55.まじょのたとえばなし。
剣聖所有山荘内。
「ちょっと、塔の魔女」
「なんだ?」
「あんた、ずっと聞き役に回っていて、自分からはなにもしゃべらないじゃない。
少しは、なにかはなしてみたらどうなの?」
「……姉さん!
あの人には、あまり構わない方が……」
「ん?
わたしにはなせというのか?
はなしてもいいのだが……一般人受けするような面白い話題は、別段、持ってはいないぞ」
「ここには、魔法兵や魔法使いも何人かいる。
多少、専門に流れても、それなりに興味を持つ者はいると思うが……」
「姉さんってば!」
「いや……一般受けしない話題とは……そういう意味ではないのだがな。
まあ、それでもいいというのなら、受けないであろうことを見越した上で、ひとつやってみるか。
今集まっている面子が興味を持ちそうな話題というと……そうさな。
やはり、迷宮に関連するものがいいか。
しかし、今は休養中。
迷宮そのものについて語ってしまうと、仕事のことを思い出させることになる。
だから、少しはなれて……迷宮を取り巻く構造についてはなすことにしよう。
以前、わたしは、あの迷宮は複数の世界をまたいで存在している、という仮説を提出している。この抱き枕にも再三語っているし、この抱き枕から間接的に聞いている者も多いことだろう。
この仮説については、何度かのモンスターの大量発生や、今この場にいる魔法剣士リンナ、元魔王軍兵士のゼグスらの存在によって、ほぼ裏づけが取れていることと思う。
この、迷宮で接している複数の世界というのは……この世界に近似していても時代が異なったり、異なった歴史をたどっていたり、あるいはまったく違っていたりして、集合としての法則性は皆無であるといっていい。
また、一度接して通路が出来てしまえば、半永久的にその通路が保持されるかといえば、決してそんなことはなく……たとえば、ピス族の出身世界との通路は、比較的早い段階で閉ざされたまま、今に至るまで回復してはいない。
こうした世界間の接触や交渉についての法則性は、今のところ見つかってはいない。
あるいは……複数の世界に侵略行為を行っていたという魔王軍は、なんらかの方法でそうした世界間通路を造ったり保持したりする、いわば制御する技術を持っていた可能性もあるが……今となっては、それについても確認する術がない。
ここまでが、現状確認にして前置きになるな。
ここまでで、なにか質問がある者はいるか?
ふむ。
いないか。
なら、先を続けよう。
こうした、重なり合っているのにそうとは感じられない複数の世界というモデルは、思考実験の世界では決して珍しいものではない。
たとえば……生きているのか死んでいるのか、蓋を開けるまでわからない猫の挿話がある。
その、箱の中に閉じこめられた猫は、二分の一の確率で死んでいる。あるいは、生きている。箱の中に、ちょうど半分の確実で生死を左右する毒物とともに閉じこめられているからだ。
その挿話の中では、その猫が生きているにせよ死んでいるにせよ、観測者が実際に箱を開けて確認するまで、生死は確定しないということになっている。その猫は、蓋をあけてみるまでちょうど半分生きて、ちょうど半分死んでいるというんだ。
その箱の中で、死んでいる猫の世界と生きている猫の世界が等分に重なり合っている、というのだな。
もちろん、これはあくまで思考実験ないしは寓話の中だけのはなしだ。
現実には、半分死んで半分生きている猫、などという曖昧な代物が存在しているわけがない。
だが、もしそんな猫が、現実に存在しているとしたら、どうなのだろう?
たとえば……そう。
現実には、そんな猫が存在できるわけはないのだが……あの、なにもかもがいい加減で、一般的な法則性からはずれた迷宮の中でなら……そんな生物も、存在しうるのではないだろうか?」
迷宮内、最高級宿屋、黒樫亭、某客室内浴場。
にゃぁ。
「……猫?
いつの間に……なんでまた、こんなところに……。
い、いや……まさか、これほどまでにきっちりと管理されている場所に……猫が迷い込める隙間というのは、ありえませんよね。
それに……わたくし、ばっちりみていました。
この子が……すぅ、っと、湯気のようにゆらめいて、ここに出現するところを。
幻覚……ですかね?」
にゃあ、にゃあ。
「……幻覚にしては、若干、自己主張が激しいような……。
さて、この子……どうしましょう?」
にゃあ、にゃあ。
「……まずは、髪を洗い流してから、改めて今後の対処法を考えることにしましょう。そうしましょう。
決して、現実逃避ではないですよ?」
剣聖所有山荘内。
「……ふむ。
やはり、反応がよろしくないようだな。
内容が専門的すぎて、面白くないか」
「いや、あんた。
面白いか面白くないかとかいう以前に、だな。
なにがなんだか、さっぱりわからん。
だから、どう反応していいものか、みんな、戸惑っているんだと思う。
生きていて、同時に死んでいる猫?
なんだ、それは?」
「だから、思考実験であり寓話であるといっているだろうが。
面白い、面白くない以前に……局面を限定すれば、そういう存在もありえるというたとえばなしだ。
教訓もない。意味もない。
それにおそらく……面白くもない。
それにだな、抱き枕。
お前さん、今朝、そこの王子様が殺されていた夢をみた、といっていたな。
それが夢ではなく、現実……ここではない、別の世界の現実だとしたら、どうする?」
「どうするも、なにも……別の世界の現実だったら、こっちの世界では現実ではないってことだろ? だったら、こっちの世界のおれは、どうする必要もないんじゃね?
あたふたしたり、犯人を捜したり、後始末をしたりする必要があるのは……あっちの、王子が殺された世界のおれとか、たまたま周辺に居合わせたやつらがするべきことだ。
こっちのおれにとっては、他人事……いや、別世界事、だな」
「実に、クレーバーな回答だな。
まさしく、その通り。それで、正解だ。
だが……こちらの王子様にとっては、他人事ではない」
「あ、当たり前ではないか!
他人事ではなく、本人事だ!
縁起でもない!
余を勝手に殺すな!」
「誰かに殺された世界の王子様と、ここで元気に文句をいっている王子様。
この、二つの世界の王子様が同時に存在しているとすると……王子様という存在は、本当に存在しているのか、否か?
別の世界がありうる……ということは、迷宮を介して、ここにいるみなにとってはすでに自明のこととなっているわけだが……。
ことに……この場にいるリンナなぞは、こっちのリンナはすでにロストしている存在だ。今、ここにいるリンナは厳密にいうのならな、こちらと近似した別世界からの移住者ということになるわけだ。
生きているのに死んでいる、という存在が、ここに、現にいる。
世界が多重、多層なものであるということを前提にするのであれば……存在というものは、決して確としたものなどではなく、あやふやでうつろいやすいものでしかないと……そうは思わんかね?
あるいは、また。
世界が多重、多層であり、迷宮がその諸世界をかりそめにでも繋ぐ機能を持っているとするのならば……迷宮という特殊な環境に適合した生命体というものも、存在しうるのではないだろうか?
そうさな。
平然と自分の存在をあることにしたりないことにしたりして、気まぐれに多くの世界を渡り歩く生物などがいたら……。
その有り様に、とても興味を引かれるとは、思わないかね?」