表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
正義執行  作者: 凡人
7/14

閉める/開ける

その日は、妙に静かな夜だった。


家の中に響くのは、時計の秒針の音と、冷蔵庫の低い唸り声。

小さな体でソファに寝転がっていた美優は、いつものように絵本を読んでいた。

その声が可愛くて、俺はその隣で仕事の資料に目を通していた。


「ねぇ、パパ。鍵って、なんで閉めるの?」


ふいに、美優がそう尋ねてきた。

無邪気な質問だった。俺は笑いながら答えた。


「大事な人を守るためさ。おうちが安全であるように」


「じゃあ、開けたら、危ないの?」


「そうだよ。勝手に開けちゃ、絶対ダメだ。知らない人が入ってきたら危ないからな」


「うん……わかった」


その言葉に、頷いていた。確かに頷いていた。

だから俺は、安心していたんだ。



翌日、俺は自宅で取材のまとめをしていた。美優は風邪気味で幼稚園を休ませ、ずっと家にいた。

昼過ぎ、美優は静かにテレビを見ていた。

「少し電話してくる。リビングで待っててな」

そう声をかけて、俺は隣の部屋に移動した。


数分だった。いや、正確には6分と27秒だった。


戻った時、リビングは静まり返っていた。

美優の姿が、そこにはなかった。


「……美優?」


家の中を呼び回る。浴室、トイレ、クローゼット、押し入れ、どこにもいない。

窓はすべて閉まっている。

玄関の鍵——


開いていた。


最初に感じたのは、寒気だった。

そして次に、血の気が引くような恐怖。


俺は靴も履かずに玄関を飛び出した。近所を何周も走り、声を張り上げて美優の名を呼んだ。

だが、返事はなかった。


通報した。

震える手で番号を押した時、声がうまく出なかった。

「娘が……いないんです。鍵が……開いていて……、家の中には……どこにも……」


警察が来たのは、通報から十五分後だった。

二人組の警察官が玄関を調べ、部屋の中を一通り確認したあと、事情を訊ねてきた。


「最後にお嬢さんの姿を見たのは?」


「昼の……十四時過ぎです。僕が電話で席を外した時、テレビを見ていました。……たしかに、そこに座っていたんです」


「その後、家の中を出入りした人物の記憶は?」


「いません……絶対に。鍵も閉めていたはずです……でも……」


俺の声は、いつのまにか震えていた。


警官の表情が、わずかに硬くなるのが分かった。

彼らは手際よく、現場検証のために鑑識を呼び、玄関のドアノブや足元をライトで照らしていく。

リビングの床には、美優の小さなスリッパが片方だけ残されていた。

もう片方は、見つからなかった。


「誘拐の可能性も視野に入れて捜査を進めます」

若い警官の一人がそう告げたとき、頭の中が一瞬真っ白になった。


誘拐——。


その言葉だけが、鋭く胸を突いた。


近所を聞き込みに回る警官たちの姿を、窓からぼんやりと眺めながら、俺はただ呆然としていた。

ひとりの警官が「玄関の鍵の高さは……これは、背伸びすれば届くかもしれませんね」とつぶやくのが聞こえた。


午後9時を過ぎても、美優の行方は掴めなかった。


それでも、警官たちは諦めず、家の周囲をくまなく捜索し、防犯協会にも連絡を回してくれた。

だが、有力な情報は得られず、時間だけが過ぎていった。


夜10時半、鑑識班が「今日はここまで」と引き上げる準備をし始めた頃、

俺はようやく、あの現実が“現実”として染み込んできた。


本当に、美優がいない。


俺は、取り返しのつかないものを、落としてしまったのかもしれない。



その夜、警察が帰ったあと、俺は一人、玄関に座り込んでいた。


床に座って、あの小さなツマミを見つめていた。

美優の背丈からすれば、届くかどうか——いや、届く。ギリギリだが、届く。


いつだったか、美優が「パパ、見てて」と言って、踏み台を使わずに洗面台に手を伸ばした時のことを思い出す。

手先が器用な子だった。

絵を描くときも、ハサミを使うときも、大人顔負けの集中力で取り組んでいた。


そういえば、最近——

鍵の開け閉めを、妙にじっと見ていた気がする。


「ここ回すと、ガチャって鳴るんだね」

あの日、そう言っていた。

俺はそれを、ただの興味だと笑って聞き流した。


リビングに戻り、テレビ台の引き出しを何気なく開ける。

美優の描いた絵の束。その中に、見覚えのない一枚があった。


鍵の絵。

ドアが開き、外に小さな自分の姿。手には、知らない大人の手。


その人物の顔は、黒く塗りつぶされていた。


「……まさか」


寒気が背筋を這い上がってきた。

美優は、もう“自分で鍵を開けられる”ことを知っていた。

そして——その向こうにいる誰かも、それを知っていた。



リビングの壁のすぐ横には、あの日描いていた花の絵が貼られていた。


俺は崩れるように座り込んだ。喉が震え、何も声が出なかった。

後悔が、すべてを支配した。


あのとき、あの質問にどう答えていれば良かった?

あと1分早く戻っていれば、止められたんじゃないか?

そもそも、俺が鍵をかけるタイミングをもっと厳密に教えていれば——。


「守るための鍵」が、「連れ去られるための扉」になった。


誰も、気づかなかった。

美優の声も、足音も、そしてその手が開けた鍵の音さえも。

あまりにも小さすぎて。



翌朝、警察から連絡が入った。


「近隣の廃工場の敷地内で、子ども用の靴が見つかりました。ピンクのスニーカーです」


胸がざわついた。

美優の靴は、昨日履いていたのが、たしか——。


「署まで来ていただけますか」


声が出なかった。


頭の中に、あの小さな手が浮かんだ。

あの日、俺の指をぎゅっと握った、美優の手。


その手は今、どこにあるのだろう。


俺は、知りたくなかった。


でも、行くしかなかった。


この扉の向こうにあるのが、絶望だとしても。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ