70.おうじとふみとぎむきょういく。
「ところで、魔法兵の頭、確か……テニヌといったか?
ここで出会ったのも何かの縁。
少々、余の頼みを聞いてはくれぬか?」
「……テニヌではなく、テリスです、王子。
それで、頼みとはなんでしょう?」
「テリスよ、おぬしは魔法を使えるのであるな?」
「魔法を使えなくて、どうして王国軍魔法兵がつとまりましょうか?」
「では、余の書状を王宮に転送してはくれぬか?」
「……軍を抜け出たことの弁明でもするのですか?
それでしたら、お断りいたします。
パスリリ家は軍役により過分な禄を頂戴している家柄、いかな王子の頼みといえど、軍規に反することには魔法を使用したくありません」
「そのような私事ではない。
なに、ちょいと、まとまった金子が欲しくなってな。
余の私財の幾分かを送ってもらう算段を考えていたところなのだ。今さら軍の情報網に頼りわけにもいかぬし、通常の書簡をやりとりするには時間がかかりすぎる」
「王子様の、私財? まとまった金子?
いったい……当地でなにをおはじめになるつもりですか?」
「知りたいか?
義務教育の、テストケースよ。
どれ、よい機会だ。
少々の時間を割いて、余につきあってみるがよい」
「お、おい……なんか、妙な成り行きになってきたな……」
「まさか、わが軍の総司令たる王子様がこんなところにおわすとは、夢想だにせんかった」
「……普通に想像できないだろう、これは」
「それより、王族に対して微塵も腰がひけぬテリス様の胆力よ」
「おお。
あれでこそ、魔法兵の頭領にふさわしい」
「ああ。
これで、パスリリ家の姉上様も復調してくだされば、怖いものなしだ」
「これを見よ!」
「……子たちが……よく見ると、子どもだけでもありませんが……読み書きを、習っているわけですか?」
「ここの冒険者ギルドが、新人冒険者の研修に力を入れておることは、知っておろうな」
「それを、見学に来たところですから」
「見学か。それはいい。
きっと、学ぶところが多いことであろう。
それよりも、だ。
その研修の中では、座学にも、かなりの力を入れておる。座学の教本には、もう目を通したか?」
「いいえ。
これから、子細を改めようかと……」
「そうか。
あれは、なかなか中身が濃いものでな。その分、どうしても難解な言い回しが少なからず含まれてしまう。
そして残念なことに、わが国の臣民、ことに
下層階級のほとんどが、文弱か文盲だ。上級階級とは違い、多くの平民は、子どもの教育に割けるほどの富を得られないままに、生涯を終える。そしてそれが、何代も続く」
「ええと、王子様。
それで、なにか不都合でも?」
「不都合だとも!
大いに、不都合だ!
国の将来にも関わることであるが……今、そんな遠大なはなしをはじめても埒があかん。とりあえず、卑近な話題に絞るとしよう。
このギルドが座学を重視している、ということは、単純な読み書きのみならず、抽象的な思考能力も、冒険者であるためには必要だということを意味する。少なくとも、ギルドは、そう判断している。
ここまでは、いいか?」
「ええ……その座学の内容をまだ詳しく知りませんので、当否までは判断できませんが……状況のみで判断をするのであれば、まさしく、そういうことになるのでしょう」
「ギルドは、座学に使用するための教本は用意している。そして、教本に書かれている内容も詳しく教えている。
しかし、悲しいかな、教本に書かれている文章を読み解けるようにする教育は、行われていない。そこまでは、手が回らないのであろう。
そこで……どうしても、それまで教育に縁のなかった平民などから、取りこぼしがでてくる」
「それで、王子様としてはその取りこぼしをなんとか救済したい、と……」
「さよう。
今まで、手持ちの金子でなんとかやりくりをしてきたのだが、受講希望者は膨れるばかりで、開始して数日で限界に達してしまった。これを、私財を投じてなんとかしたいと思っておる。
なに、単なる慈善事業であるとは思っておらぬぞ。
余の前世の記憶にかけて、国民の知識水準を上げれば数世代で国全体を富ませることができることは、断言ができる。知識は、力なのだ。
ゆくゆくは、どこからか財源を確保して、国民全員に初等教育を義務づけるつもりではあるが、その前のテストケースとして……」
「……これ、をしているわけですか?」
「これ、をしているわけなのだ」
「王子様の私事ではない、ということは理解しました。少なくとも王子様ご自身は、この件においては、私利私欲のために動いているわけではない」
「おお!
わかってくれたか!」
「ですが、お断りいたします。
お忘れのようですので再度、いわせていただきますが……このテリスは王国軍魔法兵の要。
それが、私用で軍を勝手に離れた王子の手助けをしたと知れたら……あっさり処分されてしまうでしょう。
わがパスリリ家は魔法という異能により王家に仕えている家。その屋台骨は、見た目ほど盤石とはいえません。
保身と罵られても結構。
誠に申し訳ありませんが、夢想が混ざった王子様の道楽につきあって身代を潰すつもりはありません」
「それは……ふむ。
いわれてみれば、もっともなことであるな。
此度のこと、余の浅慮であった。
忘れてくれ」
「ただし……今いったように、パスリリ家をはじめとする魔法兵は軒並み断ることでしょうが……その件、別口でどうにかする方策はございます」
「なんと、そのような方法が!」
「なに、単純なことですがね。
むしろ、王子様が今までお気づきにならないのが不思議なくらいです。
このギルドには、魔法使いも所属しています。ギルドに仲介してもらって、王子様の文を王宮に転送してもらえばいいのですよ。一クエストとして、ギルドに、そういう依頼をたててもらうんです。
これなら、どこも角が立ちませんし、どこからも文句は来ないはずです」
「おお!
いわれてみれば!」
「これが……ギルドが作った座学用の教本ですか……。
なるほど、想定外に……」
「複雑な内容であろう。
これほどの内容をすんなり理解できるのは、この世界ではかなりの知識階級に限られるのではないか?」
「士官学校の教育よりは、質が高そうですね。
でも……こういってはなんですが、冒険者になるのに、ここまで高度な内容が必要なんですか?」
「他の場所ならいざ知らず、ここは迷宮であるからな。
その地理的な要件により、迷宮内で同時に参加できる人数は限られている。よくて、数名だ」
「はい。
午前中に、彼らの仕事ぶりを拝見させていただいたので、そのことについては……」
「迷宮内では、そのわずかに数名のパーティで、すべての仕事を行わなければならないのだ。
大人数の部隊でなら、分業も可能なこともすべて、わずか数名でこなさなければならない。
指揮官や参謀の仕事であっても、だ。
上官の命令に従ってばたばた死んでいけばいい消耗品の兵士なぞ、ギルドは欲していない」
「ギルドが欲しているのは……一人一人、自分で判断ができる兵士……いいえ、冒険者である、と……」
「そう。
そのためには、この世界としてはかなり高度なものになる教育も、必須となる。
ギルドが、なんのためにここまで必死になって冒険者を育てようとしているのか、理解できるか?
無駄に、死なせないためだ。
長くいきれば、それだけ経験値がたまり、優秀な冒険者となる。優秀な冒険者が増えれば、迷宮の攻略もたやすくなる。
そこまで長期的な視野を、このギルドは持っている。
これも、この世界の平均的な軍隊と、大きく異なる点であるな」