無の章 手にした物はこの世の幻 ~刻命~
No.3
ゴールデンウィーク1週間前、雄介は昇と居酒屋で成彦を待っていた。
連休中は成彦の仕事も休みのようで、雄介と昇はその間をどうするか相談していた。
相談と言っても、昇が思いつくことを雄介に話しているだけだが、明日を感じるようになった雄介は、一方的な話でもそれはそれで楽しんでいた。10日間で何か金儲けをしよう、と言い始めた昇に少し嫌気が差してきた頃、ようやく入口に大きな男が姿を現した。
成彦は190cmを超える大男で、ぎょろりとした目は、瞬時に全てを見通すことを会う者に知らしめる力を持っていた。居酒屋の関係のない客まで威圧しながら、雄介たちの席に、にやりと笑いながら座った。
新しいビールを頼むと、成彦は待ちきれないように、目の前の唐揚げに手を伸ばした。
そしていくつかの料理を注文すると、しばらく食べることに専念した。成彦がある程度満たされるまで、ひたすら食べ続けることを心得ている2人は、つられる様に黙々と食べ始めた。15分ほど経ってそろそろ成彦の腹も落ち着いたとみた昇が、ビールを注ぎながら尋ねた。
「ナルさん5月の連休は10日も休んでいいすか?」
「ああ、いいぞ」
成彦は答えて、うまそうにビールを飲み干した。
「ナルさんは、海外ですか?」
「昇はどうするんだ」
「ルナも休みになるから、車で遠出しようかなって、とこっす。雄介も行くだろ」
「俺は遠慮する」
珍しく雄介が即答した。
「何が遠慮するんだよ。ばか。ルナとは色恋じゃねぇし」
「寝てるよ。金もねぇし」
「何でだよ。休み10日も何すんだよ」
飲みかけたビールを口から離し、探るように、
「ああ、彼女とか?」
小声で言った昇と、返事をしない雄介との奇妙な間を感じた成彦は、
「そのへんはルナちゃんと相談ということで、ただ2人とも連絡取れるようにしといてく
れ。おねえさん、冷酒1本。お前らも何か頼め」
2人は話を止めてメニューを覗き込んだ。
昇に任せるという雄介と、何だかんだと絡んで注文しない昇を、成彦は笑いながら見て
いた。擦り寄ってくる昇を肘で離そうと、ジャンパーのポケットから手を出そうとしたと
き、雄介は携帯の振動を感じた。
表示された番号を訝しげに見ると、脇から覗き込んできた昇をさらりとかわし、雄介は立ち上がって、2人に頭を下げ、店の外に出た。
「・・・だれだ?」
テラは窓際に立ち、外を見ながら、電話をしていた。
「テラよ・・・あなた、お金がほしいんでしょ?・・・だったら1億円の仕事だけど引き受けてくれない? 詳しい話をしたいから、明日、私の家に来て。時間は任せるわ。連絡して」
テラは用件だけを伝え、雄介の返事も聞かずに電話を切った。
店に戻り、席に座る雄介の頭の中は、「1億円」「仕事」「明日」「連絡」テラの言葉がぐるぐると回るだけで意味を捉えられずにいた。
「おっ、彼女からですか?」
昇のからかう声も耳に入らず、雄介は無意識にタバコに火を付けていた。
「いや、いや」
返事にならない独り言を言う雄介に、
「何とぼけてんだよ、雄介」
様子のおかしいのに気づいた昇は、少し真顔になった。
「おやおや、どうしたっしょ雄介さん、まあ、わかんねぇけど飲みなっしょ」
昇に注がれたビールを飲み干す雄介を、冷酒を飲みながら成彦はタバコの煙の向こうに
見ていた。
翌日昼過ぎに、雄介はテラの部屋のソファーに座っていた。
スカーフで顔のほとんどを被い、サングラスをしているテラは、ワインを手に持ち窓際から外を見ていた。雄介は部屋に通されたものの、一言も話さないテラを図りかねていたが、2人でいる静かな緊張感が、その息苦しささえ心地よい時間に変えていた。
「ケータイありがとう。これはお礼よ」
テラは空のグラスをテーブルに置くと、立ったまま封筒に入った100万を差し出した。
グラスを見たまま黙っている雄介のほうに封筒を置くと、空のグラスにワインを注ぎ、窓際に行き、雄介に背を向けて、独り言のように話し始めた。
「私の母は、私を産んですぐに死んだわ。父は私が7歳の時、交通事故で死んだわ。その
あと、叔母の家に預けられたの。そこがバレエスクールだった。私も、震災にあったわ。
怖かった。同じ寄宿舎にいて、けがをしてやめた人もいた。心に傷を負って、続けられな
くなった人もいたわ。私はそれでも、モデルになれたの。モデルしかなかったから‥‥‥
でもそれも終わり・・・」
テラはグラスのワインを一気に飲み干すと、身に付いた軽やかな動きで雄介の前に座っ
て話を続けた。
「ね、こんな身体になって、モデルなんかできないでしょ。体を管理して、ステージに上がり、皆さんに束の間の夢をあげる。私を使って、皆さんの憧れを形にする、それを繰り返してきたの。それができなくなった」
グラスを持ち、うつむき加減で話を聞いている雄介に、まるで簡単な頼みごとでもする
ように、テラは言った。
「1億円あげるから、私を殺してほしいの」
聞き間違いかと顔を上げた雄介を見て、ふっと笑い、テラはもう一度はっきりと告げた。
「人知れず、消えたいの」
沈黙のままの雄介のグラスにワインを注ぐと、テラは声を落として話を続けた。
テラの顔を凝視していた雄介は、注がれたワインに目を戻したが、そのグラスの指は必
要以上に力が入っていた。
「自殺を考えたわ。でもテラだと分かるでしょ。死んだ後までいろいろ書かれるのは堪
えられない。もう十分だわ」
グラスを置き、顔を上げ口を開きかけた雄介に、テラの口調は強くなっていた。
「生きることへの説得はやめて。もう私は死んでいるの・・・フフフだから安心して、あなたは私を殺すわけではないわ。私を楽にしてくれるのだから」
「ねえ、どうして私に興味を持ったの?」
テラは返事を待つが、雄介は黙っていた。ワインを飲むとテラは言った。
「まあ、どうでもいいけれど、あなたなら分かってくれると思ったわ。引き受けてね。
私の最後」
30分後、雄介は一言も話さずテラの部屋を出てきた。結局テラの言う1億円の仕事は引き受けた形になっていた。
雄介はその後、テラと出会った公園のベンチに座り、昇との出会いを思い出していた。
4年前、公園で4、5人の男に囲まれていた昇を、通りかかった雄介が助けた。
行く当てのなかった雄介は、2、3日のつもりで昇の部屋に泊まったが、そのまま居候をしていた。
昇の性格は分かっていた。テラのことを隠し続けることはできないだろう。
翌日の昼、ベッドの上で雑誌を読んでいる昇を、タバコを吸いながら雄介は見ていた。
「なに見てんだよ雄介、さっきから気持ち悪いや。なんか、話でもあんのか」
昇は視線に気付いていたのか、身を起こしわざわざ雄介の前に座った。
「昇、ちょっとした仕事があるんだけど、いっしょにやるか?」
待ってましたとばかりにうなずき、身を乗り出す昇に、雄介はテラとの経緯は伏せたまま、仕事のことだけ話した。
その日の夕方、昇はぶらぶらと歩いて、市谷にある成彦の事務所に向かっていた。
携帯のコール音が鳴り、ルナと表示された。
「おう、ルナちゃん」
2、3日連絡をしていなかったルナが、心配して連絡してきたのだ。
昇は雄介が隠し事をしているのに気付いていたが、いつものように軽口では聞けない何かを感じていた。雄介が話してくれたことと、それが大きな仕事だったことで上機嫌だった。
「わりい、わりい、連休のことで面白ぇことになってよ」
「詳しいことは明日話すからさ」
「1億円だよ。1億円」
「1億円は1億円さ、誰かをどっかに連れて行けばいいんだそうだ」
「雄介の話だから、大丈夫さ」
話に夢中になっていた昇は、3人の男に尾けられていることに気付いていなかった。昇がガード下に入った時、八神会の男達に後ろから羽交い絞めにされ、携帯を取られた。口をふさがれた昇は、夕暮れの人通りの少ない路地に連れ込まれた。
「えらく、威勢のいい話じゃないか、1億円がどうしたって?」
八神会の安東が、昇の顔を押さえながら言った。
昇を抑えている篠田が、昇の口をふさいだ。
携帯から心配そうなルナの声が聞こえてきた。
「ルナちゃん、昇ちゃんは今忙しいから僕と遊ぼうね」
携帯を取った金森が、ルナに話しかけた。
「やめろ、放せ」
昇は必死で携帯を奪い返そうとするが、相手にならなかった。
「いいさ、放してやるよ。1億円よこせばね」
顔を掴み、安東が言った。
「さあ、静かな場所で段取りを話してもらおうか、昇ちゃん」
そこは八神会の所有の空きビルだった。
頑固に口を開かない昇の顔を、金森が殴った勢いで携帯が落ちた。
昇は拾おうとしたが、安東に拾われた。
「ルナちゃんと遊ぼうかな? おおう、美人だなルナちゃん」
携帯を調べた安東が、ニヤニヤしながらルナの写真を昇に見せた。
「やめろ、ルナは関係ねえだろ」
金森と篠田に両脇を固められ、逃げられない昇に、
「だから1億円の稼ぎ方を教えろって、言ってんだろが」
と安東が腹部を叩き、締め上げた。
「だ、か、ら、誰を、何処に、何時、運ぶんだよ」
一言一言、言葉を切りながら、安東は昇を叩き、蹴り上げた。
ぼろぼろになっても、口を開かない昇に安東は呆れ、床に倒れている昇を踏みつけな
がら、
「世話が焼けるな、直接雄介に聞くか?」
と金森に尋ねた。
「雄介も関係ない」
途切れ途切れに昇は言うと、そのまま動かなくなった。
金森が携帯で雄介を呼び出すと、昇の口元に携帯を当てた。
雄介の声に、顔を携帯から背けた昇の腹部を、篠田が蹴った。
「雄介、聞きてぇことがあるから前の事務所に来いや。早くしねぇと昇がもたねぇかもな」
雄介にそう言うと、昇の呻き声に安東が笑いながら、昇の携帯を踏み潰した。
どのくらい過ぎたのだろう、柱に寄りかかり昇は目を閉じていた。
日も暮れて、路地裏は人通りが多くなった。しかし取り壊しを待つ空きビルに興味を持つ人はなく、雄介の助けがなければ昇の存在は消えるのみなのだが、
「雄介、来るな、頼むから来るな」痛みの中で昇は叫んでいた。
雄介は気配を消して、突然入って来た。
昇を見ながらニヤニヤと笑っていた3人に、冷酷な顔つきの雄介が近づいてきた。
雄介の前に立った篠田を、そして脅しの言葉を言いかけた安東を、最後に昇を盾にしよ
うとした金森を、あっという間に倒した雄介の顔は、凶暴な野獣になっていた。
「雄介、ごめんな」
声にならない声で謝る昇に肩を貸し、歩き出した雄介は立ち止まり、昇の潰れた携帯を
拾い上げた。
八神会事務所では、雄介の話で金森が息巻いていた。
「雄介にやれたって、おまえら情けねぇな」
課長と言われている堂本が、金森の腫れた鼻をはじきながら言った。
「いや、アイツただ者じゃねぇ」
脇腹を押さえながら安東が金森に相づちした。
「ううん、うちの奴らが束になったってありゃ、やれねぇ。篠田は昇を盾にしようとした時に、のされちまったからな」
「速いっすよ。俺いつの間にやられたのか、わかんねぇ」
「1回見たいですね」
室長と呼ばれている藤代が、腕組みしながら堂本に言った。
「連休だし、1億円もあるし、昇の遊びに付き合うか」
「それじゃ早速、ナルさんに話しを着けてきましょう」
厳つい顔の堂本と、細めた目の奥にぞっとするような冷たさが見え隠れする藤代は、市ケ谷にある成彦の事務所に向かった。
そこには、日本未来経済研究所と看板が出ていた。小さなビルの2階の奥まった部屋で、ドアにはインターホンが付いていた。
応接室らしき部屋と奥に仮眠が取れるような部屋があり、応接室ではルナが昇のことで相談に来ていた。
インターホンが鳴り、その画面には堂本の凄んだ顔がアップで映っていた。
インターホンで答えながら、成彦はルナに目配せした。ルナはうなずくと2人分のコーヒーカップを持ち、奥の部屋に隠れた。
ドアを開け、玄関先で済まそうとする成彦に、堂本の後ろに離れて立っていた藤代が、「中で話させてもらいましょうか」
と言うと、堂本が足を部屋に踏み入れた。
仕方なげに身を引き、成彦はソファーに座り、入ってくる堂本と藤代を上目遣いに見た。「おやおや課長さんと室長さん、お2人おそろいで、何かありましたか?」
堂本はソファーにどかっと座ったが、藤代は座る気はないらしく、成彦を見下ろすように話し始めた。
「はい、ナルさんもご存知でしょうが、昇と雄介がなんか危ないこと企んでるようで、ち
ょっと話を聞こうとしたら雄介が暴れて、うちの社員が2、3人潰されましてねぇ。会社
としちゃ、そのあたりのけじめは付けませんと示しがつきませんから、一応ナルさん、
了解してくださいよ」
「ほう、雄介がねぇ、たかが餓鬼一人に潰されたほうの示しはどうつけるんだ?」
成彦の言葉に堂本が肩を怒らせた。それを藤代が抑えた。
「そこはけじめと言っても形だけのことで、まあ、雄介に大きい顔されちゃ困りますか
ら」
「よし分かった。後で使えるようにして、返してくれよ」
「はい、その辺は、だいたいで済ませますから」
それ以上興味がない様子の成彦に、堂本と藤代は一礼してドアに向かった。
部屋を出る間際に、藤代が振り返り小指を立てて、にやりと笑った。
「ナルさん、邪魔しましたね。後はゆっくり楽しんでください」
「食えねえ奴だな」
成彦は、閉まるドアを見ながら、藤代の狡猾さは侮れないと思っていた。
奥の部屋から不安げにルナが顔を出し、閉まったドアを見ていた。
「だいじょうぶだよ。戻っちゃこないよ」
「ナルさん、どうして止めなかったの。このままじゃ、昇たち・・・」
「奴らの狙いは金さ。雄介に仕事をさせて落とし前に金を横取りしようって腹だ。俺に話
をつけにきたということは、命はとらんと、言うことだ」
「でも・・・」
「昇から連絡ないのかい?」
「電話しようと思ったけど怖くて」
「今してごらん。昇が出ないときは雄介にすれば、様子が分かるだろう。でもここにいる
ことは内緒だ」
そのころ昇は、テラの部屋の客室のベッドに横になっていた。雄介の携帯のコール音で昇が目を覚ました。画面がルナの表示に、雄介は昇に自分の携帯を渡した
「ルナ‥‥‥大丈夫か? 俺はたいしたことはない。あいつら、なんか言ってきたか?」
「今は会わないほうがいい。あいつらがきっと見張っているから。ルナごめんな。心配かけて」
「それは無理だ‥‥‥ルナ、旅行は今度連れて行くからな。いいっていうなよ、約束は
約束しょ。また連絡するよ」
電話を切ると、何も言わずに雄介に携帯を返し、布団をかぶった。
雄介は携帯を受け取ると、部屋を出た。
成彦の事務所では、ルナが携帯を握り締め、涙ぐんでいた。
「何をしようとしてるんだろうね」
「誰かをどこかに連れて行くだけって、言っていたけど、誰なんだろう」
「今日は遅いから送ろう。明日またおいで、それから昇の部屋には行っちゃダメだよ」
ルナを送った後、成彦は事務所の奥の部屋にいた。そこには窓がなく、コンピューター
がいくつか並んでいた。
そしてテラの顔と、かなり詳しい個人情報が映し出されているコンピュータの前で、成彦は考え込んでいた。
一方、テラのリビングには、重い雰囲気の中でテラと、離れて雄介が座っていた。
「私は、あなたに頼んだのよ。どうして私を襲った男が、それも怪我をして私の部屋に居るの?」
「すまない、俺一人じゃあんたを守れないって思ったんだ。ちょうど、旅行に行くって‥‥‥もうやめだな」
「そうね、あの怪我にしても、ただ事じゃないわ。この話はなかった事にしましょう」
はっきりと言い切ると、テラは立ち上がり窓辺に行った。テラを鎧のように包み込んだ
スカーフとサングラスは、その姿も心も隠していた。
「あんたは、どうするんだ?」
応えはないと思っても、そう問わずにいられない雄介だった。
「もう、気にしなくていいわ」
やはり、テラの応えは素っ気なかった。
そんなやり取りを聴いていたのか、ベッドルームからリビングに昇が出て来た。
「俺がうかつだったんだ。雄介は悪くねぇ。仕事は続けさせてくれ」
胸を押さえながら近づいてくる昇に、テラは何も応えず台所に行き、距離をとった。
「昇、大丈夫か?」
テラの行動に雄介は立ち上がり、昇をソファーに座らせた。
「ああ、あいつら馬鹿にしやがって‥‥‥頼む、俺たちに続けさせてくれ。雄介は悪くねぇ、俺が、俺が、‥‥‥」
「昇、もういいさ」
テラはコーヒーとサンドイッチを雄介に渡して、自分の部屋に行こうとした。
「雄介は任せられる奴なんだ。やらせてくれ。命掛けで俺が手伝うから、頼む。雄介は途中でパンクはしねぇ」
雄介がテーブルの上にコーヒーとサンドイッチを置いたのも気付かずに、昇はテラに言い続けた。無言のテラに代わり、雄介が興奮し始めた昇をなだめた。
「昇、ナルさんが言ったろ。八神会には絡むなって」
「雄介、もう絡まれちまったじゃねぇか」
「‥‥‥‥‥‥」
「あいつらは、俺たちを簡単に放しはしねぇ。つけ回されてこの人もただじゃ済まねぇ」
「‥‥‥‥‥‥」
「俺は、俺のせいで雄介がやられるのをだまって見てらんねぇ」
「なあ、ナルさんに‥‥‥」
「ナルさんまで巻き込めるか」
「‥‥‥‥‥‥」
テラは窓際に戻り、2人の話を黙って聞いていた。3人を行き場のない沈黙が包んだ。
雄介の携帯のコール音に、外を見ていたテラの肩がびくっと反応した。
ナルさんの表示に、雄介は携帯を昇に見せた。
「昇、ナルさんからだ」
「‥‥‥出るな」
切れたコール音が、余計に昇を追い詰めていった。
「本当にいいのか? こんままで」
昇は吹っ切るように、サンドイッチをほお張った。
「ナルさんとは、関係ない。もう縁は切る」
それを聞いたテラが、つかつかと雄介に近づいてきた。
「勘違いしていない?」
テラを見上げる雄介と昇に向かい、イラつきを抑えるように腕を組み低い声で言った。
「この話はなかったことって言ったでしょ。もうこれ以上勝手なことして、登場人物を増
やさないで。100万じゃ足りないでしょうけど、これで私とも縁を切ってね」
「‥‥‥金の問題じゃねぇ」
昇が立ち上がって言った。
「勝手なこと言わないで。早く出て行って」
「頼むよ、もうひけねぇよ」
「男の面子っていうものの為に、どうして私を犠牲にしなきゃいけないの?」
黙り込む昇に背を向け、テラは寝室に消えた。
雄介の携帯のコール音が再び響いた。
成彦だと確認した雄介は、ソファーで天井を仰いでいる昇を残し、玄関へ移動した。
「ナルさん‥‥‥」
成彦の静かな声は、下手な誤魔化しが通用しないこと告げていた。
「モデルのところに居るのか?」
「‥‥‥‥‥‥」
「悪いようにはしないから、彼女を俺に会わせろ」
「‥‥‥‥‥‥」
「お前達には収められん。相手が悪い。無理をするな」
息を詰めて成彦の問いに返事をせずに済ませたが、成彦の鋭さはそれを許さなかった。
「何で分かったんですか?」
「まあな、気づいているのは、俺だけだ。だが時間の問題だぞ。なあ、俺に任せろ」
「すみません。ナルさん、勝手させてください。俺が引き受けたんです。あの人の‥‥‥
すみません」
リビングでは昇がソファーで横になっていた。
「ナルさんだ。この人の事を知っていた。ここに居ることもばれてる」
「どうして分かったんだよ」
「分からん。ただゆっくりしてらんねぇことははっきりしたよ」
「ナルさんにはなんて言ったんだ」
「勝手させてくれって、そういうしかねぇだろう」
「そうだな」
「これから準備して、朝方発てるか? とにかくここを出たほうがいい。昇、本当にお前大丈夫なのか?」
「ああ、やってやるぜ」
「そうか、あの人に言ってくる。時間がない」
「なあ雄介、あの人って誰なんだ。どうして全身をかくしているんだ? 顔までサングラ
ス掛けてよ」
「そのうち分かるさ」
テラの寝室に入った雄介は、10分ほどで出てきた。
昇はソファーに横になったまま寝ているようだ。
「大丈夫か?」
「ああ、なんとかな。どうだった?」
「出て行ってくれ、しか言わない」
「で、どうする?」
「あの人は、説得するが、今日の出発は無理だな」
「そうだな。そういや、詳しい計画を聞かないとな」
「計画はあの人がたてた。霧島に別荘があるそうだ。そこに連れて行く」
「霧島って九州のか? 雄介、それだけで1億円なのか?」
「・・・ああ」
「あの人は誰だよ?」
「知らないほうがいい」
「何だよ、雄介、そんなんじゃ気持ちがのらねぇ」
「あの人の希望なんだ、誰にも知られたくないっていうのも、1億円の条件の一つだよ。
お前に話したことで、あの人を裏切っちまったことになってんだ」
「雄介、まだ俺に話してねぇことがあるだろ?」
「ああ、終わったら全部話すよ」
「なんか引っかかるけど、まあ、お前のことだからな、いいしょ」
昇はいつもの昇に戻り、雄介はテラがたてた計画を話した。
翌日10時にリビングに出てきたテラは、昇の顔を見るなり叫んだ。
「まだ居るの。早く出て行ってちょうだい。事が大きくなるのはいやなの。もう、関わりたくない。一人にして」
そんなテラに昇は、土下座をしながら懇願した。
「やらせて下さい。必ず、無事に霧島に連れて行くから」
昇を無視したまま、黙って雄介を睨みつけるテラは、顔を覆ったスカーフを通してさえも分かるくらいに、厳しい表情をしていた。
「ちょっと来て」
寝室に入るなり、テラの怒りは雄介に向かって一気に放たれた。
「あなた、何もかもあいつに話したのね、私のこと。私を襲ったあいつに。二度と会いたくない男をこの部屋に連れて来るなんて、何考えているの。それも今、同じ空気を吸ってるのよ。吐き気がするわ。こんなはずじゃなかったわ。最悪のシナリオね」
「昇は大丈夫だ。それにあんたのこと気づいちゃいない」
「なにが大丈夫? あいつは私の顔を見ているのよ。マスコミにばらされたらお終いよ。耐えられないわ。私の前から消えて、今すぐ」
興奮し、激しく急き立て追い出そうとするテラに、雄介は冷静さを保っていた。
「落ち着いてくれ。テラさん」
雄介が冷静なほど、テラはヒステリックになり、殴りかかってきた。雄介はテラの両手を掴み、ベッドに押し倒した。その弾みでテラのサングラスが飛び、素顔が見えた。
雄介の突然の行動に、テラは左目の近くまで広がった血管腫を隠すことも忘れて、雄介を凝視していた。その目が雄介に対する恐怖に変わった時、雄介はテラから目を離さずに立ち上がり、シャツを脱いだ。
テラの恐怖は頂点に達し、目を見開き、その手は身を守るための物を探していた。
雄介はゆっくりと背中をテラに見せた。
「おれもいっしょなんだ」
背骨に沿って、20センチ程の血管腫ができていた。否応なしのつながりの証だった。
「興味を持つなんてもんじゃない。他人事じゃないんだ。俺もあんたと同じものを抱えているんだ。俺は背中で、男だ。気にならんと言ったら嘘になる。だから、あんたのこと考えるとたまんねぇ。あんたの望みどおりにしてやりてぇんだよ。俺を信じてくれ。あんたのプライドは守ってやる」
雄介は一気に話し終えると、服を着た。
息を呑み雄介を凝視していたテラは、サングラスを探し、かけ直すと冷静になっていた。
「そんなこと、分かったわ。あなたに任せるわ、でもあいつと一緒に行くのはいやよ」
ルナが成彦の事務所に着いた時、壁掛けの時計は午後1時を指していた。
「昇から連絡はあった?」
ルナは沈んだ顔で首を振った。
「今、連絡してごらん」
成彦に促され、深く息を吸うと、携帯を手にした。
昇は朝と同じソファーに、ぼんやりと座っていた。雄介のマナーモードの振動し始めたが、放っていた。だが、その振動は止むことがなく続き、テーブルから落ちそうになって慌てて携帯に出た。それはルナからだった。
「ルナ、だいじょうぶか?」
「私は大丈夫よ。ねぇ、昇、危ないことはやめてナルさんに任せようよ」
「ナルさんの事務所にいるのか」
「・・・」
「ナルさんには迷惑は掛けられねぇんだ」
「昇・・・」
まだ話したりない様子のルナを無視して、携帯を切った昇は、窓辺に行きうずくまった。
昇は膝を抱え、外の景色を見て、初めて自分のいる場所に気付いた。
寝室から出てきた雄介は、ソファーに座りながら、窓際で考え込んでいる昇に声をかけた。
「昇どうした?」
「・・・雄介・・・」
昇は眉を寄せ、焦点の合わない視線を窓の外に向けたまま、言葉を切った。
「昇・・・どうした?」
もう一度聞かれた昇は、ゆっくり立ち上がり、雄介のとなりに座った。
「あの人だけど、・・・いや、今ルナから連絡があって、ナルさんといっしょらしい」
「そうか、ルナさんと会わなくていいのか?」
「危ねぇ目にはあわせられねぇから、このままでいいしょ」
「そうだな、あいつらの目もあるしな」
「ああ・・・」
「昇、あの人がOKくれたよ。今晩出発する予定で準備だ。車が2台要るけど・・・」
「俺のあるしょ」
「いいのか?」
昇は親指を立てて合図したが、いつもの軽口はなく、黙り込んだ。
雄介は昇の様子が気になったが、昇を残し打ち合わせをするため、テラの部屋に行っ
た。
昇は雄介の携帯を前に、桜の季節を思い出していた。
成彦の事務所でルナは泣いていた。
「ルナちゃん、泣いている場合じゃないよ。しっかりして。君に頼みがあるんだ」
成彦は、顔を上げるルナの手のひらに、小さな機器を2個渡した。
「発信機だよ。雄介と彼女につけてほしいんだ。昇を守るためなんだ」
「でも、きっと昇は私とは会わないし、連れて行くって言わないわ」
「そんなことはない。家に帰って待っていてごらん。連絡があるよ」
さらに成彦は携帯を握り締め、立ち上がるルナの小指に指輪をつけた。
「これはルナちゃんのお守りだよ。絶対昇と離れちゃだめだよ。分かったね」
ルナを見送った成彦は、八神会に連絡した。
ルナは成彦の事務所を出た後、西新宿のルミネ近くのネイルサロンにいた。そこは芸能人がよく来るという噂の店で、昇との旅行のために予約をしていたのだ。
店の中は若い女性でいっぱいだったが、ルナが入ると店内がどよめいた。
店のどこそこで、「芸能人かと思った」「きれいね」とか、中には携帯で写真をとる女の子もいた。それほどルナは抜きんでて美しかった。
1時間後、ルナは表に出ると気持ちの整理をしようと、当てもなく歩き出した。しばらく行くと、大きな交差点で信号待ちになった。夕方近くになって買い物客が多くなっていた。
ふと顔を上げると、前々列に立っていた男が振り返り、ルナを見ていた。
ルナの視線が男の胸元に止まった。そこには見覚えのあるバッチがあった。
八神会と確認したルナは、視線をそらしながら、青信号になるのを待ちきれず前に出た。
信号が青に変わると、人に流されながらもルナは足早になった。しかしルナの背中は、あの男の気配を切ることができなかった。
藤代は信号待ちの間、ふわりと香る匂いに、思わず周りを見渡した。
さり気なく振り返った先にその女はいた。女はふと目を伏せて、信号が変わるのを待たずに歩き出した。後姿を目で追いながら思い出そうとした。
「なあ、あの女・・・」
藤代は自分に問いかけるように言った後、確信したように、
「・・・ナルさんの女ですね」
そう言うと堂本を置いて、その女を追い始めた。
「何言ってんだよ、見たことねぇ顔だぜ」
追いかけてきた堂本がさめた口調で言ったが、藤代は女を追うのを止めなかった。
「香水ですよ。この前事務所で同じ匂いがしましたから。間違いないと思いますよ」
「まあ、よくある匂いじゃねぇのか?」
「いいえ、オリジナルですね」
「おい、後を付けるのか?」
「はい、一つぐらいナルさん弱み、いただきましょうか」
人ごみの中に紛れ、ルナは歩きながらバックの中の携帯を探した。振り向くと、2人の男が近づいていた。徐々に距離が縮まっているのが分かった。追い詰められたルナは小走りになり、携帯を持つ手が震えていた。
2人男が背後に迫り、ルナに手が伸びてきた。
ルナの腕に手が掛かった時、ルナは唇を噛み、目を閉じた。
「こっち、こんね、これ食べてみてん。おねえちゃんみたいな別嬪さんが食べちょったら、皆が見るがね。これ、あげまんまて言うとよ。ほら、お茶も飲みなれんか」
ルナは宮崎県のアンテナショップのコンネにいた。イベントの街頭販売のおばさんに、店内に連れ込まれたのだ。周りに男達がいないことが分かっても、激しい動悸は治まらず、ルナはその場に座り込むのを、辛うじて我慢した。ルナは奥のほうに連れて行かれた。椅子に腰掛け、出てきたお茶を手にして、息を整えながら外を見ると、ガラス越しに2人の男いた。男たちはさすがに場違いなことが分かったらしく、入店をためらっていた。
「都城のお茶はおいしいやろ」
ルナを気に入った様子のおばさんは、立ち寄るお客さんにルナのことを褒めて、一緒にお茶を飲めと勧めていた。
ルナは落ち着き、少しずつ状況が分かってきた。
成彦はルナが帰った後、ずっとルナを追跡していた。
成彦のコンピュータのGPSの探索画面には、宮崎県のアンテナショップ「コンネ」の場所が映されていた。それを見た成彦は、八神会の事務所に電話をした。
コンネの前でコール音に気付き、藤代が携帯に出た。
「堂本さん、事務所からです。帰りましょう」
「女はいいのか」
「顔はわかりましたし、またでいいでしょう」
藤代はあっさりと引き下がり、2人は事務所に向かった。
それをコンネから見ていたルナは、昇に連絡をした。
「昇、どうしよう、あいつらに見つかっちゃった」
「今、どこ?」
「西新宿のコンネっていう宮崎のアンテナショップ」
「やつらはどうしてる?」
「今は見えないけど、分からない」
「車じゃないんだな」
「2人で歩いてた」
「すぐ迎えに行くから、待ってろ」
テラの白い車がコンネの前に止まった。雄介は周りを見渡したが、八神会が見張っている様子はなかった。ルナは出口近くで不安げに待っていた。
雄介に手を引かれ車の後部座席に座ると、昇の顔を見るなりルナは泣き出していた。
2人は、ルナをテラの部屋に連れてきた。
テラは昇を受け入れはしたが、顔を合わせるのを嫌い、寝室から出なくなっていた。
雄介がコーヒーを持ってテラの寝室に行くと、テラは薄暗い部屋で書類の整理をしていた。
「また増えたのね。エキストラ」
「昇の彼女だ。昇たちは今から発つ。ゆっくりドライブしながら囮になって、やつらを引きつけている間に俺たちは霧島に行く」
「あなたに任せたんだからいいようにして」
コーヒーを受け取る時、ちらりと雄介を見たがそのまま整理を続けた。
しばらくして、昇とルナは昇の黒のワゴン車に乗り込み、出発した。
八神会事務所は、藤代のパソコン画面の発信機の反応にざわついていた。
「おお、いよいよですね。半径10キロは大丈夫ですが、すぐに追いましょう」
八神会駐車場に用意してあった2台の車に乗り込み、藤代たちは後を追った。
車の中で男たちは大はしゃぎだった。
篠田が藤代のノートパソコンを覗き込みながら尋ねた。
「室長、その発信機はどうしたんすか」
「ちょっとした取引で手に入れたんですよ。おやおや他に同乗者がいますね」
「雄介とその1億円か」
堂本に篠田が答えた。
「だったらすぐにけりつけましょうよ」
「1億円じゃないでしょうね」
「だったら、ルナって言う昇の彼女すよ」
「おや、国道357号線ですね。ということは有明埠頭からフェリーでどこかへ行くということですね」
「室長、どうするんすか」
「そりゃ、一緒にいかなきゃな」
運転をしている堂本が代わりに応え、アクセルを踏み込んだ。
「行き先を突き止めなきゃいけませんね」
藤代が左手のこぶしをあごに当てると、車内は急に静かになった。それは藤代が考え事をする時の癖で、声を出そうものなら誰であろうと容赦なかった。
そのころ、成彦は事務所でGPSの画面で昇の車を追っていた。そこには3個の発信機が点滅していた。
そして2キロぐらい後方に、もうひとつの発信機が点滅していた。
成彦の別のパソコンにメールが届いた。
片手を付き、パソコンを覗き込む成彦が珍しく返信を躊躇っていたが、2度目の催促が来ると時間を確認してキーボードに向かった。
藤代のパソコンに、沖縄行きという文字が表れた。
藤代は無表情のまま、フェリーの出発時間を調べた。
「16時発です。堂本さん少し急いでくださいね」
「おっしゃー」




