閉める/開ける
その日は、妙に静かな夜だった。
家の中に響くのは、時計の秒針の音と、冷蔵庫の低い唸り声。
小さな体でソファに寝転がっていた美優は、いつものように絵本を読んでいた。
その声が可愛くて、俺はその隣で仕事の資料に目を通していた。
「ねぇ、パパ。鍵って、なんで閉めるの?」
ふいに、美優がそう尋ねてきた。
無邪気な質問だった。俺は笑いながら答えた。
「大事な人を守るためさ。おうちが安全であるように」
「じゃあ、開けたら、危ないの?」
「そうだよ。勝手に開けちゃ、絶対ダメだ。知らない人が入ってきたら危ないからな」
「うん……わかった」
その言葉に、頷いていた。確かに頷いていた。
だから俺は、安心していたんだ。
*
翌日、俺は自宅で取材のまとめをしていた。美優は風邪気味で幼稚園を休ませ、ずっと家にいた。
昼過ぎ、美優は静かにテレビを見ていた。
「少し電話してくる。リビングで待っててな」
そう声をかけて、俺は隣の部屋に移動した。
数分だった。いや、正確には6分と27秒だった。
戻った時、リビングは静まり返っていた。
美優の姿が、そこにはなかった。
「……美優?」
家の中を呼び回る。浴室、トイレ、クローゼット、押し入れ、どこにもいない。
窓はすべて閉まっている。
玄関の鍵——
開いていた。
最初に感じたのは、寒気だった。
そして次に、血の気が引くような恐怖。
俺は靴も履かずに玄関を飛び出した。近所を何周も走り、声を張り上げて美優の名を呼んだ。
だが、返事はなかった。
通報した。
震える手で番号を押した時、声がうまく出なかった。
「娘が……いないんです。鍵が……開いていて……、家の中には……どこにも……」
警察が来たのは、通報から十五分後だった。
二人組の警察官が玄関を調べ、部屋の中を一通り確認したあと、事情を訊ねてきた。
「最後にお嬢さんの姿を見たのは?」
「昼の……十四時過ぎです。僕が電話で席を外した時、テレビを見ていました。……たしかに、そこに座っていたんです」
「その後、家の中を出入りした人物の記憶は?」
「いません……絶対に。鍵も閉めていたはずです……でも……」
俺の声は、いつのまにか震えていた。
警官の表情が、わずかに硬くなるのが分かった。
彼らは手際よく、現場検証のために鑑識を呼び、玄関のドアノブや足元をライトで照らしていく。
リビングの床には、美優の小さなスリッパが片方だけ残されていた。
もう片方は、見つからなかった。
「誘拐の可能性も視野に入れて捜査を進めます」
若い警官の一人がそう告げたとき、頭の中が一瞬真っ白になった。
誘拐——。
その言葉だけが、鋭く胸を突いた。
近所を聞き込みに回る警官たちの姿を、窓からぼんやりと眺めながら、俺はただ呆然としていた。
ひとりの警官が「玄関の鍵の高さは……これは、背伸びすれば届くかもしれませんね」とつぶやくのが聞こえた。
午後9時を過ぎても、美優の行方は掴めなかった。
それでも、警官たちは諦めず、家の周囲をくまなく捜索し、防犯協会にも連絡を回してくれた。
だが、有力な情報は得られず、時間だけが過ぎていった。
夜10時半、鑑識班が「今日はここまで」と引き上げる準備をし始めた頃、
俺はようやく、あの現実が“現実”として染み込んできた。
本当に、美優がいない。
俺は、取り返しのつかないものを、落としてしまったのかもしれない。
*
その夜、警察が帰ったあと、俺は一人、玄関に座り込んでいた。
床に座って、あの小さなツマミを見つめていた。
美優の背丈からすれば、届くかどうか——いや、届く。ギリギリだが、届く。
いつだったか、美優が「パパ、見てて」と言って、踏み台を使わずに洗面台に手を伸ばした時のことを思い出す。
手先が器用な子だった。
絵を描くときも、ハサミを使うときも、大人顔負けの集中力で取り組んでいた。
そういえば、最近——
鍵の開け閉めを、妙にじっと見ていた気がする。
「ここ回すと、ガチャって鳴るんだね」
あの日、そう言っていた。
俺はそれを、ただの興味だと笑って聞き流した。
リビングに戻り、テレビ台の引き出しを何気なく開ける。
美優の描いた絵の束。その中に、見覚えのない一枚があった。
鍵の絵。
ドアが開き、外に小さな自分の姿。手には、知らない大人の手。
その人物の顔は、黒く塗りつぶされていた。
「……まさか」
寒気が背筋を這い上がってきた。
美優は、もう“自分で鍵を開けられる”ことを知っていた。
そして——その向こうにいる誰かも、それを知っていた。
*
リビングの壁のすぐ横には、あの日描いていた花の絵が貼られていた。
俺は崩れるように座り込んだ。喉が震え、何も声が出なかった。
後悔が、すべてを支配した。
あのとき、あの質問にどう答えていれば良かった?
あと1分早く戻っていれば、止められたんじゃないか?
そもそも、俺が鍵をかけるタイミングをもっと厳密に教えていれば——。
「守るための鍵」が、「連れ去られるための扉」になった。
誰も、気づかなかった。
美優の声も、足音も、そしてその手が開けた鍵の音さえも。
あまりにも小さすぎて。
*
翌朝、警察から連絡が入った。
「近隣の廃工場の敷地内で、子ども用の靴が見つかりました。ピンクのスニーカーです」
胸がざわついた。
美優の靴は、昨日履いていたのが、たしか——。
「署まで来ていただけますか」
声が出なかった。
頭の中に、あの小さな手が浮かんだ。
あの日、俺の指をぎゅっと握った、美優の手。
その手は今、どこにあるのだろう。
俺は、知りたくなかった。
でも、行くしかなかった。
この扉の向こうにあるのが、絶望だとしても。