交差する過去
朝、保育園に美優を送ったあと、藤崎は市立図書館の資料室にいた。
木製の机にノートパソコンを広げ、犯行現場近辺で過去に問題を起こした人物のリストを洗い出していた。
表面上は“報道されていない”が、前回の現場で確認された教師の名は「園田達郎」。
地元の私立中学校で十数年教鞭を執っていた人物だったが、六年前、突如退職している。
理由は公表されていない。しかし内部通報の記録には、こう残っていた。
生徒への指導が“威圧的すぎる”との声が複数あり。
さらに、一部保護者の間では「暴力を受けた」という証言も上がっていたが、学校側が対応を内々に収めていた形跡があった。処分歴なし。報道なし。つまり、“罪に問われなかった者”。
藤崎はメモをとりながら、ふと指を止めた。
「……前の事件の被害者も、そうだったよな」
初回の被害者──宮下信雄。家庭内暴力の加害者でありながら、妻の訴えを「躾の範囲」として不起訴処分になっていた。藤崎はその時、警察の判断に疑問を抱いたことを思い出す。
そして今回の園田。
“疑惑のまま、処罰されずに社会に戻った人間”。
二件の被害者に共通するのは、「世間が一度は怒りを向けたが、正式には裁かれなかった」という点だ。
もしかすると──
犯人は、そういった“取りこぼされた罪”を拾い上げて、私的に裁いているのではないか。
まるで、法と報道の間にこぼれた“空白”に手を伸ばすかのように。
※
その夜。
夕食を終えて美優を寝かせたあと、藤崎は書斎にこもって過去の自分の“あの事件”を思い返していた。
誤報で告発してしまった青年の名前──稲見拓海。
当時は大学職員で、女子生徒へのストーキング容疑をかけられた。が、実際には、本人とすれ違っただけの誤認。少女の証言の一部は錯覚によるもので、事件性すら薄かった。
だが、その情報が公になる頃には、拓海はすでに職場を失い、家族からも距離を置かれ、
そして──死んだ。
正確には、“自死”だった。
警察は詳細を伏せ、報道も後追いしなかった。だが、藤崎は知っていた。
彼の部屋の机の上に、自分が書いた紙面があったことを。
──もしかして。
藤崎の中に、ある“繋がり”が浮かび上がる。
今の事件は、当時の“その周辺”にいた誰かが関係しているのではないか?
遺族?
友人?
あるいは──兄弟?
※
翌日。藤崎は再び現場近くを歩いていた。
取材のふりをして、通りを見回し、近隣の古い公民館の掲示板を眺めていると、
一枚の写真が目に入った。
地域ボランティア団体の記念写真。そこに映る一人の男の顔──。
どこかで見覚えがあった。だが、記憶の引き出しがすぐには開かない。
「……あれ?」
名札にはこう書かれていた。
“稲見恭一”
思わず息を飲んだ。
拓海──誤報で死んだ青年と、同じ苗字。
調べるとすぐに繋がった。稲見拓海には、兄がいた。
年齢も一致する。数年前までは同じ県内で教師をしていたが、なぜか教職を辞し、その後の消息は定かではなかった。
現在の職業:不明。住所:不定。
藤崎の背中に冷たい汗が流れた。
──もし、犯人がこの“兄”だったとしたら?
だとすれば、これまでの事件にはすべて「藤崎」が関係しているということになる。
それは偶然ではなく、何かを“見せるための復讐”だ。
※
その夜。
藤崎は夜中にふと目を覚ました。いつもなら美優の寝息が聞こえるはずの隣の布団からは、静寂しかなかった。
「……美優?」
声をかけると、眠そうに小さな声が返ってきた。
「うん……ここにいるよ……」
藤崎は思わず彼女を抱きしめた。
この手の中に、確かに“今”の命がある。その当たり前が、なぜか怖かった。
翌朝、保育園の登園時。
玄関の靴箱に、誰かが“白い紙”を差し込んでいたという報告があった。
書かれていたのは、たった一行。
「子どもに、正義を教えていますか?」
保育士は「誰かのいたずらでしょう」と笑っていたが、藤崎はその文字から目を離せなかった。
それは明らかに──
自分だけに向けられた問いだった。