56.そのねこ、どこのこ。
迷宮内、最高級宿屋、黒樫亭、某客室内。
「それで、その猫というのは、どこにいるのかね?」
「あ、あれぇ?
さっきまで、確かにここにいらっしゃったのですが……」
「ミルレイ。
長旅の疲れでも出たのだろう。
明日は、グロウェル商会のブルフス氏、ダニルロ商会のナルラキ氏との会食が予定されている。もちろん、お前も同席するんだぞ。
だから食事を摂った後、早めに休みなさい」
「あ、あの、お父様」
「なんだね?」
「その会食の後でも前でもいいんですが、一度、こちらでお買い物をしていきたいのですけど……」
「いいだろう。
帝都への出発は、明後日を予定している。
それまで、他に用事がない時間は、好きに過ごすといい」
「とはいっても……やはり、護衛の方はついてくるんですよね?」
「当たり前だ。
お前はうちの商会の跡取りであり、十分な商品価値のある容姿を持った若い女性だ。
誘拐などを警戒をするのは常識ではないか。
万が一、お前にもしものことがあったら……」
「……これまでの投資が無駄になる、ですよね。
ええ、ええ。
わかっていますとも」
ギルド本部。
「うきゃーっ!」
「あっ。
フェリスさんが壊れた」
「なーんでぇ……。
やってもやっても、仕事が終わらないのですかぁっ!」
「それは、そこに仕事があるからだよ、フェリスくん」
「むきぃー!」
「どうどう。
フェリスさん、抑えて、抑えて」
「それいったら、迷宮の方は、今、もっと大変なんですから」
「迷宮に人手が取られている分、こっちにもしわ寄せが来ているんだけどねー」
「ギリスさんが向こうにいきっぱなしだと、本部も本当、非効率的になってすぐに書類がたまっちゃうんだよねー」
「いかに、普段からあの人一人の判断に頼りきっているのか、こういうときに如実にわかりますな」
「手順書通りに処理すればいい案件なら、人数さえ確保すればどうにでも出来るけど、微妙な判断が要求される案件は、ほとんどギリスさん任せだもんね」
「あと、フェリスさんも、最近は少し、任されてきたけようだけど……ギリスさんが担当している案件数と比較すると、まだまだ少ないし……」
「かといって、各地の渉外さんとの連絡は途絶えさせることも出来ませんし……」
「定期的な商品の発注とか、確認事項とか、わたしたちに処理出来る案件を順番にこなしていくより他、ないよね」
「今、出来ることはね」
「ほら、次代を担うホープのフェリスさん。
いつまでもわめいてないで、お仕事に戻りましょうね」
にゃぁ。
「「「……え?」」」
剣聖所有山荘内。
「……仮に、その、魔女どのがいうような生物が存在したとしたら……それはきっと、猫の姿をとっていることであろうな」
「やけに、自信満々に……。
こんなたとえばなしに根拠なんていらないのでしょうが、一応、お聞きしておきましょうか。
王子、それはまた、いったいなんで、ですか?」
「世界をまたにかけて渡り歩く生物といえば、伝統的に猫に決まっておる」
「ひょっとして……また、前世の、ってやつですか?」
「察しがいいな、ぼっち王。
先ほどの魔女どののはなしによく似た挿話は、前世にもあってな。やはり、箱の中で生死不明なのは猫であった。
あと、数学者が記した著名な童話にも、にやにや笑いだけを残して姿を消す猫が出てくるな。
これは厳密にいうと、世界を渡るわけではないが、冬の世界でたったひとつ、夏に通じている扉を探す猫のはなしもある。
とにかく、余の前世において、その手の物語につきものの生物といえば、どうした加減が決まって猫であった……」
にゃぁ。
「「「「「……え?」」」」」
「……嘘」
「この子……どっから入ってきた?」
「ぼくの目には……にわかには信じられませんが……すうぅっとこの場に現れたように見えましたが……」
「転移魔法の反応は、なかった」
「おい、全裸!
まさかあんたが仕込んだいたずらでは……」
「……そんなわけが、あるか!」
ばっ!
「……わっ!」
「……きゃっ!」
にゃぁ。
「くっ!
逃がすかぁっ!
待て!
興味深い観察対象ぉっ!」
しゅん。
「……塔の魔女が……」
「……消えた」
翌朝。
「……はよーっす」
「ああ、シナクさん。
おはようございます」
「おう。
まだ、レニーだけか?」
「他の人たちは、あの後もかなり遅くまで起きていたそうですから、まだ寝ているのかも知れませんね。
結局、魔女さん、あの後も帰ってこなかったそうですし」
「もともと、ひどく気まぐれな女だからな」
「あの猫のゆくえを、今でも追っているのでしょうか?」
「さあな。
あの女の考えややることに関して、まともな動機を考えはじめたら、何日も眠れなくなるぞ。
理解不能すぎて」
「ははは。
なるほど。シナクさんは、彼女のことをよくおわかりで」
「決して理解できないってことを弁えてるのもわかっているうちなら、そうなんだろうな」
「不可知の知、ですか」
「おれは、教養がないんでな。
そういう難しいいいまわしは、意味がよくわからない」
「おう。
まだ、二人しか起きてないのか……」
「あ、剣聖様、おはようございます」
「おはようございます」
「……ん。
おはよう。
さきほど、魔女が帰ってこないとかいっていたようだが……あれは、挨拶もなしに消えたのか?」
「消えた……といえば、そうかも。
でも、帰ったとかではなくて、消えた猫を追っかけてっただけだぞ、あれ。
猫を捕まえるか飽きるかすれば、帰ってくるんじゃないか?」
「……消えた猫?
なんだ、それは?」
「生きているのか死んでいるのか、半々の存在だそうです」
「そんなはなしをしていたら、それらしき猫がぱっとどこからか沸いてきて……」
「で、興味を持ったあの女が、どこかに消えたその猫を追って、どこかに消えていった」
「それは……なんとまあ、奇特な……。
うちの剣もなにもいってこなかったから、おそらく、害はないのであろうが……」
「ま、どうやって殺したら死ぬのかも定かではないあれのことですから、心配するには及ばないと思いますが……」
しゅん。
「……えらいいわれようだな、抱き枕」
「あ、帰ってきた。
けど……すごい格好なだ、あんた……。
浴衣もぼろぼろだし、髪もぼさぼさだし……」
「あの、猫……。
さんざん、人を引っ張り回してくれた……」
「結局、捕まえられなかったのか?
あんたにも、出来ないことってあったんだな」
「なにをいうか、抱き枕。
わたしなぞ、出来ることよりも出来ないことの方がよっぽど多いぞ」
「……普通の人は、出来ることよりも出来ないことの方がよっぽど多いからな。
改めて断る必要はないぞ」
「それよりも、あの猫だ。
本当に……存在と不在が入り交じっていた」
「……なんじゃ、そりゃ?」
「時も空間も飛び越えて、勝手気ままにいったりきたり……。
おかげさまで、こちらの生体時間で三百八十九年五ヶ月と三日にも渡ってあっちこっちに引きずり回されたあげく……見事、逃げられた」
「……それ、本当?
相変わらず、どっからつっこんでいいのかわからないな」
「ええと……四百年近く、魔女さんが追いかけて……あの猫、それでも捕まらなかったんですか?」
「……捕まえられなかった」
「そう考えると……あの猫、すげぇな。
何者だ?」
「ただの、気まぐれな猫さ。
存在さえ不確定で、時空に制限されずあちこち、好き勝手にさまよい歩くことが出来るというだけの……ただそれだけの、猫だ」