくから、後で話しましょう」
賢一は静かに頭を下げた。
「宇治地の兄には私から連絡を入れます。夕方こちらへくる前に、顔を出してらっしゃい」
賢一は受け入れがたい現実から逃げるように、那美を避けて帰宅した。