天秤
2012年10月頃に書いたと思われる掌編小説。
六月の、ある晴れた日の昼下がり、化学の授業中、サヤカさんが『ノートを貸して』と僕に言ってきた。
でも、僕はそのことを忘れて、放課後、一目散にグラウンドに向かった。
僕がサヤカさんとの≪約束≫を思い出したのは、日が暮れ、部活動が終わった午後六時のことだった。
僕は『しまった』と思い、慌てて教室に戻った。
でも、僕が戻った時には、サヤカさんの姿は既になかった。
僕は『ごめんなさい』と心の中で謝りながら、サヤカさんの机の中に、僕の化学のノートを忍ばせた。
『お前何してるんだよ』
安堵の息を吐き、帰ろうかと思った時、唐突に、同級生のリョウの声がした。
『違うよばか。俺はただ……』
リョウがにやにやしているので、僕は事情を説明した。
『何だ。つまんねぇの』
僕の説明を聞いて、リョウは状況を理解してくれたようだった。
まあ、その時のリョウの本心なんて、僕にはわからないんだけど……。
次の日、午前八時十分に学校に着くと、サヤカさんに声をかけられた。
『××君、ノート貸してくれる?』
てっきりお礼を言ってもらえるものだと思っていた僕は、恥ずかしそうに俯くサヤカさんの仕草を見て、どぎまぎした。
『え?ノートはサヤカさんの机の中に入れておいたよ』
僕が教えると、サヤカさんは『あ、ごめん気付かなかった』と言って、笑顔で、与えられた机に向かって走り出していった。
密かに好意を寄せている同級生とのよくある些細な出来事。
話はそれで終わる筈だった。
でも……。
僕の化学のノートは、サヤカさんの机の中に入っていなかった。
その事実をサヤカさんから聞いた時、僕は真っ先にリョウを疑った。
『お前、俺のノート返せよ』
午前八時二十五分、リョウが教室に入ってくるなり、僕はそう言ってリョウを殴った。
『いってぇなぁ。いきなり何すんだよ』
僕がサヤカさんの机にノートを忍ばせたのを見ていたのは、僕の知る限りリョウだけだったから、リョウがノートを持ち去った犯人だと思った。
でも、犯人はリョウじゃなかった。
後日、僕の化学のノートを持ち去ったのは、隣のクラスの女の子だったと、サヤカさんが僕に教えてくれた。
『ごめんね××君。私の所為で厭な思いさせちゃって……』
その時、サヤカさんは何故か僕に謝ってきた。
でも、僕はリョウに謝らなかった。
ううん。
本当のことを言うと、もう三月で、卒業式を間近に控えているというのに、未だに僕はリョウに謝れずにいた。