血中毒―依存
私はコンクリートの階段を上がっていた。
硬質の靴音が壁に哀しく反響する。
目的の階にある目的の部屋に着くまで、終始奴の事が頭を過ぎっていた。
―彼奴を、と言うよりは、彼奴の血を求めているのだと思う。
空腹感が軽くながら有るのだから、やはりそれは事実だ。
そして彼奴も同様に空腹を感じている筈だ。
一体、どうする?
途方に暮れて私の所へ泣きつくか?
つまらぬ強情を張って元同胞を喰い殺すか?
どんなことが有ろうとも、良い結果に終わりはしない。
―人とは同じ空気を吸えないのが我々だ。
必ず痛みを伴って、現実を告知されるだろう。
―それでいい。
それで、私の下に跪くのなら。
心と事実が、僅かでも私に傾くのなら。
―そんな虚しい事でだって、構わない。
階段を登り切って、短い通路から達した角を曲がる。
その向こうにある通路の突き当たりに、アルミ製らしきドアがある。
ドアの片端にいる警備の者と目が合った。
あからさまに、嫌な顔をされる。
私は構わず歩いた。
「―お待ちください」
ドアノブに手を掛けた所で、語勢強く止められた。
髪色は濃い栗色。瞳は色素が抜けた様な、半端な茶色だった。
「―何だ」
ヴァンパイアとしてはまだ半人前と言える。
恐らくは主人に申し付けられて雑用、といった所だろう。
「特に申し上げることはありません。…―が、」
彼の眼光が鋭くなった。
「…―貴方の事を、我々は歓迎しないでしょう」
そんな事は解っている。
言葉を交わす価値など無いだろう。
「―何故ですか」
私はただ正面だけを見詰めていた。
「何故―我々から外れて一度は争った貴方が、今更、此処へ赴いたのですか」
あの頃の私は忠誠心に従い、戦っただけだ。
そんな事より…―御前は、主人の奴隷だろうが
私に意見するのか
「お前と言い争うつもりは無い」
苛立ちを呑み込んで、ドアの向こうに向かう。
一枚扉を隔てた向こう側では、人の気配で賑わっているのが聞こえる。
私は、ドアを開けた。
キィ―…、と、か細い音で金具が鳴く。
一瞬にして、話し声が消えた。
沸騰した湯に水を差したように。
訪れる静寂と突き刺さる視線。
その表情には困惑と嫌悪が伺える。…中には私を知らない者も居るようだが。
―耳に馴染みのある声が、その張り詰めた空気を引き裂いた。
「―お前、自分から来たのか!?」
そう言って一人で爆笑する。
その場は小さくざわめいた。
…なんとも、いたたまれない。
私は彼の側へと歩み寄る。彼が連れていた下僕の少年が、座っていた椅子を譲ったが、仕草で断った。
「…あんなに嫌がってたのに何で来たんだよ!?どんな心境の変化だ?」
ざわめきは話し声に変わり、段々とまた会話が満ちてくる。
どんなに贔屓に聞いても、嬉しい内容ではない様だが…。
「…笑うなよ」
今、来なければ良かったと少し悔やんでいる。
腹が減ったから気分転換に来た。と、説明した。
「―お前はその辺で人を狩ってるんじゃ無かったのか」
嫌みったらしく言われる。
「…いいや」
断固として否定しよう。
「少なくとも今は違うぞ」
つい顔がにやけてしまう。
「手下を一人作ったんだ」
もう野蛮だなどとは言わせんぞ。
―一昨日までの私のように下僕をキープせず、人を狩る方だけに頼っている者達は『野蛮だ』と批判の対象にされる。
私が嫌われ者だった一因だ。
「…ホントかよ!うわ〜、誰だれ!?」
『一応友人』はせわしなく辺りを見回す。
「連れてきていない。家族の所だ」
「…?、何だ?直系か?」
「元人間。」
さーっと
面白いくらい速やかに、友人の血の気が引いた。
「…そそそそ…それって…!」
疲れるので背後の壁にもたれ掛かる。
「やばい!!ヤバいって!!絶対やばい!!」
「…何だうるさい奴だな」
「のんびりしてる場合か!!連れ戻しに行け!!即刻!!大至急!!」
「心配いらん。じきに帰ってくる」
「そういう事じゃなくてさあ!!」
本当に、煩い奴だ。
「―その相棒、家族襲っちゃうぞ!?」
そんな事
「―好きにすればいいだろう。私は知らん」
「はぁ…!?」
呆れたような声だった。
「…どうでも良い訳?お前の相棒であり後輩であり、恋人であり、人生の伴侶なんだぜ? …じゃあ、何で仲間にしたんだよ」
―それは―
「…通りすがりに襲ったら、たまたま血の味が好みに合っていただけの事だ」
彼に惚れて仕舞ったから
「この味を使い捨てて仕舞うのは余りに勿体無い」
彼が幼い頃から
「そう思っただけだ」
あの瞬間から
「それ以外には何の意味も理由も無い」
恋しくて恋しくて、苦しくて狂おしくて、愛おしくて―
「―好み…、ねぇ…」
観ていたのは私だけで
「それ聞いたらソイツ泣くんじゃねぇの?」
ずっと、その首筋に取り付かれていた
「…彼奴は私が嫌いらしいぞ」
その気の強そうな瞳に、憧れていて
「…だから…何とも思わんだろう」
いつも隣に居る顔の似た弟を邪魔だと思っていた
私だけがひたすらに
本当に馬鹿の様に
飽きもせずに、昼間の世界にお前を捜した
―所詮、其れは…叶ってはいけない憧れだった
叶ってはいけなかったのに
―数人の不良に絡まれていたあの時、
夜明けを待つかのように、ただ突っ立っていたお前を見たとき
私は彼を助けようと思っていた
でも―不良達の血を飲み干した時には、既に
『我慢』という概念が、頭から消え去っていた
欲望に忠実なただの吸血鬼に成り下がっていた
だから欲望の赴くまま、長年欲しかった物に手を伸ばし
力で支配した
だから―
「そもそも…何故、私が下僕如きに神経を使わなければいけないのだ?」
精一杯、大切にしてやるのだ
あの時の間違いの埋め合わせ
…それでもいい
愛しいお前よ
一体何時になったら
私の下に、帰って来るのだ?
私はこんなにも待っているのに
心も身体もお前を欲しているのに
―だから、
―見て見ぬ振りなんてしていないで、さっさと舞い戻ってこい。
私はお前を待ち望んでいるから。
―だから、帰ってこい
―お前の為にも―
「……―っ…!」
心臓が不整脈を繰り返す。
息が詰まり、嫌な汗が滲み出す。
―禁断症状が出始めた。
人間にとっての麻薬や酒や煙草と一緒だ。
私達にとっての血液には精神、身体共に依存性があり、欠乏した場合は禁断症状が出てくる。
それは人に近ければ近いほど弱く、ヴァンパイアとして強ければ強いほど、依存度も高くなる。
私はこの場では恐らく一番上級だろう。
「…―おい、大丈夫か?」
友達の声が側で心配した。
「……―ぃ、じょぶ…だ」
…こんな姿見られたくない。
何処の誰にも
「……心配、いらん…」
―恥だ。
必死に息を整えて、心臓を抑え付ける。
ごくり、と苦い唾を呑み込んで、冷静を取り戻そうとする。
「…ぇっと……あの…、……ど、どうぞ…」
譲られた席に今度は腰掛ける。
古びた机に突っ伏した。
「…お前、いつから飲んでないんだ」
「……そう、長くはない…。…5時間……位か…或は…もっと長いか…」
「…―それでも、そんなところか…」
やたらに早くこうなったのは、精神面が時期を早めたからだと思う。
―怪我を負った事を思い出すと、急に痛くなるのと似たような物だろう。
「…やばいよお前。…だって―、」
何かに、感付いた様に、
―そこまで言って、急に彼は席を立った。
「…――」
私も異変に気付く。
―ッ、ヵッ…カッ…カツ…カツ、カツ
近付く足音。
「……ハイヒールだね」
微かに漂ってくるのは同胞のにおいでは無い。
―しかし、懐かしい
いつの間にかその場は静まり返っていた。
「…桜助、…この匂いはさ―」
―桜助。
私の名だ。
―いきなり、
勢い良く、扉が開いた。
「―初めまして」
全く抑揚の無い、女の声。
私は顔を向けるのが面倒で、音だけが勝手に耳に入ってきた。
「―私は『勧告』に来た。雑魚に話しても意味が無い。一番上級なヴァンパイアを出して頂戴。」
―あぁ
…面倒だ。
「…勧告?」
立ち上がるのが億劫な私の替わりに、代弁してくれたのは友人だった。
僅かに声が震えている。
「…宣戦布告じゃ無くてか?」
「―そうとも言うわ」
調子の変わらない女の声は淡々と言う。
「貴方には用が無い。もっと上が居る筈よ。…違うかしら」
―仕方がない
私は立ち上がった。
「…―恐らく…私がこの場では一番上級だろう」
縺れそうになる足を踏ん張って、
乱れる息を抑え込んで、
悪魔で平然を装って、彼女の前に立つ。
「―その様ね」
―彼女は
「……懐かしいわね。…チェリー…、…だったかしら」
見知った顔の
「そう呼んで許されるのは私の師匠だけだ」
見知った女。
昔と同じ、金の髪に金の瞳。左胸には大輪の蔓薔薇の刺青が咲き誇っている。
変わったのは服装だけ。
丈を切り落とした真紅のドレスに、不釣り合いなジーンズのジャケットを羽織っている。
「…クリスティのこと?」
それは、我が師匠。私の主人。
私の、総てにおいての目標であり憧れの男。
「…愚かだわ。私達を裏切るから痛い目を見るの。気高い私達から好き好んで出て行って、こんな―」
言いながら、部屋を見回す。
「―野蛮で、最も愚かな種族に魂を委ねるなんて」
本当、下らない。
怒りと苛立ちに震える拳を、更に握り締める。
―ぶつん!
鋭った爪が掌の皮を貫くのがわかった。
「…貴女は昔話をする為に此処へ赴いたのか」
体調と気分は最低だ。
こんな心身共に疲労困憊する会話は、早急且つ簡潔に切り上げたい。
それに、偽るという事は、ひどく疲れる。
―私は、嘘は大嫌いだ。
例え残酷でも、真実だけが本当で
嘘は言葉で創られた言い訳でしかない。
「…いいえ。『勧告』を伝えに来ました。今からそれを伝える」
つまり、伝言か。
「『278年の沈黙は破られた。―我々、気高き一族は、太古の昔に分岐した野蛮な者共を駆除する。』」
…駆除。
―そう
彼等にとって、我々は目障りな害虫という存在…なのだろう。
だから、駆除する。
増えすぎた虫螻を殺虫する。
あわよくば絶滅させる事を望んで―
手元にあるスプレーで、蠅叩きで、雑誌で、叩き潰す。
何らかの情などある筈もなく。
『殺した』という意識も伴わず。
邪魔で不必要で癪に障る、標的がいなくなった、位。
何も、思う筈も無い。
女は続ける。
「『戦え。傲慢な亜種共よ。我々は全面戦争を要求する。拒否権は無い』」
―戦争ではない。
それは、虐殺だ。
「『尚、過去に我等を裏切って脱退し、愚行を犯した者』―」
激しい動悸。
目が廻る程、狂おしい。
「『奴の虞属に置いては例外的に、』…」
そこで、女は台詞の様に述べていた『勧告』を、一旦区切った。
「…つまり、其処の貴方だけ。貴方だけは歓迎するわ。悪い話じゃあない。どう、チェリー?」
それは、これから始まる戦争から逃れ、
この部屋の者達の、敵になるという事だ。
「―例えば」
…もしも、の、話だ。
「例えば、私がその話に『はい』と答えたとしよう。…―私の虞属は一体どうなる?私と共に、行けるとでも言うのか?」
「それは出来ない」
即答だった。
「私達が受け入れを認めるのは私達と同種である貴方だけ。貴方以外の受入許容は有り得ない」
―それでは、その話に賛同する利点は何処にも無い。
「…ならば、その勧めを認めることは出来ない」
女の鋭い視線。
…やがて、小さく息を吐き、
「そ」
素っ気無く、端的に言った。
「―じゃあ私が此処に居る意味は無いわ」
さようならと踵を返して、
カツリと一歩足を踏み出した所で、フッと振り返った。
「そうだわ。此処に居た男の子、御馳走になったけど。…飲めない事も無かったわ。御馳走様」
―それと
「痩せ我慢は良くないわよ。チェリー?」
見透かした様に言い残して、
今度こそ振り返ることもせず、彼女は去った。
「―此処に居た、男の子…?」
―久し振りに、友人が言葉を発する。
「…見張りの虞属か!?」
場が、突沸する。
頭中に谺する、騒音。
だらだらと嫌な汗が皮膚を伝う。
「…っ!!あいつ…!!」
友人が悔しそうに噛み締める。
―そうだ。
あの女はそういう奴だ。
冷酷無情なのは言うまでも無く、人の感情など関係無しに、自分本位に他人を切り捨ててゆく。
変わらない。
…―変わる筈も無い
一瞬、意識が薄れて、大きくふらついた。
「…っぐ…ぅ、」
倒れないように何とか踏みとどまる。
…厄介な事になってしまった。
どうして―このタイミングで―
―いや…
…いずれにしろ、巻き込んでしまったか
すまない
私の身勝手で
額に頬に、張り付く金髪が鬱陶しい。
「…あの、」
誰かが、私に声を掛けた。
振り向くと、友人の虞属。
「大…丈夫…、ですか…?」
サイズの大きい長袖シャツから覗く白い首筋。
「……ぅ、ぐっ…!!」
急いで目を逸らした。
―いけない。
此処に居るのは、まずい。
「……悠二…っ!!」
悠二とは友人の名だ。
…決して駄洒落では無く。
「…何だよ?」
「今は…何時だ…」
常備していた懐中時計は忘れてきてしまった。
友人は腕時計を覗く。
「午前9時。」
3時間近くも此処に居たのか。
…9時
―今は、外には出られない。
日光が強すぎる。
せめて夕方か、それとも―
我慢が効かない様なら…太陽光がピークに達する前の今の内か…。
「…桜助…? 何か、色々ヤバそうなんだけど―」
立っているのが辛い。
「―取りあえず…座った方が良いんじゃん? …今更…外には出られないし…」
―視界に映る、私を覗き込んだ友人を、
「…っ、…お、桜助っ!?」
取っ捕まえて、襟をひん剥いて、
突発的に、その首筋に―
柔らかい皮膚に―
「………っ!!」
この牙が届いた瞬間に、
はっとして、自己を叱咤した。
彼を突き飛ばし、誘惑を遠ざける。
「っ!! …な、何だよ…!!」
あぁ…クソ…っ!!
「…お前…、そんなに…ヤバいのか」
…そのようだ。
駄目だ、頭が動かない。
ただ、『呑みたい』だけが、頭の中で堂々巡りを繰り返す。
…此処に居たら―
―此処に居たら、誰を襲ってしまうか解らない
一人にならなくては
「…また来る」
コートが翻った。
「…ま、待てよ―!? お前今行ったら―!!」
額の毛細血管が数本、限界を迎える。
「―煩い!!!」
つい、怒鳴っていた。
「今の私に構うな!!」
「…だ…だって…、…そんな事言ったってさ…!!」
「私の事は放っておけ!!」
誰かに手を出してしまうのは心苦しい。
「放って―!!―…、……放って…おいてくれ…!」
最後には、見苦しい哀願。
友人も、何かを悟ってくれた様だった。
「………、」
憐憫の視線。
暴れる心臓を握り締め、じっとりと皮膚の上を流れる汗を感じる。
―薬物中毒。
「……、……判った、止めない」
―苦虫を噛み潰した様な苦渋の表情で。
「…だけど、その辺の奴、食い殺したりすんなよ」
そんな事は解っている。
制止が効くかは判らないが―
―まぁ……そんな事は言ってもいられないだろう…
背を向けて、ドアをくぐる。
「―それと、気を付けろよ」
…太陽は有るから
背中に友達の声を感じて、
止むを得なく、久方振りに明るみを目にした。
随分と昔の事
まだ人間だった頃を思い出した。