姫騎士の肉欲
森の誓い、肉の誘惑
登場人物
エリシア・シルヴァーリーフ - エルフ族の姫にして聖騎士団長。25歳(エルフ換算で若年)。銀髪碧眼、清廉潔白な性格で、生命の尊厳を何より重んじる。千年続くヴィーガンの誓いを守り続ける森の守護者。
グロムガル - オーク族の戦士長。見た目は粗野だが料理の腕は一流。戦場で捕虜となったエルフ姫を監視する役目を負う。
第一章:捕囚
エリシアが目を覚ましたとき、手首には粗末な鉄の枷がはめられていた。
戦いは突然だった。オーク軍の奇襲により、エルフの前線基地は陥落。仲間を逃がすために殿を務めた彼女は、数の暴力の前に膝をついた。
「目が覚めたか、エルフの姫」
低く野太い声が響く。焚き火の向こうに、巨大な影が座っていた。グロムガルだ。彼は何かを串に刺して火であぶっている。
「私を殺さないのか」エリシアは毅然と問うた。
「お前は人質だ。殺すのは交渉が決裂してからでも遅くない」
グロムガルは無造作に答え、串を火から外した。途端、香ばしい匂いが牢屋じゅうに広がる。
それは——肉だった。
エリシアは顔をそむけた。エルフ族は千年前、森の精霊と誓約を交わして以来、一切の動物性食品を口にしない。それは信仰であり、誇りであり、彼女のアイデンティティそのものだった。
「うまそうだろう?」グロムガルが挑発するように言う。「これは山羊の肉だ。ハーブとスパイスで三日間漬け込んだ」
「黙れ」
だが彼は止まらない。豪快に肉にかぶりつき、満足そうに呻く。
「ああ、たまらん。肉汁が口の中で弾ける。この旨味、この食感——」
エリシアは目を閉じ、精神統一を図った。だが、その香りは容赦なく鼻腔をくすぐる。
初めて感じる、奇妙な感覚。
それは——食欲だった。
第二章:崩れゆく矜持
翌日から、グロムガルの「拷問」が始まった。
朝は燻製ベーコンの香りで目覚めさせられる。昼は鶏肉のローストが目の前で切り分けられる。夜は牛肉のシチューがことこと煮込まれる。
「やめろ」とエリシアは訴えた。「これは拷問だ」
「拷問?」グロムガルは大げさに驚いてみせた。「俺はただ、自分の飯を食ってるだけだ。お前には野菜と果物を用意してある」
確かに、彼女の前には新鮮なサラダとベリーの盛り合わせが置かれている。栄養的には十分だ。
だが。
エリシアの視線は、グロムガルが豪快に頬張る肉料理に釘付けになっていた。
「今夜は特別だぞ」と彼は言った。「猪のリブロースト。森で取れた蜂蜜とバターでグレーズをかけた。皮はパリパリ、中はジューシー。骨からほろりと肉が離れる——」
「やめてくれ」
エリシアの声が震えた。それは怒りではなく、別の何かだった。
グロムガルはナイフで肉を切り分ける。湯気が立ち上る。光沢のある肉汁が滴る。
彼女の喉が、ごくりと鳴った。
その音を聞いて、グロムガルがにやりと笑う。
「欲しいか?」
「い、いらない」
「嘘をつくな。お前の体は正直だ」
エリシアは唇を噛んだ。彼の言う通りだった。体が——本能が——あの料理を求めていた。
「一口でいい。試してみろ」
「できない。私には誓いがある」
「誓いか」グロムガルは鼻で笑った。「お前の同胞は今頃、お前を見捨てて森の奥で安全に暮らしてるぞ。その誓いに、何の意味がある?」
「それでも——」
だが彼女の言葉は、自分でも頼りなく聞こえた。
第三章:最初の一口
三週間が経った。
エリシアの抵抗は、日に日に弱くなっていった。夢の中でさえ、肉の香りに囚われる。目を覚ますと、よだれを垂らしている自分に気づいて愕然とする。
「限界だな」
ある晩、グロムガルが言った。
「違う。私は——」
「お前はもう三日、まともに食事を取っていない。このままでは死ぬぞ」
確かに、体重は明らかに減っていた。力も入らない。だが、それでも——
「今夜の料理は特別だ」
グロムガルは大きな皿を彼女の前に置いた。
そこには、完璧に調理された鹿肉のステーキがあった。表面は美しく焼き色がつき、中はロゼ色。付け合わせには色とりどりの焼き野菜。ソースは赤ワインとエシャロットの香り高いもの。
「これは——」
「俺の最高傑作だ」グロムガルは言った。「料理人としての誇りをかけて作った。お前のために」
「なぜ」
「お前が死んだら、人質の価値がないからな」
それは明らかに嘘だった。彼の目には、別の感情があった。
エリシアは震える手をナイフとフォークに伸ばした。
いけない。これを食べたら、全てが終わる。千年の誓いが、私の誇りが——
だが体が勝手に動く。フォークが肉を刺す。ナイフが切る。あまりの柔らかさに、驚くほど簡単に切れた。
口に運ぶ。
その瞬間——
世界が変わった。
口の中で肉がとろける。旨味が爆発する。肉汁が舌を満たす。これまで知らなかった快楽が、体中を駆け巡る。
「あ——」
思わず声が漏れた。
涙が溢れた。それは罪悪感からか、それとも至福からか、自分でも分からない。
「どうだ?」
「美味しい」
エリシアは泣きながら答えた。
「美味しい——なぜこんなに美味しいの」
そして彼女は、貪るように食べ続けた。
第四章:堕ちた姫騎士
翌朝、エリシアは新しい自分として目覚めた。
千年の誓いは破られた。聖なる姫騎士は堕ちた。
だが不思議なことに、後悔はなかった。
「おはよう」グロムガルが声をかける。「今朝は何が食べたい?」
「あの——昨日のような肉を」
彼女は恥ずかしそうに答えた。
グロムガルは満足そうに笑った。
「いいだろう。お前のために、最高の朝食を作ってやる」
それから毎日、エリシアはグロムガルの料理を楽しみにするようになった。ベーコンエッグ、ソーセージ、ハム、鶏の唐揚げ、牛肉のカレー——これまで知らなかった美食の世界が広がっていた。
「なぜ料理が得意なんだ?」ある日、彼女は尋ねた。
「母親が料理人だった」グロムガルは答えた。「戦士になる前は、俺も厨房で働いていた。だが戦争が始まって——」
彼は言葉を切った。
「お前のような優しいエルフもいるのにな」
エリシアは驚いた。オークが「優しい」などという言葉を使うとは。
「戦争が終わったら」と彼女は言った。「私にもっと料理を教えてくれないか」
グロムガルは驚いたように彼女を見つめた。
「いいのか? エルフの姫が、オークに料理を習うなど」
「もう私は——」エリシアは微笑んだ。「ただの、肉好きの女だから」
二人は笑い合った。
やがて戦争は終わり、エリシアは解放された。だが彼女は森には帰らず、オークの村に残った。
そこで彼女は、グロムガルとともに小さな食堂を開いた。
エルフとオークが協力して作る料理は評判を呼び、やがて両種族の架け橋となった。
肉の誘惑に負けたエルフの姫は、新しい人生を手に入れたのだった。
エピローグ
「グロムガル、今日の特別メニューは?」
エリシアが厨房に顔を出す。彼女は今やこの食堂の共同経営者だ。
「豚の角煮だ。お前の好物だろう?」
「ああ、最高」
彼女は幸せそうに笑った。
かつての誓いを思い出すこともある。だが後悔はしていない。
大切なのは、盲目的な信仰ではなく、自分で選び取った人生だと気づいたから。
「食べ物は人を繋ぐ」
それが、彼女の新しい信条だった。
そして今夜も、エルフとオークが同じテーブルを囲み、同じ料理を楽しむ。
美味しい肉を囲んで。
〈終〉




