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陽菜子とおとのの硯2



「”おとの”の硯?」

『そうじゃあ』



頭の中で疑問符を並べ、陽菜子は小首を傾げる。



『おとのはのぉ、いっつもたくさんの人間に囲まれておったわ』



硯はそんな彼女を気に留めず、懐かしそうに語り始めた。

老人が昔話を好むのは、人でも妖でも変わらないらしい。



『わしはおとのが幼い時から一緒におってのう、わしで墨をすっては拙い手で書を書いておった』



爺ちゃんは、昔は柔道で一番だったんよ、と嬉しそうに話す祖父の姿が硯に重なった。

そう言えば、随分と田舎に帰ってないなと陽菜子が想いを馳せている間にも、硯の昔話は続く。



『毎日楽しそうにわしで墨をするおとのを見るのが、そりゃあ楽しみじゃった』



そこまで、明るい調子で話をしていた硯だったが、急に話を止めると深々と息を吐いた。

物憂げなその様子に、陽菜子は硯に意識を戻す。



『じゃがの、いつの頃からか、おとのが書を書く時間が短こうなってのぉ』



時々、こほこほと咳をしながら、少ない時間であってもおとのは毎日文机に座っていた。

だか、それも1日空き、2日空きと徐々に机に向かう日が少なくなった。

仕舞いには他者に墨をすらせ、何とか筆を持つこともあったのだという。

それから暫らくして、誰もが硯で墨を摩る事がなくなった。

気が付いた時には、いつの間にかこの店に預けられていたのだそうだ。



『わしがここに預けられてから、おとのにはとんと会うておらぬ』



気を落としたような声色で、硯はぽつりと呟いた。



『最近は仲間も増えぬし、おとのもおらぬで、つまらんのう』



途中から黙って話を聞いていた陽菜子は、ある仮定に辿りついていた。

咳をするようになったという硯の元持ち主は、身体が弱っていたのではないだろうか。

書を書かなくなったのではなく、書けなくなったのだとしたら。

もし陽菜子の仮定が正しいのであれば、硯の言うおとのは既にこの世には居ないのかもしれない。

だが、それを硯に伝えるのは、どうしても戸惑われた。



『はようおとのに会いたいのう』



いつかおとのに会えると信じている硯に、思わず陽菜子が口を開きかけた時、彼女の肩が静かに叩かれる。



「……神代くん」



振り返ると、祥がじっとこちらを見詰めていた。

陽菜子が困りきった表情で見返すと、彼は無言で首を振る。



『寂しいのう』



密やかに呟かれた硯の声が、店内に小さく響いた。





*************






その夜、――陽菜子は不思議な夢を見た。




不意に目を覚ました陽菜子は、飛び込んできた見慣れぬ風景に唖然とする。

燦々と輝く太陽が室内を照らし、開け放たれた障子の向こうは広大な庭。

通り抜けた風で、敷き詰められた畳からイグサの匂いがふわりと香る。

天井を見上げれば、立派な梁が架けられた日本家屋のようだ。

確実に自分の部屋でないことは確かだが、では一体ここはどこなのだろうか。


訝しみながら、何気なく自分の身体を見下ろした陽菜子は、ぎょっとして目を瞠った。

幽体離脱をした時のように、半透明に透けている身体に、我知らず嫌な汗が流れる。


店長からもらった白樹のネックレスは、眠るときには外している。

今まで眠っている最中に魂が抜けてしまったことはなかったから、正直油断していた。

そんな風に慌てていたものだから、陽菜子は近付いてくる足音に気付かなかった。



『おじじ様、わたくしに見せたいものとはなんでございましょう』



突然聞こえた幼い声に、驚いて振り返る。

いつの間にか、戸口には二人の人間が立っていた。

しかし、その風体に、陽菜子は思わずあんぐりと口を開ける。


彼らは今時珍しく着物を着ていたが、陽菜子が驚いたのは彼らの髪型だった。

子供の方は黒髪を左右に分け、肩で切りそろえられた髪型で、特に変なところはない。

だが、白髪交じりの大人の方は髷を結っていたのだ。


自分は、時代劇の収録にでも迷い込んでしまったのだろうか。

混乱する陽菜子の横を素通りした二人は、古びた棚の前で足を止めた。

男性は棚から風呂敷に包まれたものを取り出すと、子供に両手を出させその上にそれを置く。



『おじじ様?』

『開けてみよ』



不思議そうにしていた子供だったが、畳に正座するとおずおずと結び目を解いた。

その様子を背後から見守っていた陽菜子は、子供が取り出したモノに驚いて声を上げそうになる。

なぜなら、彼が矯めつ眇めつ眺めていたのは、淵に龍が施されたあの硯だったからだ。



『それは、そなたの父が使っていたものぞ』

『え?』



子供は男性の言葉に、驚いたように動きを止めた。



『そなたの父は熱心な男であった。そなたもよく学び、励めよ』

『……はい!』



硯を抱きしめ、子供は男性に力強く頷いてみせる。

男性が部屋から出て言った後、子供はそっと硯に話しかけた。



『硯、そなたはわたしの父上を知っているのだろう?』



当然、物が答えるはずがない。

だが、子供は嬉しそうに頬を綻ばせて目を細めた。



『父上の事はよく存じ上げぬが、素晴らしい方だったのだそうだ。わたしも、父上のようになれるだろうか』



硯を胸に抱いていた子供だったが、それを風呂敷の上に置くと、再び丁寧に包み始めた。

子供が立ち上がって部屋を出た瞬間、突然世界が歪んだ。

ぐらぐらと揺れる視界に、陽菜子は目を瞑る。


ようやく眩暈が治まって目を開けた時、陽菜子はまた違う部屋に佇んでいた。

夕暮れの部屋には茜色の日が入り、木々の影が長く伸びている。

陽菜子が立っていたのは、廊下だったようで、向こうの方から一人の若い男が近付いてくるのが見えた。

彼は陽菜子が佇んでいた部屋の前で足を止めると、中に向かって声をかけた。



『殿、失礼いたします』



彼が障子の戸を開けると、文机の前に座っていた髷の男性が此方を振り返った。

男性は先程の光景で見た白髪交じりの男と良く似ていたが、幾分か穏やかな表情をしている。

嬉しそうな笑みを浮かべた彼が、硯を手にした子供と重なった。



『おお、戻ったか』



男性は風呂敷を差し出し、平伏する男に近付く。

彼は風呂敷を広げ、中に入っていた硯を確認した。



『これは見事な仕事ぶりだ』



大切そうに硯を持ち上げた男性は、その端の部分を指で優しくなぞる。



『この硯は父の代から使っているものでな。欠けているのに気付いたときは、肝が冷えたわ』



安堵したように息を吐き、男性は硯を運んできた男に労いの言葉をかけた。

男が去ってから、男性は硯を文机に置き、書道具を手元に引き寄せる。

中から墨を取り出すと、硯に数滴水を垂らす。

ゆっくりと円を描く様に墨をすりながら、男性は小さく呟いた。



『やはり、そなたでないと良い墨がすれぬな、硯よ』



硯に話しかける姿に、陽菜子はこちらに背を向ける男性が、先程の子供であったことに気付く。

何度も墨をする作業を続ける彼を見ているうちに、再び世界が揺らぎ始めた。


目を開けた時には、辺りはすっかりと暗がりに包まれていた。

室内では行灯の灯りが微かに揺らめいている。

その中で、こほこほと咳をする音が聞こえ、陽菜子は背後を振り返った。


文机の前で、白髪の男性が背を丸めて咳き込んでいる。

側に付き添っていた男が、彼の背を擦りながら声をかけた。



『大殿、ご無理は禁物にございます。あまり根をつめてはお体に障りましょう』



男は肩で息をする男性を導き、床につかせる。

荒い呼吸を繰り返していた男性は、男を見上げて顔を歪めた。



『すまぬな、仙十郎よ。苦労をかける』



ようやく息が落ち着いてきた男性は、最後に大きく息を吐き出した。



『墨もすれぬようになっては、わしも終わりぞ』

『なにを申されますか、じきに病も良くなりましょう』



そう声をかける男に、横たわる男性はただ笑みを返すだけだった。

次に場面が変わった時、そこには男も、白髪の男性も居なかった。

その代わり、室内にはさめざめと涙を流す老いた女性がいた。



『大殿はほんに書のお好きな方でございました』



女性はまるで慈しむように、側にあった文箱を撫でる。



『今年の桜は、供に愛でようと仰せでしたのに、この様な……』



みるみる間にその瞳には雫が漏り上がり、彼女は着物の袖で己の目元を隠した。

その様子をみた周りの女性達も、同じように目頭を押さえる。

暫らくすすり泣きが部屋を満たしたが、側に控えていた年配の女性が主である彼女に声をかけた。



『大奥様、こちらの書道具は如何いたしましょう』

『これは、大殿のよう使うておられたもの。妾が逝くまで手元に置いておくとしよう』



そっと女性が硯を抱き寄せた瞬間、世界は暗闇に変わった。

僅かな灯りすらなく、どこからが闇で、どこから自分の身体なのかも分からない。

ひんやりとした空気に身を震わせて、陽菜子は自分を抱きしめる。

そんな時、小さな声が聞こえた。



(……クライ……サビシイ)



寂しい、寂しいと声を上げながら、誰かが泣いている。

その悲しげな声に、陽菜子は思わず胸を押さえた。

徐々に膨らむ誰かの感情は、陽菜子の心を振るわせた。



(……アイタイ……アイタイ……”オトノ”ガイナイ)



流れ込んできた想いに、陽菜子ははっとして顔を上げた。



「……硯?」



小さく呟いた瞬間、眩い光りが陽菜子の視界を焼いた。

再び世界が揺らぎ始め、今度は深くに意識が沈んでいく感覚がある。



(……――おとのにあいたいのう)



遠のく意識の中、耳の奥で硯の声が響いた気がした。





*************






「……っあ……」



目を開けた時、飛び込んできたのは見慣れた天井だった。

恐る恐る持ち上げた手は、透けることなく日の光りを遮る。

安堵しながら額に手をやった陽菜子は、自分の瞼が腫れている事に気付いた。



「寝ながら泣くなんて、器用なことしたなぁ」



独り言を呟きながら、陽菜子は両手で顔を覆う。

中々降りて来ないことを心配して、母親が部屋に顔を覗かせるまで、陽菜子はそうして静かに目を瞑っていた。





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