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無の章 手にした物はこの世の幻 ~刻命~

No.1

----2020年春、桜舞い踊る季節、王須大和はトップアイドルのコンサートの開始を待つ若者の中にいた。


場所は新国立競技場。

大和は客席の最上部に立っていた。


やがてコンサートの開始時間が近づくと、ざわついていた何万人もの息づかいが、鼓動が、揺れ沸き立つと、一定の波長となってステージに向かい始めた。

アイドルの登場を待ちこがれる声は、悲鳴とも叫びともつかぬものに変わった。


会場内に響き渡る音や駆け巡る光が、観客を呑みこみ、いっきにコンサートに臨む一体感を作り上げていった。

至福のときを共有できるであろうファンという仲間とともに、観客は永遠のあこがれの声や肉体を、存在として実感して時を過ごす。


この限られた空間は、あこがれとの共有性を濃密なものとし、手の届く存在に変えるためにあるのだろう。

大和はその空間をあらためて見回した。


コンサートは熱狂、歓喜、感動の嵐の中で終了した。

観客はそれぞれの想いを胸に日常へと戻っていった。

残された空間の熱気はすぐに冷め、白熱の音楽に変わり、撤収の音が響き始めた。


大和は、祭りの終わりを告げる片付けのざわつきを後ろに聞きながら、帰路に着く人々を見ていた。


人の列はゆっくりと流れ、確実にこの場所から消えて、繰り返されている日常の平凡な幸せに向かって進んでいく。


しかし、大和はこの一見穏やかで平和に見える人々の暮らしの奥に潜む、悪神の使いの存在を知っていた。

人々の生活のなかに、静かに蔓延る仮面をかぶったその存在は、大和の叔父、佐多成彦が命を落とす前に書き残した手帳に記されていた。


それは己の運命に立ち向かい、使命を果たした佐多成彦の壮絶な2年間の記録だった。


東京も桜の季節になり、川沿いに咲く桜並木は、今が見頃と花見客であふれ返っていた。

モデルのテラ(寺田美加)28歳は、薄暗い部屋の壁に寄りかかり、ぼんやりと外を眺めていた。

 マンションの大きなガラス窓から見える夜景は、午前1時ともなると、賑やかだった花見客の姿もなく、桜の花のほっとした寝息が聞こえるくらいに静まり返っている。

「さくら」

 テラは目を閉じて、声にならない声で呟いた。思い出したくない、でも忘れられない、故郷宮崎での最後の仕事。

 ソファーに座ると、手に持ったワイングラスが空なのに気づき、テーブルの上のワインを注ぐ。床には、テラの顔と、不治の病、奇病、の文字が並ぶ週刊誌が、薄ら闇の中に散乱している。

 テラは思い切りクッションを週刊誌に投げつけ、ワインを飲み干した。


 同じマンションの階下の部屋には、3人の男がいた。

 窓から真下を覗き込んでいる男、大槻昇26歳。白い壁に静かな海の絵が1枚掛けてあるだけの、殺風景なモノトーンの部屋。

 黒の大きなソファーでテレビを見ながら、その部屋の主、佐多成彦38歳が、ダイニングテーブルで書類の整理をしているもう一人の男、宇佐野雄介25歳に声をかけた。

「雄介、そろそろ終わりにしないか? 1時過ぎたぞ」

 雄介は、返事をせずに手だけ止めると、成彦から離れたジャンパーの置いてあるソファーにゆっくりと座り、テレビを見た。国会の予算委員会の様子が映し出され、大黒厚労大臣がライフシェアー構想の説明をしていた。

「雄介、ライフシェアーに応募してみたらどうだ?」

 雄介は興味なさそうにテーブルの上の週刊誌をめくり始めた。

「何すか? ライフなんたら・・・」

 成彦の隣にどさっと腰掛けながら、昇がたずねた。

「3年前からの不況で、失業者が増えてどうにもならなくなってしまったから、仕事も金もみんなで分け合って、我慢しながら頑張ってください、という法案さ。時給は低いが、その代わり、住む場所と3度の食事は保証されているんだよ。休みなしで1ヶ月働いたとして、7、8万の小遣いだな。安いが気楽でいいぞ」

 成彦は膝に肘をつき、無精ひげを撫でながら、大黒厚労大臣から目を離さずに答えた。

 雄介は顔を上げたものの、何も言わず週刊誌にまた目を落とした。

「やめなよ、雄介。俺ン家にいていいからさ、そんな窮屈な所、雄介には無理だって」

「昇がいいなら、問題ないさ。でもルナちゃんは大丈夫か?」

「ルナとはそんなんじゃないし。俺は雄介と組んで、でかいことやってやるっすよ。な」

 そう言う昇に、面倒くさそうに雄介はうなずいた。

「そっか・・・八神会と薬には手を出すなよ」

「分かってますって。でも八神会はナルさんがいるから、大丈夫しょ」

「昇、お前達が遊べる相手じゃない」

「はい、はい、わかりました。ところでナルさん、さっきテレビで花見の中継やっていた

の、ここの下っすよね」

 成彦の返事も聞かずに、昇は週刊誌を見ている雄介の肩をぽんと叩き、

「雄介、帰りに桜見に行こうぜ。真夜中の花見だ」

 と鼻歌を歌いながら、帰り支度を始めた。


 ジャンパーを取り、窓際に立った雄介は、外の暗闇の中に昔を思い出していた。

 20年前、雄介は神戸のホテルのロビーで、泣きながら誰かを探していた。5歳の幼い雄介が、なぜ一人でホテルにいたのか、どうしてホテルを飛び出して町をさまよい、神戸バスターミナルのベンチに座っていたのか、今の雄介には分からないが、誰かを信じて待っていたように思う。

 朝方の寒さが雄介を深い眠りへ誘い始めた時、すさまじい地震が神戸を襲った。

 ターミナルの中は窓ガラスが割れ、自動販売機が倒れ、カウンターはよじれていた。

 ベンチから放り出された雄介は、近くで雄介の様子を見ていた宇佐野に助けられ、病院で手当てを受けた。宇佐野は雄介の身内を探したが、雄介の出生に関わることは何も分からず、その時、身につけていた洋服に縫い付けてあった「わだつみ 雄介」の布切れが、唯一の手がかりだった。

 奈良の金剛山の麓で旅館業をしている宇佐野は、行く当てのない雄介をそのまま引き取り、育ててくれた。


「おい、また遠いとこへ行ってんのかよ。帰っぞ」

 腕を昇に引っ張られ我に戻った雄介は、いつも感じる胸苦しさを意識しながら、ジャンパーを羽織って玄関へ向かった。

        

 

そのころテラは、フードつきマントで身をつつみ、桜咲く川沿いの道を、誰もいないことを確かめて歩き始めていた。久しぶりの外出だった。

 夜の桜は、まだ春浅い風に耐えて、明日の花見客を待っているようにみえた。


 一年前、西都原の桜は満開だった。はらはらと舞う花びらに潔ささえ感じられた。

 今の季節、宮崎の西都市にある西都原古墳は、桜と菜の花の里になるのだ。

 去年、地元のK酒造の新商品のコマーシャルの撮影で訪れた故郷は、20年ぶりのテラを温かくやさしく迎えてくれた。

 そんな中、テラは撮影2日目を迎えていた。朝からの撮影に、まわりは大勢の見物客であふれていた。トップモデルのテラには気にもならない観客数だが、その日は観客の視線が気になっていた。

 桜の木の下でポーズをとるテラに、監督が首を振りながら近づいてきた。

「どうしたの? 振り返る時、妙に力が入っているよ。桜を飲み干し、とけてそのまま空

になる。そんな透明感ある若いお酒だからね。ちゃんと掴んでもらわないとね、夕方にな

ると黄昏の桜になっちゃうよ」 

 監督が離れると、メイクの小津由美子が飛んできて、テラの髪をかき上げ、左の首筋へ

丁寧にファンデーションを重ね塗りした。それでも鏡を持ち、気にするテラに、

「そんなに分かりません。大丈夫ですよ」

 と声をかけるが、

「ほら薄っすらと分かるじゃない。ちゃんとして」

 と納得しない。

「でもこれ以上すると、逆に目立ちますよ」

 押し問答をしていると、テラのマネージャー、熊野久美が近寄り、持ってきたコーヒーをテラに渡し、鏡を取り上げた。

「テラさん、どうしました?」

「左耳の下に血管が浮いていて、カバーしたのですが、気になるようで・・・ほとんど目立たないのですが」

 肩をすくめながら、小津が代わりに答えた。

「ライトが当たって、分かっちゃったらどうするの。みんなが見ているのよ」

「見せてください」

 強く言っても、手を当て見せようとしないテラに、熊野は少し考えた後、

「左ですね。分かりました。だったら振り返る方向を変えれば大丈夫ですね。監督にお願

いしてきます」

 これでお終い、とばかりにはっきり言った。

「このことは言わないで」

 それはテラに似合わない、消え入りそうな声だった。熊野は軽く2度うなずき、監督のところへ行った。


 駐車場には何台かのロケ関係車両が止まっていた。その中の1台で、新人のグラビアモデルの摩帆瑠(摩ヶ津沙織)21歳は、携帯電話のゲームをしていた。

 時刻は3時をすぎたが、テラの撮影はまだ続いている。摩帆瑠は苛立っていた。

 突然、携帯をしまうとたばこに火をつけようとして、それも途中で止め、立ち上がってコートをつかみ、羽織った。

 メモを取っていたマネージャーの谷口薫は、その激しさに驚いてコーヒーをこぼしてしまった。

「どうしたの?」

 摩帆瑠は立ち止まりもせずに、

「帰るのよ」

 と、サングラスを掛け、車から降りた。

「だめよ。待機って、先生の指示だから動いちゃだめです」

 肩を掴もうとした谷口の手を振り解いた。

「いつまで待機してろというのよ。朝の10時からよ。9時に入ったわ、6時間よ。昨日も今日も何もしないで馬鹿みたい。『待て、待て』って、私は犬じゃないわ」

 と吐き捨てるように言った。

「そうよね、でも、とにかく先生に聞いてくるから、待っていて」

 撮影場所へ走り出す谷口を、目の端に捕らえただけで無視して、摩帆瑠は現場とは反対の方に歩きだした。

 屋台が並ぶ広場に出ると、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの御陵墓と案内が出ていた。そこは屋台のにぎやかさを一切拒否しているようで、木々に囲まれた古墳は今もいにしえの空気が漂い、その時に通じる無限の道が、奥深くに存在しているようだ。

 正面に回ろうとした摩帆瑠は、手を合わせ祈りをささげる女子高生を見て、思わず立ち止まった。まだ少女の面影のあるその頬には一筋の涙が流れ、しかしその口元は非常な決意を秘めているように見えた。ふと昨日、暇にまかせて読んだ、コノハナサクヤヒメの炎の出産の気丈さを思い出した。

 近寄りがたいものを感じた摩帆瑠は、手を合わせることもなく、見物客もまばらな桜の方へ向かった。

 満開の桜の中、風に巻かれ、菜の花の黄色にとけていく花びらの有様は、人々にいろいろな感情を思い起こさせる。

 摩帆琉は、はらはらと落ちる花びらを、手のひらに受けようとするが上手くいかず、立ち止まりサングラスをはずし、桜の木を仰ぎ見た。

 桜の中にある空は、手が届くように近かった。

「テラさん、桜はね、一花では華になれないの。一花が寄り添い、夜の明かりに寄り添い、山の緑に寄り添い、春の景色に寄り添い、そして人々の喜びや、悲しみ、苦しみに寄り添って華になるの。太陽みたいにひとりで輝きを放つ貴女に、さくらは愛せない。だからこの仕事、私に返してもらうわ・・・なんてね」

 摩帆瑠は思っていたことを声に出してみた。セリフが消えると、空の遥かさの中にテラが笑っていた。

 ふっと力が抜けて肩を落とした。立ち止まったまま唇をかんでいたが、顔を上げて、まとわりつく花びらを身体で掬い取ると、ぱっと放し弾けるようなポーズをとり、

「わたしはわたし」と、まっすぐに歩き出きだした。

 摩帆瑠は、タクシーで宮崎市内に向かったが、宿泊先のM観光ホテルには行かず、運転手に聞いた大淀川沿いの桜並木を見に行った。川に沿って連なる桜並木は、華やかさよりも果てしない時の移ろいを感じさせる。

「私はなぜここにいるのだろう。グラビアアイドル摩帆瑠は摩ヶ津沙織なのだろうか」

 そんなことを思いながら、ゆったりとした川の流れを見ていた。

「人はね、その人の役目を果たすところへ運ばれていくんだよ。どんなに頑張ってもどうしようもない時は、流されなきゃ仕方ないね」

 母の口癖を思い出した。しばらく歩くと、気持ちは落ち着いていた。

 携帯の時刻は5時を過ぎていた。テラの歓迎を兼ねた、新酒の発表のレセプションが6時なのを思い出し、慌ててM観光ホテルに向かった。

ホテルの部屋でレセプションの身支度をした。谷口に連絡をするが、応答がない。

「そういえば、ずっとケータイの電源切ってたっけ」

 そう独り言を言いながら、摩帆瑠は2Fのレセプションの会場へ向かった。会場の人はまばらで、撮影関係のスタッフの姿が見えない。

 知らないところで迷子になったような、落ち着かない感情が足元から上がってきた。

スタッフを探そうと1Fロビーに、急ぎ足で向かった。

 その途中、撮影が延びたためテラの歓迎パーティの開始が遅れることを、従業員の立ち話で知った。確かめたい衝動に駆られたが、立ち止まらずにあえて、ゆっくりと通り過ぎた。

 自分だけ知らなかったことに、押さえつけた感情が、閉じた目の奥で紅く広がった。

 このCMの仕事は、K酒造と摩帆瑠との契約のはずだった。テラの気まぐれさえなければ、今日の主役は摩帆瑠で、こんな恥ずかしい惨めな思いなどせずに済んだのに。

 1Fの化粧室に入ろうとしたとき、中からメイクの小野由美子と撮影スタッフの話し声が聞こえてきた。

「疲れたね。まったく、完璧主義もいい加減にしてほしいわ」

「そうですよ、そんなに気にするようなことじゃないのに。何回メイクしました?」

「数えてない。でもね、少しずつ広がっているし、濃くなっているのよね。あれって

やばいかもね」

 小津由美子は、鏡の中の自分の左耳の下に手を当てて、同情する表情をした。

「いつからなんですか?」

「気づいたのは衣装あわせの時だから、2週間ぐらい前かな」

「病院に行ったのかな?」

「怖くて行けないんじゃない。色が白い分目立つから、痕残ったら命取りだもの、この仕

事続けられるかどうかわからないわよ」

「悪い病気だったりして」

「止めようこんな話。噂になったら、それこそ私達が命取りだよ」

 摩帆瑠はずっと呼吸をしていなかったように思った。バッグを握り締めていた手が痺れ

ている。その痺れた手の中にテラの秘密があった。

 化粧室を離れた摩帆琉は、フロントでテラのマネージャー熊野を見かけ、近くのソファーに座り、聞き耳を立てた。

「830室にお願いします」

 テラにフロントの内線で連絡をするらしい。

「テラ、15分後にK社長がお見えになるわ。お迎えをして、ご一緒に会場に登場してもらうことになりましたので、よろしいですね」

 摩帆瑠は全身でその会話を聞いていた。何か、テラは嫌がっているようだ。

「ええ、心配しないで大丈夫ですから。私はこのままロビーにいますから、降りてきてくださいね」

 摩帆瑠の本能が動きはじめた。

 きっとテラは鏡を見る。

 その時が主役の摩帆瑠を取り戻すチャンス。

 エレベーター近くのソファーで、テラを待った。

 この仕事の契約の日を思い出していた。

「その仕事、宮崎なの?私やってもいいわよ」

 トップモデルテラの気まぐれな一言で状況は一変した。単独での年間契約だったはずが、ダブルキャストになり、摩帆瑠の撮影はなく、ただテラに何かがあったときのために待つばかりの毎日になった。

 私がカメラの前に立つためには、何かがあればいいのだ、そう、あのテラに。

 時間を見る。5分たった。逸る気持ちを抑えるために立ち上がろうとした時、エレベーターを降りて、テラが化粧室へ向かうのが見えた。摩帆瑠は静かに後を追った。

 鏡の前でバッグから口紅を出そうとしているテラの後ろに、摩帆瑠は気配を消して立った。

 テラは顔を上げ、鏡に映る摩帆瑠に気がついた。動揺を隠し、ゆっくりと振り向くテラに、摩帆瑠は、あからさまに耳の後ろを探るように動きながら、

「ほんとうにきれいですね。シミひとつない白い肌、うらやましいです」

 顔色を変えず出口へ向かうテラへ、摩帆瑠は鏡越しに、

「あら? 左耳・・・テラさん、ファンデーションお貸ししましょうか?」

 と小声で言った。

 テラは、はっとして一瞬左手で左耳の下を隠そうとしたが、一瞥もくれず毅然と立ち去った。

 テラの姿が消えると、摩帆瑠は吐き気がしてきた。

 とんでもないことをしたのかもしれない。クビになるかもしれない。モデルも辞めなきゃならない。感情に任せた行動を思い出し、摩帆瑠はその場に座り込んでしまった。  

 どのくらい経ったのだろう。携帯が鳴った。我に返り、震える手で見た。谷口からだ。もうテラが話したんだろう。なんて言い訳しよう。摩帆瑠は混乱していた。

 鳴り続ける電話に出ると、慌てた様子の声が聞こえた。

「摩帆瑠? 今どこにいるの? すぐにロビーに来て」

「ごめんなさい」

 後悔の言葉だった。

「なに言ってるの? 勝手な行動は反省してもらうけれど、今はとにかくテラさんの代役でレセプションに出なきゃいけないんだから、準備はできているんでしょうね。急いでロビーに来て」

 テラの代わり? 鏡の中の摩帆瑠に問いかけると、鏡の中の摩帆瑠が微笑んだ。

 その後、摩帆瑠はK社長を迎え、テラの代役として新酒の発表会を務めた。


 化粧室を後にしたテラは、追ってくる熊野からも逃げるように部屋に入った。

「テラさん、どうしました?」

「気分が悪いの。しばらく一人になりたいわ。後はよろしく」

「お食事はお部屋で取りますか?」

「お願いするわ」

 熊野はテラの性格を知っていた。後はよろしくと言われたら、何をどうしても動かなく

なる。明日の撮影のためには、説得は逆効果だった。

 テラのプロ意識を信じて、部屋を出た。


 テラは、セットされた食事に手もつけずに、椅子に座り目を閉じていた。

「あの子はどうして知っているの?」

 立ち上がり洗面所へ向かい、確かめるように鏡を見た。

 ファンデーションで隠しても、首筋の血管が青く浮き出てはいるが、よほど目を凝らして見ない限り分からないはずなのに、あの会話では摩帆瑠に、すべてを知っている、と言われたようなものだった。

 テラは20年前の地震で、左側頭部を負傷した。伯母の経営していたバレエスクールの寄宿舎でのことだった。傷跡はほとんど消えていたが、この痣はあの時の傷跡から広がっているように思えた。

 テラは光輝く女神と言われるようになるまで、天性に加え人知れず努力をしていた。

日常生活にも気を遣い、しみひとつない白い肌のために細心の注意を払ってきた。

なのに突然首筋に痛みが走り、少しずつ血管が浮いてきた。

 知り合いの医者に頼み、秘密で秋津総合病院で検査を受けることになっていたが、トップモデルのテラにとって、それは気の重いことだった。

 そんな時、宮崎での仕事と聞き、なぜか気持ちがふるさとに向いた。

 ふるさとは明るく、暖かく、変わっていなかったが、そんなふるさとでもテラの気持ちが晴れることはなく、今は明日の最終日の1日が苦痛で、すぐにでも東京に帰りたいと思い始めていた。

 自分で首を絞めるような息苦しさを感じて、閉じていたカーテンを開けた。

 眼下には、テラの思いをなだめるように、ゆったりと大淀川が流れていた。

       

 その頃レセプションを終えた摩帆瑠は、自分の部屋でビールを飲みながら、テレビのお笑い番組に声をたてて笑っていた。まったく面白くないのに、自然と高笑いをしていた。

 摩帆瑠は自己変革を感じていた。ステージに立った時、手の届かないと思っていたテラは消えていた。今まで感じたことのない恍惚とした心地よさは、摩帆瑠の内側にあった自責の感情を正当化した。その時摩帆瑠は、摩帆瑠であることが運命なのだと、ステージの上の乾杯のグラスの中に、摩ヶ津沙織を葬った。


 夜明け前、テラはひとり江田神社で拝礼を済ませ、木々に囲まれた小道を、みそぎ池に向かって歩いていた。

 昨夜テラは、夢と現のはざ間で、父がよく話していた、黄泉の国から帰ってきたイザナギノミコトの夢を見ていた。夢の中で父の顔をしたイザナギノミコトは、血にまみれた身体をみそぎ池で清めていた。古事記では、清められた身体から三貴神と呼ばれる神様が生まれるのだが、父の身体はいくら清めても、出血は止まらなかった。だが不思議なことにそんな身体でありながらも、父は穏やかに微笑んでいた。血まみれで微笑む父が、遠い記憶の中にあった。

 道に沿って歩いていくと、木々に囲まれた広場に出た。中央に池というにはあまりにも整った、ほぼ長方形の池が水を湛えていた。

 テラは近くのベンチに座り、水面を見ていた。蓮だろうか、水面に水草が揺れていた。

 しばらくすると日が昇り、辺りは春の明るさに変わっていた。

 ふと、首筋の血管腫は汚れたもので、父がここで清めてごらん、といっているように思えた。

 テラは少しだけ清めてみようと池に近づき、水に触れようと手を伸ばし、のぞき込んだ。

一瞬目がくらみ、引き込まれるような錯覚に襲われ、慌てて身体を後ろへ引いた。

 息を整えるのに胸を押さえた。池の底で恐ろしいものがうごめいていた。

 もう一度、恐る恐る池をのぞいてみると、池はただ空を映していた。

 「みそぎ池」空の計り知れぬ高さは、時の移ろいとともに池の底知れぬ深さにかわり、その奥底に沈む清められた汚れたちは、幾千年の時を経ても消えることなく、漆黒の闇へと変わり、池の底に封じ込められているのだろうか。

 テラは首にそっと触れてみた。これは汚れたものなのだろうか。血まみれの父の微笑みは汚れているのだろうか。

 みそぎ池を後にするテラは、優しい春の光につつまれていた。

 

 最終日の撮影は、晴れ晴れとした表情のテラの独壇場だった。

 薄絹を被り、優雅に舞うテラに、カメラマンをはじめ観客は魅了された。

 その様子を観客の輪から離れたところで見ていた摩帆瑠は、口元に不適な笑みを湛え、ロケバスに戻った。帰る道すがら、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの御陵墓の前を通った。

 静かに手を合わせていた少女を見かけたのは、昨日のことだった。あらためて御陵墓の前に立ってみたが、そこはただ草の生い茂る暗い森だった。屋台のある広場の桜も、仰ぎ見ると一晩で盛りを過ぎていた。満開の桜も、風になぶられ地に落ち、人に踏まれ醜く変色し土へ消える。桜はそれでいいのだろう。摩帆瑠は足元に舞うはなびらを避けもせず、踏みつけ、歩き始めた。


2020年6月14日

一部編集を行いました


2021年12月19日

プロローグを前書き部分に統合、一部編集を行いました。

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