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無の章 手にした物はこの世の幻 ~刻命~

No.2

 幻想的な夜の桜は、テラに抱えている現実を忘れさせた。鏡さえ見なければ何も変わっていないテラがいた。フード付きのマントを着たテラは、優雅な動きで桜の下を歩いていた。

 そんなテラを、昇と雄介は離れたところから見ていた。

 初めは、テラの奇妙ないでたちと行動に首をかしげながら様子を見ていたが、女性だと気づいた昇が雄介に合図をした。こんな夜更けに、おかしな行動をする女を見てやろうというのだ。雄介は、何も気づかず踊る女に、おどけた格好で近づく昇を、距離をとって見ていた。

「お嬢さん遊びましょ」

 昇は後ろからテラの肩をつかんだ。外れたヘッドホーンからCMの音楽が漏れた。

 不意をつかれ、声も出ずに立ちすくむテラを、ニヤニヤと昇が見ていた。

 逃げようとするテラを押し倒し、フードをはいだ昇の手が止まった。

 昇はテラの顔を見るなり飛び退き、訳の分からないことを言いながら逃げ出した。

 途中振り返り、早く来いと雄介を呼んだが、待つ気はないらしく、そのまま駐車場へと走って行った。


 雄介は、胸元を抑え、荒く息をして座り込んでいるテラに、ゆっくりと近づいた。

 気配を感じ、顔を上げたテラの挑戦的なその目に、助け起こそうとしていた気持ちは消えた。

 テラは無言で立っている雄介を無視して、落ち着いた動作でフードをかぶり直し、土を払い、身づくろいをすると、うつむき加減ながらも何事もなかったように、もと来た道を引き返して行った。

 その肝の据わった後姿に、雄介は、小躍りをするように逃げ出した昇を思い出し、苦笑した。あまり他人のことには関心を持たない主義の雄介だったが、足元に落ちていた携帯の持ち主を知ると、ゆっくり後をつけ始めた。

 その女は成彦と同じマンションに入った。雄介は明かりのついた部屋を確認し、待ち受け画面を見直した。

 そこには、髪をなびかせ微笑むトップモデル、テラの美しい顔があった。

 テラの携帯をジャンパーのポケットに突っ込むと、駐車場に向かった。


 テラは部屋に帰ると、すべての部屋の明かりを点けた。闇が恐ろしかった。あの男に肩をつかまれた感触が残り、部屋の中だとわかっていても、どこからかあの男の手が伸びてくるような恐ろしさが胸の中央をきりきりと刺した。安定剤を持つ手が震えていた。水をうまく飲めないもどかしささえ、恐怖に押さえつけられていた。

 テラは明かりをつけたままの寝室の隅で、身動きひとつせず、ひざを抱えうずくまっていた。物音のない部屋で、ヘッドホーンをつけているかのように、耳元で時計の針の音が響いていた。恐怖はテラの神経を締め付け、睡魔も寄せ付けなかった。薬が効いてきたのは、白白と窓の外に朝の気配を感じ始めたころだった。

 遠くで電話の音がしていた。

 薬の効いたテラの思考は、コール音と時計の音を交互に捉えていた。ぼんやりとした中、「どうして携帯の方に連絡しないの」

 と、いらついた感情が走った。

 「携帯」その言葉に思考の一部が閃光を放った。

 テラは立ち上がり、リビングに脱ぎ捨てたコートのポケットを探した。リビングを見渡し、キッチンに行った。乱雑に開けた薬箱を見て、夕べのことを思い出した。声を出すまいと奥歯をかみ締めたが、気が遠くなるのが分かりその場に座り込んだ。

 電話のコール音が止まった。電話は熊野からだった。

 携帯は公園で落としてしまったのだろう。テラは窓辺に立つと、カーテンの隙間から昨夜の公園を見た。

 昼近くの公園は、満開の桜の下、花見を楽しむ人々で溢れていた。

その人の多さに絶望を感じながら、冷静になろうとテラは、自分の携帯に電話した。

コール音が聞こえたが、すぐにテラは受話器を下ろした。

 どうにかしなければと、慌てる気持ちとは裏腹に、身体は思うように動かなかった。

また電話のコール音が響き、熊野がもう一度かけてきた。受話器を取るなり、

「探して、携帯を探して、お願い、早く探して」

 そう言い放ち、テラは子供のように泣き出していた。

「落ち着いて、何があったのですか? 今すぐ行きますから」

 熊野の声を聞くことなく、テラの意識は薄れていった。


 翌日の夜成彦の部屋で、いつものように昇と雄介が仕事を手伝っていた。

「昇、雄介、一休みだ」

 成彦が2人に炭酸飲料水を渡しながら告げた。

 3人はテーブルを囲んで座った。雄介は昨日の週刊誌の続きを読み始めた。

 昇は一口飲むと、昨夜のことを成彦に話し始めた。

「あれって、血痣っていうんだよな。見ただろ、雄介」

「ああ・・・暗かったし、よく分からん」

 昇は雄介の返事は聞きもせず、その女の様子を面白おかしく成彦に話していた。

 雄介はテラの掲載されている週刊誌をさりげなく閉じて、表紙を隠した。

 成彦は、雄介の不自然な行動を見逃さなかった。

 雄介はたち上がり、玄関に向かった。     

「雄介、どこ行くんだよ」   

「たばこ、買ってくるわ」

 雄介は靴を履きながら答えた。

「俺も行く」

「昇、明日から3日間出張だ、準備するぞ」

 追って行こうとする昇を、成彦が引きとめた。

「雄介、わりいな。一人で大丈夫か?」

「ガキじゃねえよ」

 雄介の代わりに成彦が答えた。

「そうすね、今度はどこすっか?」

「福岡の宗像だ」

 成彦と昇は出張の準備を始めた。


 雄介は夜の公園のベンチに座り、タバコを吹かしていた。閉まるドアから、宗像という言葉が雄介を追ってきた。

 右手にテラの携帯を持っていたが、宗像という声が脳裏で繰り返された。

 雄介は5年前、宗像市にある「わだつみ」という養護施設で育ったことを知った。

 宇佐野はそのことを知っていたが、雄介には黙っていたようだ。それ以来、宇佐野の家に居づらくなり、東京に出て4年が経っていた。

 くわえたタバコに、桜の枝の間からぽつぽつと雨が落ちてきた。

 雄介は手にしたテラの携帯をしまい込み、歩き出した。


 翌日雄介は、成彦と昇を羽田空港に送った。  

 飛び立つ飛行機を見送り、車で帰った雄介は、昇のアパートでぼんやりと奈良の宇佐野の家を思い出していた。

5歳の雄介を引き取った宇佐野は、闇と孤独を怖がる雄介に武術を学ばせた。

雄介の身体能力は優れていて、すべての武術を網羅した。

雄介は心身ともに鍛えられ克服したように思えたが、何かが心の琴線に触れると理性をなくし、雄介の身体は全身凶器となり、相手が動かなくなるまで叩きのめした。

 宇佐野はそんな雄介に戦うことを禁止した。

 高校生になると雄介は、金剛山で過ごすことが多くなり、休みになるとふらりといろいろな山に出かけては、自然の中に身を置いていた。

 高校3年の春休み、九州の霧島から阿蘇に掛けて出かけた。

 そのとき最後の宿が宗像だった。

 宗像大社を通ったとき、幼いときに見たものだった。

 そしてその近くに雄介の唯一の証の言葉「わだつみ」という養護施設があった。

 理屈にないところで時が戻り、訳もなく涙が溢れ、5歳に戻った雄介がそこにいた。

 奈良に帰り、宇佐野に自分の出生のことを尋ねようとしたが、何も変わらない宇佐野の態度に言い出せず口を噤んだ。

 養子であることは分かっていたが、自分が何者であるかを知りたい要求が大きくなるにつれ、宇佐野との目に見えない隔たりを感じ始めた。高校を卒業すると、旅館を継ぐことを拒否し東京に来た。当てもなくふらふらと過ごしていた時、喧嘩に巻き込まれた昇を助けたことで、昇の部屋に転がり込んだ。昇は何も聞かなかった。佐多成彦の仕事を手伝うようになったのも、昇がつないでくれた。

 自分が何者なのかわからないために、人との関わりを避けてきた雄介だったが、昇はまったく雄介の過去を気にしなかった

 初めて人を受け入れた。昇といると気楽だった。

 雄介は嵐の山の中が好きだった。唯一生きている手ごたえを感じる場所だった。そんな雄介に都会の雑踏の中でも、昇は生きていることを感じさせてくれた。

 だが、雄介の求めているものはそこにはないことも分かっていた。雄介の孤独は、否応なしのつながりを求めていた。

血あざのテラに惹かれた。今まで自分から人との関わりを求めたことは一度もなかった。

雄介は、初めて自分から他人との関わりを持とうとしていた。

 テラの携帯をじっと見ていた雄介は、昨日着信のあった番号に自分の携帯から電話した。

 テラはソファーに座り、ぼんやりと部屋の白い壁を見ていた。うつろな記憶が心の中に広がっていた。宮崎の仕事は1年間でフォーシーズン通しのものだった。みそぎ池で気持ちは晴れやかになり、血管のことは病院に行き、様子を見ながらと思っていた。だが東京に帰ってきてすぐに、週刊誌がテラのことを書きたてた。

 まるで首筋にくもが這うように、ありもしないことが書き連ねてあった。

 その記事以来、二度とテラは人前に出ることはなかった。宮崎の仕事は摩帆瑠が引継ぎ、今ではテラにかわり、事務所のトップになっていた。

 世間はテラのことをいつの間にか忘れ、新しい偶像を持てはやしていた。それでもたまにネタのない週刊誌が、摩帆瑠の活躍に合わせてテラのこと載せていた。

 時が過ぎ、テラの存在が消えていくのとは反対に、血管の腫れは大きくなり、テラ自身今さら病院に行くこともできず、受け入れるままになっていた。昨夜、なぜ外に出たのだろう。部屋から出なければこのままテラは消えていなくなったのに。虚ろな心はいつもそこに辿りつく。消えたい。跡形もなく消えたい。

 だが消える方法がない。人は死ぬことはできるけれど、消えることはできないのだ。

 生きてきたことは消せないのだから。

 堂々巡りの中で1年間生きてきた。こんな醜い体でこれからも生きていくのだろうか。

固定電話のコール音が響くが、気にならない。どうでもいい。

 コール音は留守電に切り替わった。

「・・・あんたモデルのテラだろ・・・携帯返してやるよ。また電話する」

聞き覚えのない声だった。だがあの公園で冷めた目で見下ろしていたあの男だとテラは直感し、ゆっくりと立ち上がり電話の前に立った。再生のボタンが点滅していた。向かう指が震えながら止まった。

 テラはだらりと両腕を下げ、元いたソファーに戻りうずくまった。


 一方雄介は夜更けの公園にいた。散り始めたさくらは一晩で葉桜になっていた。

 テラのマンションを見上げ、携帯をかざしてテラの部屋の写真をとり、時計を見た雄介は、テラに二度目の電話をかけた。

 テラは何時間もソファーにうずくまっていた。コートをかぶり、瞬きもせず焦点のない視線は、白い壁に消えていた。どこか遠いところでコール音が聞こえていた。また留守電が作動した。

「あんたも辛いな、週刊誌見たよ。これ以上は大きくしたくないよな。まあ携帯はしっかり預かっとくから安心しなよ。またな」

 同じ男の声だった。「辛い」「安心」の言葉とは裏腹に、単調で感情のない物言いだったが、その言葉にテラの瞼はゆっくりと落ちていき、身体はソファーに沈んでいった。


 2日目の朝、寝ている雄介は携帯の着信音で起こされた。

「明日帰る」という昇からの電話だった。雄介は自分から昇に連絡を取ったことはなかったが、連絡が来たら必ず返事を返していた。だが昨日は、昇からのメールに答えていなかった。「何をしていた?」と聞かれて答えるのが、面倒だったからだ。

 言い訳はうんざりだと思いながら仰向けになり、切った電話を置きかけて時間を見た。

「10時か」

 とつぶやいた雄介は、テラに電話すると気後れなしに留守電に話した。

「俺だ、まあ、大丈夫か? 心配するなよ。誰にも言わねぇし、携帯も見せねぇからな。またな」

 今回も一方的な会話だと決めている雄介は、電話を切ると枕もとに放り投げ、布団に潜

り込んだ。

 雄介は夜更けの公園にいた。明かりのついていないテラのマンションを見上げ、5回目の電話をした。雄介は聞きなれた留守電の案内に、答えるように話し始めた。

「俺だよ、もう寝たか? 今公園に来てる。昨日の雨でさくらが終わったな。なんか寂し

いな。またな」

 テラは薄暗い部屋の窓際に立って、公園を見ていた。あの男の声が流れた。

 1日中部屋で過ごしてきたテラの毎日は何も変わっていなかった。公園での出来事は、薬の飲みすぎで見た夢のようだった。だが携帯がないのが現実で、それを持っているという男の真意を量りかねていた。


 翌朝テラは、カーテンのしまった薄暗い部屋でソファーにうずくまり、コーヒーカップを両手で持っていた。コール音に顔を上げ、留守電を聞いた。

「俺だよ、気になっていたんだけど・・・病院行ったのか? その・・・週刊誌は訳分かんね事書いていたし・・・相談できる奴いんのか? まあ余計なことだけどな、またな」

 聞き終わると、テラはコーヒーを一口飲んだ。


 雄介がテラに電話をしたのは朝の10時だった。

 雄介は、携帯を枕元のテラの携帯のそばに置くと、もう一度布団にもぐりこんだ。

 返せばすむのに、何度も電話をしている自分自身に戸惑う雄介だが、待ち受けの中で

微笑むテラを見ると、テラの声が聞きたいと思った。無性に話がしたかった。

 雄介は今まで、一時でも形のないものを、考えて過ごすことはなかった。

 将来や希望など、会話どころか文字としても雄介の人生に存在しなかった。

 体感したこと以外は認めなかった。過去を消し去り、未来を否定しその時を生きてき

た。

 そんな雄介がまどろみの中で、明日を考えていた。

 昨日なかった心地よさが、遠慮しがちに雄介をつつんでいた。

 心地よさが暖かさに変わり、雄介が自分自身の温もりに引き込まれ始めたとき、聞きなれた携帯の着信音が冷たい空気が入り込むように、雄介を目覚めへと引き戻した。

 雄介は面倒くさそうに携帯をとった。

 耳に当てるや否や、

「おーい、帰ってきたぞ、ナルさんの部屋に12時に来いよ」

 という昇の声がした。

「分かったよ。車持っていきゃいいんだろ」

「頼みます」

 という昇の返事を聞き、雄介は電話を切った。

 雄介はテラの携帯をもう一度見ると、部屋をざっと見渡し電源を切り、それを掛けっ放しのコートのポケットに突っ込んだ。


 雄介が成彦の部屋に着くと、うれしそうに昇がじゃれついてきた。

「まったく中坊じゃあるまいし、いい大人が無邪気だね」

 成彦が呆れ顔でいった。

「俺わかんねぇけど、こいつといると安心ちゅうか、初めてなんすよ。構えなくていい奴

って、これが親友って言うんすかね?」

 そう言いながら昇は、照れ隠しにまたじゃれついた。

 騒いでいる2人を笑いながら見ていたが、成彦はふと壁の絵に目をやった。                

 シャープな部屋の雰囲気に似合わないその絵は、穏やかな海の風景画で、深い青一色で

書いてあった。

 成彦は深いため息をつくと、2人に背中を向け仕事を始めた。

「おい、さっさと仕事を終わらせて飯食いに行くぞ」

 成彦の言葉にじゃれ合いをやめ、雄介と昇も手伝い始めた。

 夜の10時、成彦との食事を済ませた2人は、昇の部屋に帰りビールを飲んでいた。

 雄介の視線は何度も壁のコートに流れていくが、テラの携帯のことは昇に知られたくなかった。

 ソファーに身体を預けて動かない昇を見て、雄介は立ち上がり壁のコートに手をかけた。気配を感じたのか、ごそごそとタバコを探しながら、ろれつがまわらなくなった昇が、

「どこ、行く?」

 と聞いてきた。雄介が

「散歩だ」

 と答えると、昇はついて行く、とばかりに立ち上がろうとするが、腰が立たずわめきはじめた。その姿に窮屈さを感じながらも、昇に隠し事をしていることの後ろめたさなのか、偽る気持ちを押さえ込んだ。

「無理だよ、分かったよ、もう寝ようぜ」

 雄介の言葉に、昇はぐずぐずしながらも床に入ると、すぐに寝息を立てはじめた。

 昇に布団をかけた雄介は時計を見た。1時を過ぎていた。


 テラはソファーにもたれて音楽を聴いていた。テーブルの上に、錠剤2粒と水が用意してあった。あの男は夜の1時に連絡をしてきた。待っているわけではないとテラは自分に言い聞かせていた。

 この1年は、恐怖で他人と話せなかった。秘密を一人で背負っていたテラにとって、どんな男であれ秘密を知られ、素のままの自分でいられることで、気が楽になっていた。       

 1時を過ぎて、テラは薬を手にした。手のひらにある小さな2粒の錠剤が、今のテラを支えていた。

 この薬がなければ生きていけないのだろうか?

 でも死にたいと思っているのに、なぜ薬を飲むのだろう。  

 ソファーにもたれたまま寝てしまったテラには、

「俺だけど・・・もう寝ているよな。じゃ、またな」

 という雄介の声は届かなかった。

 翌朝、テラは留守電を聞いた。気持ちが浮き立つのがわかった。

 シャワーを浴びて、華やかな服に着替え、口紅をさしてストールをかぶり、サングラス

をした。

 その後テラは熊野に電話をかけた。

「今日、来てくれない? 何時でも結構よ。引退の手続きをお願いするわ」

 窓際に立ち、思い切りカーテンを開けた。朝の日差しはテラの決意を後押ししているように思えた。

 テラは昼を過ぎても腕を組み、窓際に立って外の景色を見ていた。1年の間、昼間にカーテンを開けることはなかった。窓の景色が新鮮で、見飽きることがなかった。電話が鳴った。

 テラはゆっくりと電話のそばへ行った。留守電の案内後、いつもの声が流れた。

「俺だよ、起きてるか?・・・」

 テラは受話器を取ったが黙っていた。少し驚いた様子で男は、

「テラさんか?」

 と聞いてきた。テラは答えずに、少し間をおき、

「・・・あなたは誰?」

 と聞き返した。

「宇佐野、宇佐野雄介」

 と男は答えた。その時、玄関のチャイムが鳴った。熊野が来たようだ。テラが、

「・・・ごめんなさい。お客さんだわ」

 と断りを入れると、

「今夜、いつもの時間に電話していいか?」

 雄介が言った。テラは返事をせずに電話を切った。   

       

 雄介は夜の公園にいた。しばらく携帯を見ていたが、1時になるとテラの部屋を見上げ、電話をかけた。コール音を10回数えて、雄介は切るのをためらっていた。


テラはいつものようにソファーに横になっていた。飲みかけのワインと薬がテーブルの上にあり、傍らに電話の子機が置いてある。その子機が10回コールした。

 横目で見ながらテラは迷っていたが、20回を数えたとき雄介に、

「どなたですか?」

 というテラの低い声が届いた。

「俺だよ・・・」

 と答えた雄介に、テラは、

「宇佐野さん?」

 と改めて問い直した。雄介は電話の向こうの素っ気ないテラを遠くに感じながらも、

「体は大丈夫か?」

 と聞いた。テラはその問いに戸惑ったが、

「ええ、いたって健康です・・・あなたには関係のないことでしょ。心配して頂かなくて

も結構よ」

 と乾いた声で答えた。

「そうだな、関係ないことだな・・・俺は親に捨てられて施設で育った。5歳の時に養子

になったけど、でもなんか違うんだ。今、達がいる。たった一人だけど・・・あんた、

誰かに気持ち、話ししているのか?」

「突然身の上話? なんなの? 気持ちがどうのこうのって、どうして誰かに話さなきゃ

いけないの? 私の問題だわ」

「一人じゃ辛いだろ、親や医者はなんて言っているんだ?」

「親はもういないわ。医者には行ったけど、精密検査が必要だって言われて・・・」

「行っていないのか? 今はどうだ? 変わりはないのか?」

「・・・どうして答えなきゃいけないの? あなたに。あなたも週刊誌に売るつもりでこ

んなことしているのでしょ。携帯を返すなんて言っておきながら、本当の目的は何?」

 雄介は目的と聞かれて、返事に詰まった。そんな雄介に、

「お金?・・・お金がほしいの?」

 テラは決め付けたように、電話を切った。

 雄介は一方的なテラの態度に、携帯を握り締め、テラの部屋を見上げた。


 3日後の夜、雄介は成彦の部屋で書類の整理を手伝っていた。 

「雄介、今日は電話しねぇのかよ?」突然、昇が独り言のように言った。

 何も答えない雄介に構わず、昇は成彦に話し続けた。



「ナルさん、雄介彼女がいるんすよ。なあ」

「ほう、どんな人だい? 雄介」

「いませんよ、彼女なんて」

 雄介はボソッと答えた。

「うそつけ、毎晩こそこそ電話してんじゃないか」

「別に・・・」

「ここ、2、3日はおとなしいけど、福岡から帰ったくらいから、おかしいんだな。雄介

さんは」

 手を止め雄介を突付く昇と、相手にせずたんたんと仕事をする雄介を、興味深げに見ていた成彦が昇に尋ねた。   

「その頃だったよな? 昇が血痣の女に腰ぬかしたのは」

「そうすよ、スタイルは抜群だったんすけどね」

 それでも顔を上げず、話に参加しない雄介に、昇が手を止めて返事を催促するように聞いてきた。

「雄介も見たろ?」

「あ? うん、いや・・・フードを被って逃げてったから、分かんねぇ」

「そりゃよかった。あんなもん見たら夢に出てくるぞ」

「昇、見たことがある顔じゃなかったか?」

「うーん、そう言われりゃ見たような感じもするけど、顔は忘れちまったな、あのぶよぶ

よした痣だけ覚えてるんすよ」

 昇が首筋に手を当てて話を続けようとするのを、雄介はさえぎり仕事に引きもどした。

「ナルさん、このページが抜けてますよ」

「おう、何ページだ?」

「13ページです」

「昇、そっちは揃っているか?」

「こっちも抜けてます」

 話を打ち切り整理を始める中、雄介のほっとした表情を成彦は見逃さなかった。 


 翌日、雄介は成彦に自宅への届け物をたのまれた。

 成彦の家の玄関を出てエレベーターに乗った雄介は、階下には降りず最上階のボタンを押した。テラの部屋の前に着くと携帯を置いた。        

 昨夜成彦が何か感づいたようだ。雄介は、自分の中に芽生えたものの正体が分からないままだが、幕引きのときだと思った。        


 雄介は初めてテラに出会った場所に立っていた。1週間の間に、すっかり葉桜になった公園は、桜の花の下での出来事を消し去っていた。

 聞きなれた留守電の案内が流れた。

「俺だ、ケータイを玄関に置いた・・・病院・・・行けよ」

 雄介はこれで最後だと思った。


 テラは留守電を聞くと、すぐに玄関を出た。そこに置いてある自分の携帯を手にすると、エレベーターの階下ボタンを押していた。

 エレベーターのドアが開いたとき、テラは何をしようとしていたのかに気付いた。

 エレベーターの鏡に、スカーフを幾重にも巻いているテラが写っていた。その姿を凝視するテラの前で、静かにエレベーターのドアが閉まった。1年ぶりに見た己の姿に、目を閉じ、立ちすくんだテラだったが、

「分かっていたこと」

 と呟くと、携帯を胸に当てながら部屋に戻った。

 窓際より景色を眺めたテラには、雄介が公園にいるような感じがしていた。

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