155.さわらぬまじょに。
『あくまでおれが見聞した範囲内では……そう感じた。
いや、そのようにしか感じられなかった』
「天の下に安住の地はなし、か。
だが、それ……別段、別の世界に限ったことでもないだろう?
今、この迷宮内にこっちの世界の住人たちだって、大半は自分の出生やらなにらやに得心しておるわけでもなかろう。
なんなら……今からでも少学舎に足を運んで王都から送られてきた者たちに訊いて回るとよい。
自らの生に満足していのるか? とな。
どんな世界であろうと必ずしも生者には優しくない……というのが、残念なことながら、普遍的な環境条件であった、というだけのことであろう」
『リンナよ。
事実を抽象化しても、生者たちの声は聞こえてこない』
「では、ゼグスよ。
なぜ、他の世界の出身者たちは、多くは望郷の念を口にしないのか、その理由をゼグスの言葉で説明できるか?」
『説明できるもなにも……多少なりともこっちの方が、元の場所よりはマシだっただけこのことさ。
以前の生活よりもギルドが用意する待遇の方に満足しているから、今のところは不満を口にする者も出ていない。
もう少し時間が経てば、過去を美化して懐かしむやつも出てくるかと思うが……』
「それでゼグスよ。
その状態の……いったい、どこがいけない?」
『いけない、とは、いわない。
ただ……おれが納得いかないだけだ。
理由は……おれ自身にも、よくわからない。
やつら……なんで、自分の出身世界を、軽々しく捨てられるんだ? なんでそこまで切り替えを早くできるんだ?』
「ああ、そういうことか。
ゼグスくんがなんに苛ついているのか、ようやく見えてきた。
あれだ。
ゼグスくんは、元魔王軍の兵士だとか四等臣民とか自称していた割には、その肩書きを自分のものとは思っていなかったんだ」
『……どういうことだ? シナクよ』
「だから……魔王軍に侵略され、併呑されたどっかの世界……の方に、自分の根っこがあると、そういう風に認識していたんじゃないか?
魔王軍の一員としての自分は、あくまで仮の姿であるとか……こういう言い方もなんだが、そういう風に自己暗示をかけることによって精神の平衡を保っていた。
それで……他の人たちが、必ずしもそういう自己の保ち方をしていないことを知って、自分の方が特殊な例なのではないかと思い至り、少々、精神の根っこがぐらついている。
特にテオ族とかグガウ族とかは、大昔に頭脳種族に併呑されて従属関係になった種族なわけで……この構図は、ほぼ魔王軍と魔王軍兵士の関係と重なる。
なぜ彼らは、突然、それまでとは違った環境から放り出され、以前に従属していた組織から切り離されたのに……自分のように混乱することなく、平然として新しい環境を受け入れているのか……。
そこのところが理解できないから、ゼグスくんは苛ついているわけだ。
だけどなあ、ゼグスくん。
どこに属しているのかとかいう意識以前に、不本意だろうがなんだろうが目前の生を全うしようとする、生きて現在の環境に適応しようとする本能の方が強いのが、そんなにいけないことなのかな?
ましてや、この迷宮みたいにいよいよ訳が分からない、今後どんな変化が起きるのか予測が出来ない環境だ。
以前の、前の世界よりは迷宮という不安定な環境に適応しつつあるこっちのギルドみたいな組織が目の前に現れて保護してくるとか申し出たら、たいがいの知性はその申し出に乗っかるんじゃないかな?」
『なぜ? シナクの声が聞こえる』
『ドラゴンのコインのせいではないか?
おそらく、シナクは普通にはなしているつもりなのだろう。だから、普通に話し声が聞こえる距離まで近づくと、誰もがシナクがはなしていることを理解できる。
あのコインとは、使用者の意志の伝えるためのアイテムであるそうだからな。
おれたちの手話をあのゼグスが理解できたように、耳が聞こえない君たちがシナクの声を聞いたとしても不思議ではなかろう』
『以前にもシナクの声は聞こえていたから、その事自体は不思議に思わない。
だけど、今のシナクは後ろから近づいてきたわたしたちにはなしを聞かせようと意図は持っていないのではないか?
にも関わらず、こうして声が聞こえてくるのはどういう理屈か?』
『だから、声が聞こえる範囲とか対象も、シナクの意識によって決定されるのであろう。
以前、魔王軍と交戦したおりには、迷宮中にいた関係者すべてにシナクの声が届いたそうだ。
今のシナクは、ごく普通にしゃべっているつもりで、主としてゼグスに聞かせるつもりであるが、本人の意識としてはドラゴンのコインを特に使用しているつもりもなく、ごく普通にはなしているつもりなのだ。
だから……』
『だから、本来、普通にはなし声が聞こえる距離まで近づけば、誰にでも声が届くって?
ずいぶんとアバウトなもんね』
『でも……』
『なに? ニクル』
『慣れないうちはくすぐったくも思ったけど、他人の声が聞こえるって、なんかいいね。
みんな、普段からこうして音を聞いているのかぁ。
ラキル。
あのコインを借りれば、もっと色々な音や声がわたしたちにも聞こえるようになるのかな?
ゼグスが世話になっているとかいう魔女に同じような処置をして貰えれば、誰とでもはなせるようになるのかな?』
『たぶん……そうなんじゃないなか?
でも、あのコインを少しの間借りるだけだならともかく、塔の魔女に接触をするのは止めておいた方がいいと思う。
集めた情報を総合すると……』
『色々な意味で、滅茶苦茶な存在らしいからな。
われわれの水準をはるかに超越した知識や技術の持ち主であることは確かなのだが……気まぐれでつかみ所がなく、決して、つきあいやすい相手ではないらしい。
それどころか、あの魔女になにかを願って身の破滅を招いた伝承の方がはるかに多い』
『その伝承によれば、魔女からもたらされたモノやコトをうまく使いこなせなくて自滅するパターンが多いので、あの魔女がとくだんに悪意や害意を持った存在だとは思わないけど……あれこそ、さわらぬ神に祟りなしって慣用句を体現したような存在だと思う』
『同感。
よほど必要に迫られでもしない限り、こちらから接触するのはリスクが大きすぎる存在だと判断する』
『でも……オラス、ラキル。
あの魔女ってこれまで、シナクとゼグスの二人に継続的な干渉を行ってきているんだよね?
あの二人と日常的に接触するようになったわたしたちも、いずれば出会ってしまうことになるのではないかな?』
『不可避な状況で接触するのと、こちらから出向いていくのとでは自ずと意味が違ってくるだろう』
『そうよ、ニクス。
今まで、実際に魔女にあった人たちのはなしを総合すると、たいそうな変わり者であることはたしかだけど、普通に接する分にはあまり害がない存在である見たいし……』
『こちらからなにか求めない限り、対価を発生しないからな。
よほどせっぱ詰まった状況にならない限り、あの魔女にはなにも求めない、こちらからは接触しに行かない……と、そういう方針を徹底していこう』
『それで……済むといいけど』
しゅん。
『……へ?』
『え?』
『なに?』
『『『……猫耳?』』』
しゅん。
「……猫耳はいねがー!」
『『『……白衣にとんがり帽子の……魔女?』』』
『いや、まさか……』
『でも……大柄で胸の大きな、女の魔法使いっていってたし……』
『外見的な特徴は一致しているよな。
でも……』
『『『その魔女が、なんだって特大の網を振り回して猫耳を追い回しているんだ?』』』