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短編集(詩やSSなど含む)

執権を握った男 ~歴史に消えた二つ名持ち~

※ちょっとした挑戦作品です※

※このお話は歴史物になります※


ご興味のない方はブラバ推奨です。


※歴史物なので、年代などに関しては気を付けていますが、間違い等ございましたら誤字報告などにてお知らせ頂くと助かります※




「ねぇお父さん」

「ん?」

「戦国時代の名将とか軍師とか、色々と話題になるじゃない?」

「そうだな」

「でもそんな中でこの土地の人って出てこないけど、弱かったの? それともあまり活躍しなかったのかな?」

「そんな事は無いぞ!! この土地にだって昔は立派な武士がいた。特に会津の執権なんて呼ばれた凄い人が居たんだ」

「へぇ~……でもどうして名前出てこないの?」

「それは……滅ぼされてしまったという事もあるが、その人の事績があまり残ってないというのが実情だからかな?」

 

 名も知らぬ親子の他愛のない会話。父親と思われる男性が青く澄んだ高い天を見上げて、その当時を想う。





 時は天正十七年(1589年)、六月五日(現七月十七日)。

会津の象徴とも呼べる磐梯山。その麓の猪苗代にある摺上原にて、伊達政宗率いる伊達軍と戦戟を交えていた。


「者ども進むのだ!! ここで負ければお家が無くなるぞ!!」

「「おおぅ!!」」

 野太い声を背に引き連れて敵の中へと突撃していく一人の武将。

 名を金上盛備(かながみもりはる)といい、会津一円を治めていた蘆名家の一族であり、金上家十五代目当主である。


 元々会津という土地は昔から戦が絶えなかった。その戦とは対外的なものだけではなく、内向的なものの方が多いと言っても過言ではない。

 外には西に越後の長尾氏と新発田氏がいて、北には出羽一円を手中に収め、意気揚々と陸奥南部を掌握しようと牙をむき始めた伊達氏。東は猪苗代湖を越えてまで従えていたモノの。その先には名門平氏の後裔で平将門が子孫の相馬氏がいるし、その南には常陸の佐竹氏の縁戚である岩城氏がいた。


 大永7年(1527年)に父、金上盛信の子として生誕した盛備は平六、又は盛満などの別名を持つ武将である。

 当時の蘆名家は越後までもその影響下に置き、盛備が生まれた時、父である盛信は越後国蒲原郡津川城主をしていた。その事績を受け継いだのが盛備なのだが、実はこの当時も蘆名家の渦中でごたごたが続いていた。


 それが松本氏を中心とする内訌である。この松本氏も会津ゆかりの土豪一族で蘆名家が隆盛してきた当時からその家臣へと組み込まれた。宿老と同様の扱いを受けるまでに松本氏は繫栄していく。

 幾度となく家中にて反乱を起こしては鎮圧されを繰り返し、やがては蘆名家が会津一円の統一の過程で組織の家来として仕えるの様になった。


 そのさなかにも金上氏は蘆名家当主にしたがい、各地に転戦をしつつも領内の安定化を図る政策などを打ちだしている。その卓越した政治手腕から『蘆名の執権』と呼ばれた。


 そう呼ばれるのにも訳がある。

 この盛備が出仕を始めた当時、蘆名家当主は蘆名盛氏だったのだが、盛興→盛隆→亀王丸→義広というように、当主が早世を繰り返したため、代替わりが激しく、また幼少であったことも相まって家臣たちによる統制・政治代行が求められた。


 この事が後に盛備自体にも影響を及ぼす事態になる。


 とはいっても、蘆名家は三浦氏の流れをくむ名門である。その自負心も相まって土地への執着と共に対抗心は強い。その為何度も領土拡大の戦をしかけついには現在の福島県中通り地方までもその手中に収めることに成功する。

 領土が拡大したことで、臣下も増えるがその分対外勢力とは更に距離が近くなっていく。


 その戦いの中の一つに、越後の後継を巡る戦いである御館の乱がある。天正六年(1578年)に当時すでに五十歳近い年齢にも関わらず出陣した盛備。蘆名家は後北条氏や武田氏の応援・援護する上杉景虎方としてこの戦いに参戦した蘆名盛氏にしたがい転戦。蒲原安田城を攻め落とすなどの功を上げている。


 更にその三年後に起きた越後新発田氏の反乱時には、当主蘆名盛氏の跡を継いだ盛隆にしたがい、新発田氏側として上杉家の後継になっていた上杉景勝とも戦っている。ただしこの戦いにおいては目立つ功績は残していない。新発田氏が鎮圧されたこともあり、会津へと引き上げている。

 

 戦の功績はあげられなかったが、当時の将軍足義昭の代わりに、中央政権を動かしていた男・織田信長に謁見を求め、当主盛隆と共に上洛。と同時に洛中において盛備は従五位下、遠江守に叙任された。

 織田信長との謁見の際には、盛隆を三浦介(みうらのすけ)と認めてもらう事にも成功。この事で三浦家の実質的な棟梁となる事が出来た。


 しかし好事魔が多しとは良く言ったもので、隆盛を誇っていた蘆名家にも陰りが見え始める。


 それが当主の早世と世継ぎ問題であった。

 いくら名門だからと言っても、どの家も世継ぎが決定するときには多少のいざこざが生まれるものであるが、蘆名家の場合はそれが対外的なものにまで発展してしまう。


 天正十四年(1586年)、まだ後継になって間もない元服前の蘆名亀王丸の死去に伴い、伊達氏・佐竹氏のどちらから養嗣子を迎えるかをめぐって家中が紛糾する事態となる。

 

 これは家中も複雑に絡み合う事になるのだが、当時は南下を目論んでいる伊達家と、それを阻止しようとする陸奥南部・常陸連合という様相を呈していた時期でもあり、南下を阻止しようとするのであれば、伊達家と縁戚になろうとする派閥と、伊達家を危険視した派閥とで割れる結果、家中は混沌と化していたのである。


 盛備は盛氏時代からの功臣という実績を以て、強引とも言われる手法を持って佐竹氏から結城義広を迎える案を通した。


 誕生したのが蘆名義広で、この義広が蘆名家最後の当主となる。


 因みにこの時、蘆名家に養子にと案に出ていたのが、伊達政宗の実弟である小次郎。家臣団がこの小次郎を迎えることに反対した理由としては言われている事は、政宗が政宗の父である伊達輝宗の方針を一方的に破棄(父が当主の時は同盟関係にあった)して、反蘆名的行動を繰り返し蘆名領に南下・攻撃をして来ていたことと、もう一つは輝宗没後政宗に代替わりになった事で、蘆名家と同調路線であった伊達家による新発田重家の乱への介入が打ち切られた事が要因にあった。


 これにより、常陸から蘆名家に臣従していた、大縄・刎石・平井などの旧・佐竹家臣団(結城義広が蘆名家の養子になるために義広に臣従してきていた)と、譜代の蘆名氏の家臣団の間に深刻な溝が出来てしまい、家臣団の統制が取れない時期が長引いてしまったため、蘆名氏当主の求心力も低下し領の弱体化を招いてしまう。


 こうなると凋落していくのは早いもの。


 弱体化した蘆名家の様子を見て、好機ととらえた伊達政宗が陸奥南部に進行を再開。その政宗に会津の土豪たちまでも呼応し内応が相次ぐ。


 同時期の天正十五年(1587年)、新発田重家への補給拠点である赤谷城を守る小田切盛昭の救援に盛備が駆け付けるも、上杉家家臣・藤田信吉に撃退され、奮戦も虚しく赤谷城は陥落。


 この戦いの敗戦が更に蘆名家中への痛手になった。



 そしてその戦いのわずか二年後。天正十七年(1589年)摺上原の戦いで、伊達軍の片倉景綱隊に所属部隊一団で突撃し敢え無く戦死した。享年六十三歳。


 この戦いは佐竹氏と共に連合軍として伊達家を迎え撃ったが、佐竹氏が戦線を離脱したことと、蘆名家の軍に統率がとれていない事が敗因となり、実家を頼って常陸佐竹領へ逃走。義広にしたがった会津家中の者も佐竹家や後に伊達家に恭順し、ここに戦国大名蘆名家は滅亡したのである。


 会津の執権として、時には剛腕ぶりを発揮した金上盛備。しかしその剛腕ぶりが裏目に出てしまったが故の滅亡。


 今日、戦国武将として名を馳せる多くの者たちの中で、軍師などと呼ばれる者たちの活躍が紹介されることが多く、ファンも増えているが、この『会津の執権』と呼ばれた男を知る人は少ない。



 歴史の中に消えていった二つ名持ちの、でも地味な存在として名も出てくることの少ない男たち。


 その生き様や生涯を追う事もまた新たな発見につながるかもしれない。


お読み頂いた皆様に感謝を!!


 自分はこういったあまり有名ではない武将も好きです。

 住んでいる土地柄、その土地に愛着を持っている人も多いのですが、有名な事件ーー例えば戊辰戦争などーーは知っているけど、戦国期の事はあまり知らないという方も多い。

 それは残してきた事績が少なく、すでに現在その主となった家系が無いからなのかもしれません。


 確かにそこに、その時代に存在していた人々。

 気になって調べてみるなど、興味が出て頂けたら嬉しいな。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 興味深く読ませていただきました! いいですね〜、戦国武将!かっこいい!! 私も学生時代に地元の歴史を調べていたことがありますが、郷土愛を感じて不思議と満たされました(*´꒳`*) 読ませて…
2023/02/23 08:51 退会済み
管理
[一言] 歴史物ふだん全然読まないので恐縮なのですが、拝読しました!漢字とか固有名詞にひーひー言いながら笑(あ、もちろん私の不勉強さゆえ……) 目に見える事績として名前が残っていなくても、そこに確かに…
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