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正義執行  作者: 凡人
8/14

事実

警察署の廊下は、外よりも寒かった。

冷房のせいではない。壁にこびりついた“事件の記憶”が、空気を重くしていた。

人の死が集まる場所には、沈黙の厚みがある。

それに包まれて、俺はひとつの椅子にただ座っていた。


「お待たせしました」


灰色のスーツを着た刑事が、小さな資料ファイルを抱えて現れた。

無言で頷くと、彼は俺を別室へと案内した。

通されたのは、ガラス窓も時計もない小さな部屋だった。


「まずは、こちらをご確認いただけますか」


机の上に置かれた透明な袋。

中には、ピンク色のスニーカーが片方と、白地に花柄のハンカチ。

それから、細かい破れのある小さなパーカーの一部。


ひとつずつ、視界に入れるたびに、体の奥から冷たいものがじわじわとせり上がってくる。


「これは……」


喉が詰まって、声にならない。

確かに見た。あの日、朝に美優が自分で選んだ服だ。


「ご本人のものと見られる衣類は損傷が激しく、直接の対面によるご確認はお控えいただいております。現在、DNA鑑定の結果が届いておりまして……」


刑事はファイルを開いた。

そのページに書かれた数字の羅列は、俺にとって“意味”でしかなかった。

だが、その意味がすべてを終わらせた。


「身元は、間違いありません。ご息女の美優さんです」


その言葉を聞いた瞬間、何かが折れる音がした。

それが心なのか、理性なのか、記憶なのか、自分でもわからなかった。


言葉が、出なかった。

涙も出なかった。

ただ、音が消えた。


刑事の口はまだ何かを動いていた。遺体の損傷、司法解剖、今後の対応。

でも、耳には届いてこなかった。


窓のない部屋に、音のない時間が流れていく。



そのあと、形式的な説明をいくつか受けた。

死亡推定時刻は、俺が取材の電話に応じていた、あの時間帯。

防犯カメラには不審な映像は残っておらず、侵入経路は不明。

遺体は近隣の廃工場の裏手、排水路に沈められていた。


証拠品から、何も“伝言”はなかった。


なにも、なにも残っていなかった。


美優は、ただ“いなくなった”だけだった。


警察署のロビーに戻った頃には、夜が近づいていた。

外の空はぼやけた雲に覆われていて、街灯の光さえ滲んでいた。

人の気配のないベンチに腰を下ろすと、ようやく涙がこぼれた。


美優の最後を、俺は知らない。

泣いたのか。呼んだのか。怖がったのか。

何も知らず、何も守れず、何も伝えられなかった。


美優は、何かを言いたかっただろうか。

でも——彼女は幼すぎた。

想いを遺すという概念すら、まだ知らなかった。


だから、何も残らなかった。


そこが、一番苦しかった。



家に戻ると、リビングの空気が変わっていた。

昨日までと同じはずなのに、すべてが違って見えた。


ソファのクッションがひとつだけずれていた。

テレビ台の隙間から、色鉛筆のキャップが転がっていた。

冷蔵庫には「たべていいよ」と書かれたプリンの蓋。


美優の気配は、いたるところに“日常”として残っていた。


なのに——その日常だけが、戻ってこない。


ふらふらと歩き、彼女の描いた絵が入った引き出しを開ける。

笑顔のパパと、お花畑と、大きな虹。

いつかの夢を、無邪気に描いた線。


俺は、ぐしゃりと絵を握りしめた。


「……ごめん、美優……」


泣き声は、ひどく汚く、かすれていた。

謝罪の言葉は、言っても言っても足りなかった。


鍵は閉めていた。声もかけていた。注意もした。

でも——戻ってきてほしかったのは、そんな言い訳じゃなかった。


欲しかったのは、美優だった。


それだけだった。

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