月夜の晩に(セメレ視点)
ケンジ様との会話を終えて、私は自らの寝室へと戻りました。けれど、部屋の照明は消したままに、私は窓の側で椅子に座ります。
窓から見上げる夜空。そこに浮かぶ月は、ケンジ様と見た月と同じ物。そう思うと、とても胸がドキドキとするのです。
「今も、眺めているのですか……?」
私の寝室は、ケンジ様とは逆の角部屋。部屋は少々離れているけど、見上げる景色はきっと同じ。ケンジ様も見上げていれば良いなと、私は自然と思ってしまうのです。
そして、締め付けられる胸の痛みに、私は自らの体を抱き締めます。
「三十年の変わらぬ愛……。何と羨ましい……」
ケンジ様はこの先も、亡くなられた奥様を愛し続けるでしょう。結婚してイノが義理の娘となっても、亡くしたお子さんを忘れる事は無いのでしょう。
その事を嫌だとは思いません。愛情深いケンジ様に、私も同じく愛されたい。けれどその為に、愛する人を忘れろとは言えるはずが無いのです。
――ただ、私は羨ましいのです……。
きっとこの先も、私はケンジ様の一番には成れない。長く共に生きて行けば、奥様と同じく愛しては頂けるでしょう。けれど、一生掛かっても亡くなられた奥様を超える事は無い。
十七歳まで王女として王宮で暮らし、王族として相応しい振る舞いを続けていました。人々の上に立つ者として、誰よりも上であり続ける努力をして来ました。
そんな私が、決して勝てない相手に挑まなければならない。その事に絶望は無いけれど、皮肉な物だと思います。きっと、私の周囲に居た友人の方々は、こんな気持ちで私の側に居たのでしょうから。
「けれど、このドキドキは……。決して不快ではありません……」
ケンジ様を想って高鳴る鼓動。勝てないライバルに挑む緊張感。それらは不思議と、私にかつてない闘志を与えてくれるのです。
何かに挑戦出来る機会。その何と尊い事か。そんな物はとうの昔に、私が諦めた可能性だと言うのに……。
何せヘラ様の呪いで、私には未来がありませんでした。いつまでも旅を続けられるはずも無く、ヘラ様の怒りを収める為に旅を続けていただけなのです。
それは死地を求める旅でした。ただ、苦しみの果てに死ぬ事で、イノや国に被害を及ばない様にするための刑罰です。
途中で野垂れ死んでも構わない。下手に私が幸せを感じ、ヘラ様の怒りを再燃させてはいけない。それが旅の目的だったのです。
自害すれば楽をしたと、ヘラ様が怒り狂うかもしれない。そういう可能性を少しでも減らし、最後にイノをアガウエとライオスに託す。それだけが私のゴールでした。
それだと言うのにアスク様は、私にこっそりと教えてくれたのです……。
『ここは太陽神――アポロン様の聖地。オリュンポスの神々の中で、暗黙の了解となっている秘密の場所なんだ。この場所では何があっても、決して他の神々は干渉してはいけない。例え君が幸せになっても、ヘラ様だって目を瞑るしかないんだよ?』
そんな場所が存在する等、夢にも思っていませんでした。けれど、イノが死の淵を彷徨い、私の精神も既に限界だったのです。私は藁にも縋る思いで、その話を信じるしかなかったのです。
そして、この屋敷で二日が経ち、流石に私も確信しました。同じ場所に一日以上居ても衰弱死していない。その事実こそが、アスク様の言葉が真実であった証明なのだから。
私は奇跡的な幸運により、ヘラ様の呪いから逃れる事が出来たのです。この屋敷から離れられない事なんて、何の制約にもなりません。苦しいだけの旅を続ける事に比べれば……。
ただ、イノを巻き込む事は、少しばかり悩みました。娘をこの屋敷に縛り続ける事が、本当に彼女の為になるのだろうかと……。
――けれど、私はすぐに決断しました。
王女であった頃、決して私は幸せでは無かった。私が死んで国に戻ろうと、イノは見知らぬ場所で親族の道具にされるだけ。決してあの場所で、幸せに生きる事なんて出来ないでしょう。
ならば、この屋敷で生き続ける方がよほど良い。あの浮世離れした優しい御方の、娘として生きて行く方がよほど幸せなはずです。
私はそう考えて、苦渋の決断をしたのです。私は国を裏切る事になり、アガウエとライオスも国へと戻れなくなった。それでも二人は付いて来てくれる。そう信じての決断だったのに……。
「私の一生一代の決意……。あれは何だったのでしょう……?」
私は両手で顔を覆い、長い溜息を吐きます。私の決死の覚悟に何の意味も無かったと、この二日間で嫌と言う程に思い知りました。
王宮並みに整った環境。食事に困る事無く、キッチン所かシャワー室まで完備。それにアステリオス様の警護まであり、屋敷の警備も万全なのです。
更にはケンジ様がお茶を淹れる様に、簡単に治癒のポーションを作ってしまう。ケガや病気で苦しむ心配も無く、下手をしたら王族よりも良い環境では無いでしょうか?
そして、極めつけがその対価です。私とケンジ様の婚約は、私にとって何の支払いにもならない。むしろ、更にご褒美を頂いた様なものです。
魔法使いであるケンジ様に対して、王女である事を捨てた私。その命の価値が、余りにも釣り合っていないのですから。
そうだと言うのに、とても紳士的に、とても丁重に私に接して下さる。こんな夢物語は吟遊詩人だって歌いはしない。非現実過ぎて夢に浸る事すら出来ません……。
「……それでも、良いのですよね? ケンジ様、貴方様を信じて……」
全てが私の都合の良い夢に思える。けれど、ケンジ様の悩みを聞いて、これが夢では無いのだと目が覚めました。
私は夢見る乙女のままではいけない。ケンジ様に相応しい妻となるべく、相応の努力をしなければならないのです。
一度は諦めた自身の幸せ。それを今度は、自分の努力で勝ちとろうと思います。ただ与えられるのを待つのではなく、ライバルである亡くなられた奥様に並ぶ為に……。
「ふふっ、負ける気はありません……。例え、一生勝てないとしても……」
私は窓から夜空を眺める。あの優しく輝く月が、私とケンジ様を繋いでくれている。そんな夢を見ながら、私はいつまでも眺め続けるのでした。




