陽菜子と霊感少年5
散々泣いたせいか、陽菜子の喉はからからで、瞼も熱を持って腫れぼったい。
きっと、酷い顔をしているだろうな、と陽菜子は苦笑を漏らした。
脱力感に暫らく放心していると、目の前にハンカチが差し出される。
水で湿らされたそのハンカチを辿っていくと、無表情でこちらを見下ろしている祥と目が合った。
「……ありがとう」
出てきた声はやっぱり擦れていて、陽菜子は心の中で小さく笑う。
ハンカチを受け取ると、祥はもとの壁際に戻って行った。
濡れハンカチで目元を押さえていると、店長が陽菜子の身体の前で少し難しい顔をした。
「ただね、ちょっとした問題があるんだよね」
「問題……ですか?」
店長の言葉に、陽菜子は不安げにハンカチを握る。
安心していただけに、問題と言う言葉が嫌に頭の中で響いた。
まさか、戻るのに何年もの時間がかかるとか、対価が必要とか、そう言うことだろうか。
緊張しながら店長の言葉を待っていると、彼は目を細めて宙を見た。
「魂を身体に戻すのは簡単なんだよ。でもね、一度魂が抜けるとさ、抜け癖がついちゃうんだよね」
「抜け癖って、例えばどんな?」
取り合えず、元に戻るのは簡単らしく、陽菜子は安堵の溜め息をつく。
抜け癖というのも、脱臼癖や捻挫癖なんていうのと同じようなものだろう。
二度もあんな風に転がり落ちる予定はないし、強く頭を打ち付けなければ大丈夫なはずだ。
そう高をくくっていた陽菜子だったが、続いた店長の言葉に衝撃を受けた。
「うーん、くしゃみした途端に魂が飛び出ちゃうとか、肩を叩かれた衝撃で飛び出すとか、後は……」
「ちょっ! それって、日常生活危うくないですか!?」
「うん、まず、ここから無事に家に帰れるかすら怪しいね」
「そんなぁ」
がくりと床に倒れこみ、陽菜子は打ちひしがれる。
そんな風に、ぽろぽろ魂が抜け出すなんて、冗談ではない。
涙目で床にへばりついていた陽菜子の肩を、店長が元気付けるように叩く。
「だから、ここで僕の腕の見せ所ってわけ」
ぱっと起き上がり、陽菜子は店長に縋りつく。
彼の背後に、後光が射しているように見えるのは、気のせいだろうか。
店長は笑顔のまま、人差し指を立てて説明を始めた。
「要するに、ひなちゃんの魂を身体に縛り付ける鎖を作れば良いんだけど、一番オーソドックスなのがお札ね」
「それって、魔よけの壷に悪霊を封印する的な、あれですか?」
「あたり! ひなちゃん凄いね!」
「絶対嫌です」
陽菜子が想像したのは、昔見た妖怪映画のワンシーンである。
額に護符を貼られた彼らの姿を思い出し、必死になって頭を振った。
しょっちゅう魂が抜け出すのも嫌だが、一生額に札を貼って生きるのも嫌だ。
「うん、僕も自分だったらお断りだね」
にこやかな笑顔で返され、陽菜子は自分の顔が引き攣るのが分かった。
先程、後光が見えたのはやはり気のせいだったらしい。
こんないい加減な大人を、はたして信用して良いのだろうか。
壁際でこちらを見ていた祥に目を向けると、そっと視線を外された。
「で、次に考えられるのが、アクセサリーかな。ああ言うのなら、ずっと身に着けててもおかしくないでしょ」
(あ! 今度はまともだ!)
陽菜子が四つん這いのまま打ちひしがれていた間にも、店長の話は進んでいたらしい。
ようやく出てきた普通の案に、陽菜子は勢い良く顔を上げた。
「だけどね、ここでまた問題が出てくるわけ」
店長の話を聞くため、陽菜子は姿勢を正して正座する。
彼は思案するように顎に手を置き、小さく息を吐いた。
「さっき、ちょうど倉庫の確認をしてたんだけど、材料で足りないものがあるんだ。あれがないと、鎖としての意味がなくなっちゃうんだよね」
「それは、どうすれば手に入るんですか? 私、できることなら何でもやります!」
ようやく見えた光りを逃すわけにはいかない。
陽菜子は必死に手を挙げて主張を繰り返した。
「そうだね、僕じゃあ、ちょっと材料を取りにいけないから、ひなちゃんにお願いしようかな」
立ち上がった店長に続き、陽菜子も彼の後を追う。
店長は何かを探すように棚を交互に確認し、一冊の本を取り出した。
パラパラとページを捲っていた店長は、何かを見つけたのか手を止めて床に本を広げる。
「うーんとね、その材料っていうのが、これ」
「……え?」
彼が指差したものを覗き込んだ陽菜子は、数秒間固まった後に思わず声を漏らす。
振り返りたくないと主張する首を無理やり動かし、横にしゃがみ込む店長に視線を向けた。
「あの、店長?」
「ん、なーに?」
「これって、絵本……ですよね」
「うん、その通り」
「欲しい材料って、実在してるんですよね?」
「そう、この本の中にね」
爽やかな笑顔を浮かべる店長に眩暈を覚え、陽菜子は勢い良く頭を抱えた。
確かに、自分は変人でも奇人でも構わないとは思った。
縋れるものなら、何だって縋ってやると決めた。
でも、本当にここまで変な人だとは思わないではないか。
しゃがみ込んだまま悶々と考え込んでいた陽菜子は、隣で店長が立ち上がったことに気付かなかった。
「と言うわけだから、ひなちゃん」
とん、と突然背中を押され、陽菜子は目を見開く。
何の準備もしていなかった身体は、前のめりに倒れ込んだ。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「……は?」
絵本に額をぶつける直前、空気がゆらりと揺らめいた。
そのまま吸い込まれるようにして、陽菜子の姿は絵本の中に消えていった。