序章
お初にお目にかかります、なぞのおとこです
投稿は不定期ですが、お楽しみいただけると幸いです
かつて大陸の多くをヒトと面影を異にする怪物たちが占め、ヒトは細々と暮らし夜闇に怯えていた時代、一人の雄が東の怪物らを皆殺し、大陸に覇を唱えた。次第に彼の下にヒトは集い、徒党は軍団へ、群れは国へと移り変わった。東部から北部にかけ大陸のおよそ四半を仇敵の血で染め上げると、彼は自らを太陽の化身、不夜帝と名乗り、人々は彼とその末裔を敬い、尊び、全幅の信頼を以て従った。
皇帝は全ての臣民の頂点であり、天に昇る太陽であり、何者も逆らえぬ力の象徴であった。
……遠い昔の話である。
初代皇帝から連綿と続く領土拡大は三百年前にはもはや限界に達していた。およそ百六十年前に西部戦線の総長が帝国に無断で怪物らと休戦協定と不可侵条約を結んだことは、それを耳に出来るほどに権力を持つ者らに多かれ少なかれ皇帝への疑心を生じさせた。重ねて、当時の皇帝たる赤翼帝は己が軍団でそれを断罪しなかった、いや、できなかった。帝都、つまり北部と東部の境に座する彼とその擁する軍団に、西の果てのそのまた果てはあまりにも遠すぎたのだ。
赤翼帝は牽制に自身の末子率いる数隊を送った。二つの季節が巡った後、西部戦線の独立宣言碑が、末子の兜と鎧をまとった矢達磨の白骨と共に帝都に届けられた。ついに識者たちは皇帝の威光の限界を悟り、帝国における太陽の化身の不在を確信した。
『かの皇帝とやらに我らを裁く力がないのであらば、従う道理はどこにある!』
それからの彼らの行動は極めて迅速だった。
皇帝傘下の常備軍の大半は識者らの根回しでクーデター未遂を演じる形で解体され、有力な者はそのまま識者に買収され、皇帝の周りは識者の率いる名も知らぬ私兵で固められた。
己らの呼び名を『貴族』と改めた識者改め貴族たちは初代皇帝と直参が定めたきり未整備だった法の隙間を利用しつくせるだけ利用し徐々に、しかし確実に皇帝の権限を己らの物へと置換した。
選帝権を得た貴族たちは皇帝の子息の有能な者を秘密裏に始末し悪名高き無能帝を百三十年前に即位させると、彼とその継承者に欲望に爛れた生活を保証し、一方で帝位を継ぐ意思のない者は徹底的に冷遇することで、貴族に依存する皇帝という構図を確固たるものにした。
貴族たちは時に派閥同士で不毛な争いを繰り広げたが、既に形骸化し貴族の飼い犬と化していた皇帝にそれを止める力はなく、それどころか同じ尊き血をわけた兄弟は進んで各々を推挙する貴族の神輿に乗り、帝権……つまり豪華絢爛に暮らす権利を得るべく、祖先譲りの武力の限りを尽くし、無様に殺し合った。
……かくして、かつて帝国の上に立ちあまねく全てを見下ろしていた神聖なる皇帝は今、やがて訪れる屠殺にも気づかずのうのうと生きる家畜と等しい。
「しかし、それも今日までのことだ」
かつての西部戦線、現在の帝国西部辺境伯領。伯の抱える無数の兵士たちであった屍の山のすぐ側に、暗褐色の襤褸がはためいている。太陽が沈み始め、世界が茜色に染まりだした頃にその襤褸は動き出し、それを纏う何者かがいることを明らかにした。ついぞ先程まで天を仰いで転がっていた襤褸の主は己が殺した兵士の亡骸を踏みにじり、一息に屍の山の頂点へと登りつめた。
纏う襤褸が体格すらもあやふやなものとし、顎から額までを覆う白磁の仮面は表情をうかがうことを許さない。しかし、仮面の奥のその瞳は赫奕たる光明を放ち、眼下の夕闇に包まれた町並みを赤く染めんばかりであった。
「……昇る旭日を伴って東から訪れた皇帝は、人々に闇を退ける安らぎを与えたという」
襤褸は東の方角、遥か彼方にそびえるだろう帝都に視線を投げかけ、仮面の下の目を細めた。
「ならば、西からきたるこの私は、諸君らに何をくれてやったものかな」