無の章 手にした物はこの世の幻 ~刻命~
No.4
昇の車は有明埠頭に着いていた。沖縄行きのフェリーの手続きを済ませ、しばらくして出航を知らせるアナウンスに従って車で乗船した後、2人は部屋で出航を待つことにした。
一方、藤代たちの車は出航寸前で間に合った。フェリーに乗船すると、金森が昇の車を確認した。
「誰も乗っていないし、荷物もないすよ」
堂本も藤代も無言のまま車を降りて、船内の客室に行き大部屋を見渡した。昇たちの姿はそこにはなかった。
大部屋の中央を、一目で普通ではないと分かる5人の男が陣取ると、回りのお客が潮が引くようにいなくなった。
それをいいことに堂本が酒を飲み始め、しばらくすると、金森が調子に乗り踊りだした。
そんな雰囲気に嫌気の差した藤代は、一人で3階のデッキに上がった。何人かの客とすれ違ったが、9時を過ぎた時刻にデッキに出ている者はいなかった。
藤代は少し肌寒い空気の中で、潮風に混じって鼻腔の奥を刺激する、あの香りに会った。 誘われるように階下を見ると、若いカップルがベンチに座っていた。
藤代の左手が無意識にあごに触れた。男を知っていた。ルナという昇の女だったのか。ルナの正体が分かったとき、藤代の中に成彦の弱みの消滅と、ルナへの執着の2つの想いが生じていた。
コートの襟を立てた藤代は、ルナから目を離さず2、3歩後ずさりして船内に消えた。
テラの別荘からは、そびえたつ高千穂の峰の岩肌が見えていた。そして別荘の下にはゴルフ場が広がっていた。
テラと雄介は2日間かけて霧島に到着した。いつでも使えるようにと、メンテナンスの行き届いた部屋は快適だった。テラはソファーに座りコーヒーを手にして、ようやく2日間の息苦しさから開放されていた。2日間、車の狭い空間で奇妙な関係の男と過ごしたのだが、テラは車中で一言も話さなかった。しかし、その無言で過ごした時間に息苦しさはあったが不快な感情はなく、ぬくもりを感じる一定の距離感は会話がなくても不思議と心地よかった。
テラは初めての感覚を雄介に話してみたいと思ったが、座る間もなく動いている雄介の後姿に、
「家族ってこんなのものなのかな」
その言葉を呑みこんだ。
そんなテラをひとり残し、別荘のすべての部屋を確認すると、雄介は昇と待ち合わせている近くのホテルに移った。
昇とルナは志布志市に着くと、都城市を経て霧島町へと観光をしながらやってきた。
八神会が追ってきているのは分かっていた。テラが無事別荘に着くまで、ゆっくりと到着する計画だったのだ。
ホテルの部屋で雄介が一人予定の確認をしていると、昇とルナが入ってきた。
「おう、雄介ただいま到着。そっちはうまくいったか?」
「ああ、今別荘だ。あいつらはどうした?」
「多分、今頃ホテルに着いたんじゃないか。東京からこそこそ後つけてよ。こっちはみんな、お見通しなんだよ。フェリーの中じゃ、どんちゃん騒ぎで豪かったな。ルナ」
昇は雄介の部屋のベッドに腰掛けたが、ルナは入り口近くの壁に寄りかかったまま2人の話を聴いていた。
「おもしれ話あっけど後だな。雄介、これからどうするんだ」
「まず、車に乗せたいものがあるんだ。ロビーに行こう」
「ルナ悪りいな、ちょっと待っててくれ」
ルナは軽くうなずいた。
雄介はフロントに預けてあったボストンバックを受け取ると、駐車場へ向かった。
ロビーを通り抜けるとき、駐車場で昇の車を見ている八神会の5人が見えた。
昇と雄介は柱の影に隠れしばらく見ていると、3人の男が昇の車を丹念に調べていた。 少し離れて藤代と堂本がそれを見ていた。堂本が3人に何か言うと、5人そろってホテルへと向かってきた。雄介と昇はあわてて雄介の部屋に引き返した。
2人が出て行った後、ルナはベッドに置いてある雄介のジャケットを前に考えていた。
手には霧島神宮のお守りが2つあった。どうして八神会は、ここまで後を追って来れたのだろう。その疑問は成彦から渡された小さな機器が答えのように思えたが、ルナは昇にも言えず、不安がつきまとっていた。
ルナはお守りのひとつを手にとり、握り締めた。そう、成彦は昇を守るためと言った。
ルナは恐る恐る雄介のジャケットを手にして、それを内ポケットに入れた。
そのときドアが開き、昇と雄介が帰ってきた。
「ルナ、何してんだ。部屋に行くぞ。やつらが来てる。雄介、後は電話すっかんな」
雄介は、部屋に入ったときのルナの様子を不審に思った。
昇に急き立てられ部屋を出る時ルナは、立ち止まり振り返って雄介を見た。
「雄介、霧島神社でお守りを買ってきたの。テラさんに渡して」
雄介にお守りを渡すと、ルナは昇に引っ張られて部屋を出た。
雄介は手渡されたお守りを裏返して、手のひらで2、3回ぽんぽんと返し、ボストンバッグのポケットに押し込むと、登山用ユッケをはおって、レンタカーでテラの別荘へ向かった。雄介は車を近くの空き別荘に置くと、回りを探りながらテラの別荘に走りこんだ。
テラは着いたときのままの格好で、ソファーに座っていた。
雄介は買い込んできた食糧をテラに渡すと、自分も一気にパンを食べ始めた。
テラはそんな雄介を笑いながら見ていた。テラの視線に気付き咽た雄介を、テラは声をたてて笑った。
「食わないのか?」
「雄介の食べるのみてたら、おなかいっぱいになるわ」
「だけど、ここ2日間、ろくな物食ってねえだろ」
「そうだけど、血管腫ができてからあまり食べなくても生きていけるみたいなの」
「そっか、そう言えば俺も食わなくなったな」
「うそつき。今いっぱい食べてるじゃない」
「何言ってんだよ、今から高千穂の峰に登るんだよ。あんたをおんぶってこともあるしな」
「おんぶなんて、絶対ないからね」
テラは楽しそうに笑った。2人の他愛ない会話が、時間とともに流れていった。
午前2時が過ぎた。昇たちは3時に来ることになっていた。
雄介とテラの登山の準備はできていた。テラは吹っ切れていた。全てをさらけ出しても、そばにいてくれる人と出会えたことが、たとえそれがお金の為だとしても、心を安らかにしていた。だが雄介は、寡黙な雄介に帰っていた。緊張もあったが、否応なしの関係が切れる時が近づいていた。雄介はテラの終焉に対して、割り切れない気持ちを伝えるタイミングを、テラの笑い声の中に失っていた。
発信機1個が移動するのが成彦のモニターに映っていた。
成彦はテラの別荘、雄介と昇、ルナの居場所を特定していた。ルナが発信機を、上手く雄介とテラであろう人物に渡したようだ。
その日の夕方、まずルナではない発信機が、ホテルから別荘と思われる場所に移動した。そしてその別荘に、ルナと昇が午前3時過ぎに移動した。残りのひとつの発信機は、ホテルから動いていなかった。4時過ぎにルナが車で別荘を出た。その車には別荘から、もうひとつの発信機が反応していた。ホテルに残っているのは誰なのか、車に乗ったのは雄介なのか。成彦は不確かな情報の中で、先の見通しを立てられずにいた。
10分後、別の発信機が反応した。八神会が2キロの距離をおいて、昇を追っていた。モニターの中で執拗に同じ距離を保つ八神会に、成彦は言い知れぬ不気味さを感じていた。
30分たっても、ホテルの発信機に動きはなかった。
成彦は、テラ本人かどうか確認できないまま、テラの個人情報を取り出し、GPSで追跡をかけた。
雄介とテラは昇が去った後、別荘を出て高千穂の峰へ向かった。自然の籠児ともいえる雄介にとって山歩きは慣れたもので、ましてや一度体験している高千穂の峰への登山は、難しいものではなかった。
2人は高千穂河原から登り始めた。初めは薄暗い森の中を、懐中電灯の光で足元を照らして歩いた。雄介の心配をよそに、テラは歩き続けた。
どのくらい歩いたのだろうか。急な上りになり、足元はゴロゴロとした岩ばかりになったところで、テラが立ち止まった。
「ここでいいわ」
「・・・どう・するんだ?」
「ここから下りるわ」
雄介は応えようがなく、テラを見ていた。
「さようなら・・・」
その言葉に、雄介は思わず手を取りテラを引き寄せた。
「本当に行くのか?一人でいいのか?」
「(笑って)こうした方が楽になれるの。じゃあね」
テラはひとりで左手の森の中へ下りていった。
見送る雄介は立ち去ることができず、その場に留まっていた。
しばらくして、テラよりメールが届いた。
「ありがとう、雄介。昇と上手く仕上げてね」
雄介は来た道を2、3分戻ったが、歩きながら首を振ると、走って引き返した。
雄介は携帯でテラに連絡したが、応答しなくなっていた。
テラは森の中を、何かに導かれるように奥へ奥へと歩いていた。テラがテラでなくなるまで、見つからないところを探した。沢の近くに来たらしく、足元がぬかるみ始めた。テラは滑り落ち、その拍子に携帯を落とした。慌てて周りを探したが、
「もう必要ないものね」
そうつぶやくと、テラは水の中に落とした携帯を探すのをあきらめて座り込み、周りを見回した。音のしないせせらぎに、木々が覆いかぶさり、かすかな光しか射さない、静寂の場所だった。
テラは水の落ち口の近くの岩陰に、体が入るほどの穴を見つけた。
「私にふさわしいわ。雄介、おやすみね」
テラは岩の上に横たわると、眠るように意識を失った。
その時、雄介は高千穂の峰にいた。
ニニギノミコトが刺したという天の逆鉾を見上げ、テラのことを願っていた。
雄介は人生で初めて、大いなるものにテラの無事を願った。
夜が明けて辺りが明るくなったころに、雄介は車の後部座席に現金1億円を乗せて、待ち合わせの志布志湾に急いでいた。
そのころ昇は都城市を抜けて、鹿児島志布志方面の道路標識をくぐり、ほっとしていた。
「大丈夫みたいだな。誰も追ってこねえな」
「よかった。雄介と会ってこれからどうするの?」
「金、山分けして、俺はルナと暮らすか?」
「できるの? そんなこと」
「できるっしょ」
ルナの携帯に雄介から連絡が入った。
「雄介よ」
渡された携帯で話しながら運転している昇は、背後に近づく車にに気づかなかった。
「雄介、うまくいったか? こっち問題ねえよ」
「あいつらはどうした?」
「さあな、まいちまったしょ。昇さんは運転上手いからな」
「分かってるよ、でも油断するなよ。予定通りの場所で待っててくれ」
「よっしゃ、志布志湾だな。雄介、ありがとな。俺、雄介とだったら何でもできるよな」
「何、しみじみしてんだよ」
「そっか、しみじみか」
昇は携帯を後ろに放り投げると、ノリのいい曲をかけた。夢見心地の昇は、何でもできそうな気がしていた。八神会を出し抜いたのも気持ちを大きくしていた。
2人は携帯のコール音に、すぐに気づかなかった。ルナが携帯を探し出した。その時、バッグのポケットに見覚えのあるお守りを見つけた。
「どうしてここにあるんだろう」
そんな疑問を昇の催促で打ち消して、あわてて携帯に出た。
「ナルさんだ。はい、ルナです」
「ルナちゃん、気をつけろ、八神会が近いぞ‥‥‥」
携帯を切るや否や、横道から飛び出した車が昇の車に接触した。
八神会、堂本の笑い顔に、ルナが悲鳴を上げた。
昇はハンドルを切ったが、車はガードレールを擦りながら走っていた。
後ろから追い詰められ、昇は直線でスピードを上げ逃げ切ろうとした。
曇り空の薄暗い中、海が見えてきた。
「ルナ、このままじゃ、あいつらに捕まっちまう。いいかルナ、このまま海に突っ込むから、海に飛び出すんだ」
必死の形相の昇に、ルナは覚悟を決めた。
「うん、分かった」
昇は志布志湾に着いた。昇を追い詰めるように2台の車はぴったりと後ろについてきた。
急カーブを曲がり、目の前に海が迫ってきた。昇はアクセルを踏み切った。
落ちる車の中で昇は叫んだ。
「俺、お前のこと絶対幸せにすっからな。お前は一生俺の女だ」
3人の男が岸壁に駆け寄ろうとするのを止めて、堂本が真顔で言った。
「馬鹿な奴だな。遊びすぎだぜ」
「自損事故ですね。帰りましょ、面倒なことにならないうちに」
藤代は車に乗り込むとドアを激しく閉めた。
「室長、1億円はどうするんですか?」
金森らが叫びながら、車に戻ってきた。
「ばか、そんなもん、どうでもいい。付いて来い」
堂本は応えながら、藤代の険しい顔に、ただならぬものを見てとっていた。
車は飛沫とともに海に沈んでいった。助手席のドアが開いている車の中には、息絶えた昇がいた。
ルナは暗い外海に漂っていた。手にしていた携帯とお守りが、指輪と共に海の底へと静かに落ちていった。
そして、すらりとしたルナの右足にはスニーカーがなく、包帯がほどけたルナのその甲には、テラと同じ血管腫が現れていた。
成彦は事務所のモニターを見ていた。
霧島山系一箇所の反応が消えた。続いて、志布志湾で2個の反応が消えた。
「昇・・・」
成彦の中で、昇の顔が幼馴染の阿波島秀と重なった。
雄介はフェリー乗り場で、昇の連絡を待っていた。
何度も昇に連絡するが、応答はなく待つより仕方なかった。
シートを倒し、目を閉じていた雄介は、外のざわつきで起き上がった。
外海に近いところで、車が落ちたらしいと話し声がした。
携帯のコール音とパトカーの音が不協和音となって、雄介の不安をかきたてた。
「雄介・・・昇が死んだ」
と成彦の低い声が、雄介に告げた。
雄介は車から飛び出した。周りの人々が驚き、軽く声を立てたが、パトカーの走り行く方向に走り出していた。
志布志湾は明け方の雲の取れ、朝日を浴びて輝いていた。
雄介は1週間後、まだ誰も目覚めていない早朝に、福岡の宗像にある、わだつみの里という施設の前に立っていた。




