夢回帰―名前
最初は、一体何が変わったのか分からなかった。
ただ、空腹の対象が―信じられない物に変わって―。
金髪の人が、唇を舐めた。
『さて、…残念ながら、お前が払った代償は人間という種だった訳だが』
『あの…西洋の人、』
『…西洋の人は勘弁だな。俺はクリスティって名前なんだが』
『く、くり…?』
『christy』
『くりすてぃー様?』
『……いや、もう良いや。好きに呼んでくれよ』
『僕』は少し考え込んだようで、その後顔を上げた。
『…分かりました。師匠様と呼ばせていただいても…構いませんか?』
『…し…? 何だって?』
『師匠様。その道を極め、教え導く人の事です』
かなり分かり易い説明をしたつもりなのだが、その人は難しげな顔で頭を掻いた。
『master…って事なのかな…』
『僕』は首を傾げた。
彼の言語はたまに分からない。
『…で、あの、師匠様』
『ん? 何だ、訊きたいことがあるなら答えてやるぞ』
『ぼ―…いや、私は、一体何が変わったのでしょうか』
『いや、僕で良いよ。この国は面白いよな。一人称が幾つもある』
また言っていることが分からなくなった。そんなのは当たり前じゃないか、と。
『祖国では一人称は状況によって変わる程度で、人によって…とかは無かったんだ。
I、My、Me、We…』
…不思議な言語だ。難しそうで、『僕』では覚えられそうにない。
『…あぁすまない。続けてくれ』
『…で―僕は一体何が変わったのか分からないんです。
…ただ、僕の頭はおかしいのかも知れない―と』
師匠様の召し物の襟から覗く肌が、どうにも魅惑的で。
性的な意味ではなく、…なぜだか本能的に、欲しくなる。
…噛み付いてそれで―
『っ―! ……僕は、おかしくなってしまったのですか?』
『…いーや、正常だよ』
頭を抑えた『僕』の手を、師匠様が首筋へ導いた。
其処は、先程師匠様が噛み付いた―その牙のあった場所。
ひとさし指となか指が伝える、僅かな…凹凸。
『さっき俺がお前の血を飲んだ。それで、お前にヴァンパイアを伝染したんだ』
…そうだったんだ。
そんなおぞましい行為を簡単に―。
…しかし、何故か『僕』はその行為に抵抗が無かった。
『ば、ばんぱいあ…って、それも外国語でしょうか―』
『vampire…血液を食料、糧として生きる種族だ。人間とは大分違うかも知れない』
『…吸血鬼……』
『ん?』
『…血を吸う鬼、吸血鬼。…あなたは、鬼…なのですか』
『―鬼、か…。人外の化け物、恐ろしいモンスターの事をこの国ではそう呼ぶな…』
訊いてはならないことを訊いたのかと予想してしまって。
『僕』はそろそろと顔色を窺った。
『うん―そうだな。ヴァンパイア=吸血鬼! 良い訳じゃないか』
『―え』
『そうだとも。俺は吸血鬼。化け物で、人外だ』
本当に分からない人だ。
…だけど、何だろう。
胃の中に針の刺さる様な疲れや苛立ちが、この人相手だと起こらない。
『…ん、何だよ。お前の嬉しそうな顔なんか初めて見たぞ』
『―いいえ。
……あなたに会えて良かったと…思いまして…』
師匠様が驚いた顔をして、その顔は微笑みに変わっていった。
『案外かわいい奴だな。お前は』
不名誉なご褒美から身をよじって逃れ、師と仰ぐ彼を睨んでみる。
『僕は男です!! 男たるもの勇ましくあらねばなりません』
『ん、じゃあ漢の君。名前を教えてくれ』
『―桜助です』
『意味を教えて?』
それは、渋々。
『…桜助のオウ、―桜とは、薄紅色の花のことです。春になると空を覆い、川の水面を花弁が流れます。
―綺麗な花ですよ』
『…じゃあオースケってお花の名前?』
『…いえ、スケは助けるという字です。』
…間。
『…やっぱかわいいじゃないか!! ぶすっとしてるのは恥ずかしがり屋さんだからかぁ!?』
『どうしてそうなるんですか!! からかわないで下さいよ!!』
じゃれついてくる師匠様をかわして、後はひたすら逃げ惑う。
『―じゃ、last質問! サクラの花って、cherry treeで間違い無い?』
『僕』は捕まって息苦しい腕の中で叫ぶ。
『し、知りません!』
『ま、多分品種は違っても間違いは無いよな。―じゃ、お前チェリーって呼ぶから』
『…は、はぁ!?』
『かわいいじゃないか。チェリー。オースケって呼びにくいんだよ』
『そ、…そんな―!!』
『良いだろ、お前だって呼んでるんだぜ? シショーサマって』
『それは違うでしょう!! 言語は理解出来ませんが何だか違う気がします!』
『へーき。一緒一緒。多分一緒だって。―ね、チェリー。
これから長いんだ。仲良くしような』
『……どうして』
基本的な全てを諦めて、『僕』は深く溜息をついた。
その呆れの中に、実感を伴う嬉しさ―幸福感。
そんなモノを小さく噛み締めて。
その腕の体温に、一人で舞い上がって。
僕の苦手教科=英語。