冷たい食卓
日が沈んでも、白岡町の住宅街は静かだった。
かつて教師だった男の死亡事件は、報道される前から地元の警察内では「異常死」として扱われていた。だが、外部には「心臓発作による急死」とされ、実際の現場状況とはまったく異なる情報が流されていた。
藤崎蒼一は、再び現場に足を運んでいた。
古びた一軒家。門扉の錆はひどく、雑草が玄関まで伸びている。人の気配は消えていたが、近隣住民からは「あの先生は人付き合いが苦手でねえ」と、定型句のような返事ばかりが返ってきた。
玄関のドアには、まだ封鎖のシールが貼られていた。だが北原が手配してくれていた鍵屋の手によって、わずか数秒で静かに開いた。
「まさか入るとは思わなかったな」と北原が言った。
中は妙に整頓されていた。生活感の希薄なリビング。
ただ一点、ダイニングテーブルの上にだけ、異様な“演出”が施されていた。
古びた食器。冷えた味噌汁。真っ白なご飯。
そして、そのテーブルの向こう側──背もたれのない椅子に、彼は座らされていた。
両手を膝に置かれ、真っ直ぐ正面を向いた遺体。
口元には食べかけの焼き魚。箸が中途半端に落ちかけた状態で凍っている。
ただの食卓風景。だが、目が合った瞬間、藤崎は息を呑んだ。
「……笑ってる?」
否、口角が引きつっている。
乾ききった唇、そして針金のようなもので吊られた顎。それが、まるで笑っているかのように見えただけだった。
胸元のシャツには、赤黒い染みが広がっていた。
シャツの中には、ナイフが深く突き立てられている。
複数回の刺創があり、そのほとんどが心臓を外していたことから、警察は“時間をかけて”殺された可能性を示唆していた。
「これ……儀式じゃないのか?」と北原がつぶやく。
藤崎は、テーブルの上の一枚の紙に目を向けた。
そこには、きれいな明朝体でこう記されていた。
「子どもに手を上げる者に、食卓を囲む資格はない」
元公務員であり、かつて“DV ” ”児童虐待”を報道されたこともある男。
だが当時、証拠不十分で不起訴となり、そのまま話題からは消えていた。
藤崎はその名前を、どこかで見たことがある気がしていた。
自分がかつて書いた、ある特集記事。暴力の連鎖、という特集内に、軽く触れた名前。
「……あの時の記事か」
過去の一文が脳内によみがえる。
彼はすでに“メディアに取り上げられたことのある人物”だったのだ。
※
帰宅した藤崎は、美優の寝顔を見ながらコートを脱いだ。
小さな胸が静かに上下している。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、子どもらしいほっぺたに柔らかい影を落としていた。
それでも、藤崎の胸には違和感が残っていた。
リビングに置いたスマートフォンが鳴ったのは、そのときだった。
着信履歴はない。だが、通知にはこう書かれていた。
「父性は免罪符ではない」
差出人はない。返信もできない。
藤崎はそのまま、スマホを伏せた。
手が小刻みに震えていた。
この事件は、ただの復讐ではない。
犯人は「社会が裁かなかったもの」に対して、自らの“秩序”で裁きを下そうとしている。
そしてそれは、もしかすると──
「俺に向けられてるのか……?」
ふと、美優が寝返りを打った。
藤崎はその音にさえ、ひどく怯えている自分に気づいた。