二つの手紙
緩やかに伸びる二つの影は、それは確かに晩秋を思わせた。鋭角に注ぐ橙の陽射しに目を奪われた綾子が思わず口にしたのだ。11月みたいね、と。しかし今は夏の盛りの8月の初めだ。夕焼けなどは特別なものでないにも関わらず、綾子がそう口にしただけで、セミの鳴き声や湿って肌に張り付いたシャツが、今この時に全くふさわしくないもののような気がしてしまうことに夏樹は驚いた。二人はわずかに影を揺らしながら歩く。つかず離れず、互いに十分な距離を測りながら。
「あ、そうだ」
ぽつねんと、夏樹が言った。
「……ん」
わずかに遅れて綾子が頷く。夏樹は肩に提げていた通学鞄を粗い舗装の道の上に投げ出すと、しゃがんで中を乱暴にかき混ぜ始めた。もともと真面目な生徒ではない夏樹の鞄の中には、普段から漫画本や小型の携帯ゲーム機はもちろん、時には10種類以上の駄菓子が入っていることもある。けれど今日の夏樹の鞄の中身は少しだけ違った。はち切れんばかりに膨らんだ外見や、学校に持ち込んではいけないものが乱雑に詰め込まれているのはいつもと変わりない。しかし今日は違う。特別なものが入っているのだ。
「星野くん?」
ふと耳元で聞こえた心地よいつぶやきに夏樹の心は躍る。首筋をくすぐった綾子の吐息の温かさで彼女の唇がすぐそばにあることが嫌が応にでも分かってしまって、夏樹の鞄を漁る手はますます乱暴になる。
「ちょ、ちょっと待ってて……」
後ろに立って鞄の中身を見ようとする綾子の視線をどうにか遮りながら、夏樹は昨晩したためたはずの手紙を探す。確かに昨日の夜、仏壇の前で二度手のひらを打ってお願いしてから鞄の中に入れたのだ。便せんなど当然夏樹は持っていなかったので、姉の冬子に恥を忍んで頼んだ。何度も書き直してはそれらを無駄にして、2時間かけて完成した手紙はたった5行だけの短いものだった。けれど夏樹は満足していた。普段の倍、力を込めて丁寧に書き留めたその言葉たちは読み返せば読み返すほどに、大好きな綾子の心に沁み渡っていくであろうという自信があった。あまりに長い時間眺めていた自分が恥ずかしくなって、乱暴に鞄に入れたのはいいものの、やはり皺がつかないようにときちんとノートとノートの隙間に挟んで丁寧にしまい直したのだ。その手紙が鞄のどこを探しても見つからない。
「ね、どうしたの?」
綾子はとうとう夏樹の隣に同じようにして座り込んでしまった。きちんとスカートを折りたたんで、両手は行儀よく両膝の下あたりに添えられている。夏樹は綾子のそんな何気ない仕草に、ふわりと漂った甘い匂いに胸が熱くなるのを感じる。これ以上は間が持たない、と夏樹は思った。それで、鞄に突っ込んでいた右手にあった感触を確かめてから、勢いよくそれを引き抜いて綾子の目の前に差し出した。
「これ、食べるか?」
ひとつ十円で買える、ブドウ味のキャンディーだった。いつから鞄の中に入っていたのかは、持ち主の夏樹でさえも分からない。小さな包装紙の捩れ具合から、中身は溶けているかもしれない。とっさにそんなものを綾子の目の前に差し出してしまったことに、夏樹は絶望といってもいいほどのショックを受けた。
「飴玉?ありがとう」
だから綾子がわずかの曇りもない笑顔を自分に向けてそれを受け取ったとき、夏樹はほとんど信じられないという思いでいっぱいだった。粗暴で清潔感の欠片もない自分とは違い、綾子はどんな時でも物腰が柔らかく、そして清廉だ。良家の一人娘という噂も聞いたことがある。両親が共働きで、家賃が七万円の狭苦しいアパートに家族5人で住んでいる自分とは住む世界が全く違う。夏樹はこれまで綾子のような大人しい女の子に恋をしたことが一度もなかった。夏樹が好きになるのは、大抵自分と気の合う男勝りな女の子で、綾子ほど口数の少ない子は一人だっていなかった。もちろんこんなにいい匂いのする子も、こんなに真っ黒なスカートがふさわしいと感じる子も、傍にいてこんなに強烈に胸を締め付けられる子も一人だっていなかった。
「ちょっと溶けてるけど、おいしいね」
またしても陰りのない、さながら橙の太陽に負けないほどの笑顔でそう言った綾子に、夏樹の心は急速に落ち着いていった。
「そっか。よかった」
おれはバカだな、と夏樹は思う。何を焦っていたんだ、みっともない、とも。手紙などもう一度書き直せばいいではないか。長い夏休みが訪れる間、今から1週間の間に渡して、ゆっくりと綾子にその答えを考えてもらえばいい。夏樹は晴れ晴れとした気持ちで鞄を持ち上げて埃を払った。綾子も夏樹に倣って立ち上がる。その右の頬にはブドウ味のキャンディーのふくらみが見て取れ、夏樹を幸福な気持ちにさせた。
緩やかに伸びる二つの影は、先ほどと比べてもうずいぶんと背が伸びたように見える。喧噪の主役はアブラゼミからひぐらしへと変わり、道端や公園で遊ぶ児童たちの声も聞こえなくなった。あれから二人の間に特別な会話はなく、それでも細く伸びた影は確かに近づいていた。夏樹はもうすっかり立ち直り、これからの1週間で手紙を渡すのに適した日にちや場所を考えながら歩いていた。それから、伝えたい言葉や思いを、うまくいけばあわよくばそのままキスだってできるかも知れないと考え、自然に緩む頬を時折ぴしゃりと叩いては綾子を驚かせるのだった。しかし、と夏樹は考える。そもそも今日はそれらの条件が一つのケチもつかずに揃っていた絶好の日だったのだ。綾子が掃除当番なのを見越して、数学の教師に無理を言い、追試を今日にずらしてもらった。掃除当番の班に綾子と特別仲のいい子がいないことも、帰り道が同じ子がいないこともリサーチ済みだった。すると自然に帰り道が同じになることも、その道のりがずいぶんと長いということも夏樹の計算通りだった。それだけの算段が整っていながら、なぜ手紙を無くすというへまをしてしまったのか。夏樹は再び自らを呪った。もしかしたらこのままどんなに努力を重ねようとも自分と綾子は結ばれないのでは、神の悪趣味な嫌がらせによって成就への道が閉ざされているのではないか、などと真剣に悩みだした夏樹の手に、そっと暖かく柔らかいものが触れた。考え事に没頭しふらふらと蛇行しながら歩く夏樹の右手が、隣を歩く綾子の左手に触れたのだ。夏樹と、それから綾子は同時に息をのんだ。けれども自らのそれがあまりに大きく響いたせいで、相手もまた同じように呼吸を止めたのだ、ということには気がつかなかった。
「ご、ごめん」
「う、ううん」
先に謝って、それからうつむいた夏樹の顔には再び希望がみなぎっていた。神様さっきはごめんなさい、嬉しいアクシデントをありがとう、夏樹は心の中で叫んだ。明日だ、と夏樹は思った。準備期間なんかいらない、無理にでも明日の放課後に手紙を渡して思いを伝えよう、と。
長かった帰路ももうじき終わりにさしかかろうとしている。100メートルほど先に見える文房具屋の前の交差点で、夏樹と綾子は分かれることになる。夏樹は別れの言葉を考えていた。さよなら、ばいばい、じゃあな。どれも適切でないように思える。また、明日。結局、そんな当たり障りのない言葉を万感の意を込めて言うこと以外に夏樹は思いつかなかった。
二人は立ち止まる。くたびれた看板をぶら下げた文房具屋の前で。夏樹と綾子は名残を惜しむように向かい合う。目を合わせられない夏樹に対して、綾子は決意を込めた瞳で、あるいはこぼれおちそうな悲しみを湛えた瞳で夏樹を見つめていた。
「星野くん、あのね……」
綾子の震える声に夏樹ははっとして顔をあげた。それから潤んだ綾子の瞳を見据える。
「これ、読んで」
制服のポケットから綾子が取り出したのは、一通の便せんだった。女の子らしい、けれども可愛すぎず派手すぎないブルーの便せん。夏樹はそれに見覚えがあった。昨晩、姉の冬子が自分のためにと選んでくれた便せんとまさしく同じものだったからである。表にも裏にも差出人やあて先などの表記は一切ない。それもまた、夏樹が書いたものと同じだった。震える手で差し出されたそれを夏樹は受け取る。四つ折りにされただけの色気のないそれを、夏樹はゆっくりと開いた。
『あなたのことが好きです。ずっと言いたくて言えなかったけれど、そうなんです。直接言えそうにないからこうして書きました。返事は今すぐでなくてもかまいません。でもあなたを好きだということだけは分かってください』
誰が誰に宛てた手紙なのかは、読んだだけではわからない。世界中で、夏樹以外は。なぜこの手紙を綾子が持っているのか。手紙のことは親友にも誰にも話していない。差出人だって書いてないはずなのに、なぜこの手紙を綾子は自分に渡すのか。そして何より、なぜ綾子は眼の前で涙を流しているのか。
「この手紙ね……、私が書いたんじゃないの」
知っている、と夏樹は思う。誰よりも自分がよくそれを知っている。
「下駄箱に落ちてたのを拾って見ちゃったの。良くないって思ったんだけど……」
綾子はとうとう嗚咽を漏らしながら盛大に涙を流し始めてしまった。泣きたいのは夏樹も同じだった。
「……わたしね、……明日引っ越すの」
聞き違いであると思った。えずきながら途切れ途切れに話す綾子のその言葉を、夏樹は信じまいと誓った。
「……それでね、星野くんに気持ちを伝えなきゃと思って」
「……悪いってわかってたけど、言葉では言えなくって」
「……だから誰かが書いたこの手紙を使おうって、そう思って」
「……今日で、最後だから……」
夏樹はもう一度自らが書いた手紙に目を通した。
『あなたのことが好きです。ずっと言いたくて言えなかったけれど、そうなんです。直接言えそうにないからこうして書きました。返事は今すぐでなくてもかまいません。でもあなたを好きだということだけは分かってください。』
「書いたのは私じゃないけど、書いてあることは一つも間違ってないんだよ」
綾子は溢れる涙と鼻水を拭うことをやめて、夏樹を見た。ぐしゃぐしゃになったその顔で、綾子は小さくほほ笑みを作った。その微笑みを見た瞬間、夏樹は綾子を抱きしめたい衝動に駆られた。それはどうしようもなく強い慟哭だった。けれども夏樹は動けなかった。綾子の気持ちに気付けなかった自分自身を恥じ、そして成就することのない相愛の念の行きつく先を見つけることが出来ずにいた。6時のサイレンが鳴った。夏樹は拳を強く握って俯くと、地面を蹴って走り出した。来た道でも、綾子の家へと続く道でも、我が家へと続く道でもない、どこへと続くのか知らない道を選んだ。肺が潰れるかと思うくらいに疾走した。涙は拭わなかった。綾子の最後の笑顔が忘れられない。どうしてあの時、なんだっていい、一言声をかけてやれなかったのか。どうして衝動のままに綾子を抱きしめてやれなかったのか。気がつくと民家でさえまばらな、見知らぬ土地にいた。こんなときにでも、元来た道をたどるくらいはできた。長い時間をかけて文房具屋の前まで戻ってくると、夏樹の期待はもちろん裏切られ、そこにはもう綾子の姿はなかった。
「両親の急な転勤で引っ越すことになりました」
明くる日の朝、ホームルームで黒板の前に立った綾子は、昨日のあの姿が嘘のように、いつも通りの凛とした少女だった。クラスメイトが綾子に駆け寄り次々に言葉を掛けていく中で、夏樹は一人ずっと俯いたままだった。一度でも綾子と視線がぶつかることを恐れた。不甲斐ないと思われたに決まっている、もしかしたら嫌われたかもしれない。いや、きっともうあんな風に自分を見て微笑んではくれないだろうと思った。二度とあの笑顔を見ることはできないだろうと。その後ホームルームは少しの騒ぎを経てあっけないほどすぐに終わり、いつも通りの一日が始まった。
陰鬱な一日だった。友達の気遣いのすべてが鬱陶しかった。6時間目を終えると、夏樹は早々に教室を後にした。開け放された学校の玄関は橙に染まっていた。11月みたいだな、と夏樹は思った。靴箱を開けてスニーカーを取り出すと、片方に白い便せんが折りたたまれて入れてあった。
『昨日のお返事、気が向いたら聞かせて下さい。田上綾子』
その裏側には、詳細に記された住所と郵便番号、それから電話番号が控えめな大きさで書かれていた。
今度こそは、と夏樹は思う。当然そう思う。今度こそは差出人と宛名をきちんと書いた手紙を送ろう、と。それからあの手紙のことを伝えようか、と迷う。いや、やめとこう。恥ずかしいし、何よりあの手紙は自分だけのものではないのだから。夏樹は昨日のこの時間に二人で歩いた道を辿る。影は一つ減ってしまったけれど、それでも右のポケットに滑らせた綾子からの手紙がある。夏樹はそれを取り出して右手でつまんで歩きだした。ほら、これで二人分だ、と夏樹は思った。綾子の分身である小さな手紙の影と、夏樹の影との間の距離は昨日よりもっと近づいていた。