事実
警察署の廊下は、外よりも寒かった。
冷房のせいではない。壁にこびりついた“事件の記憶”が、空気を重くしていた。
人の死が集まる場所には、沈黙の厚みがある。
それに包まれて、俺はひとつの椅子にただ座っていた。
「お待たせしました」
灰色のスーツを着た刑事が、小さな資料ファイルを抱えて現れた。
無言で頷くと、彼は俺を別室へと案内した。
通されたのは、ガラス窓も時計もない小さな部屋だった。
「まずは、こちらをご確認いただけますか」
机の上に置かれた透明な袋。
中には、ピンク色のスニーカーが片方と、白地に花柄のハンカチ。
それから、細かい破れのある小さなパーカーの一部。
ひとつずつ、視界に入れるたびに、体の奥から冷たいものがじわじわとせり上がってくる。
「これは……」
喉が詰まって、声にならない。
確かに見た。あの日、朝に美優が自分で選んだ服だ。
「ご本人のものと見られる衣類は損傷が激しく、直接の対面によるご確認はお控えいただいております。現在、DNA鑑定の結果が届いておりまして……」
刑事はファイルを開いた。
そのページに書かれた数字の羅列は、俺にとって“意味”でしかなかった。
だが、その意味がすべてを終わらせた。
「身元は、間違いありません。ご息女の美優さんです」
その言葉を聞いた瞬間、何かが折れる音がした。
それが心なのか、理性なのか、記憶なのか、自分でもわからなかった。
言葉が、出なかった。
涙も出なかった。
ただ、音が消えた。
刑事の口はまだ何かを動いていた。遺体の損傷、司法解剖、今後の対応。
でも、耳には届いてこなかった。
窓のない部屋に、音のない時間が流れていく。
*
そのあと、形式的な説明をいくつか受けた。
死亡推定時刻は、俺が取材の電話に応じていた、あの時間帯。
防犯カメラには不審な映像は残っておらず、侵入経路は不明。
遺体は近隣の廃工場の裏手、排水路に沈められていた。
証拠品から、何も“伝言”はなかった。
なにも、なにも残っていなかった。
美優は、ただ“いなくなった”だけだった。
警察署のロビーに戻った頃には、夜が近づいていた。
外の空はぼやけた雲に覆われていて、街灯の光さえ滲んでいた。
人の気配のないベンチに腰を下ろすと、ようやく涙がこぼれた。
美優の最後を、俺は知らない。
泣いたのか。呼んだのか。怖がったのか。
何も知らず、何も守れず、何も伝えられなかった。
美優は、何かを言いたかっただろうか。
でも——彼女は幼すぎた。
想いを遺すという概念すら、まだ知らなかった。
だから、何も残らなかった。
そこが、一番苦しかった。
*
家に戻ると、リビングの空気が変わっていた。
昨日までと同じはずなのに、すべてが違って見えた。
ソファのクッションがひとつだけずれていた。
テレビ台の隙間から、色鉛筆のキャップが転がっていた。
冷蔵庫には「たべていいよ」と書かれたプリンの蓋。
美優の気配は、いたるところに“日常”として残っていた。
なのに——その日常だけが、戻ってこない。
ふらふらと歩き、彼女の描いた絵が入った引き出しを開ける。
笑顔のパパと、お花畑と、大きな虹。
いつかの夢を、無邪気に描いた線。
俺は、ぐしゃりと絵を握りしめた。
「……ごめん、美優……」
泣き声は、ひどく汚く、かすれていた。
謝罪の言葉は、言っても言っても足りなかった。
鍵は閉めていた。声もかけていた。注意もした。
でも——戻ってきてほしかったのは、そんな言い訳じゃなかった。
欲しかったのは、美優だった。
それだけだった。