9 ニナというヒロイン
「おはようございます。カリン様」
ヤンもいないのんびりした週末を過ごし、今日は月曜日。
学校へ向かう中でそのヤンから次の意地悪の内容を聞かされ、心地良く始まった朝も急降下でどんよりしてしまった。
「マリアン様、ボエル様、おはようございます」
それでも淑女たるもの挨拶はしなきゃいけない。
今日はニナが先生の御用聞きだ。授業が始まる前に準備の手伝いをしたり。要は日直だ。
はあ。気が重い。
そのニナの御用聞きを邪魔するのが今日のミッション。そう。ニナとレイフをさらにラブラブにするためのミッションだ。そう思うことにした。せめて少しでもマイルドに収まるよう努力することで僕の中で折り合いをつけたのだ。
下手にマリアンたちに任せると長くなるし余計に嫌なことも言わなきゃならなくなる。結果重視、過程などどうでもいい。満点を取る必要はないのだ。及第点ギリギリを目指す。
カーリンにしてみれば、親の決めたヤンよりやっぱりレイフが気になるのだろう。メアリの話とは随分違った男にはなっていたみたいだけど、幼心に芽生えた淡い恋心で。女の人は年齢関係なくいつでも女なんだな。
「ニナ様は今日が当番でしたわね」
「はい。ですから早く登校なさると思います、カリン様」
僕はマリアンから黄金色をした小瓶を受け取った。瓶には先日喉にいいからと舐めさせてもらったはちみつが入っている。これは本当に美味しい。その時に小瓶ごともらったのだがまだ家に残っていて、思い出してはこそこそと一人で食べていた。……お茶の時間に用意されたもの以外を食べるのはなんとなく憚られたからだ。……今度メアリにもあげよう。うん。
で、これを使って、「美味だからニナにも食べさせてあげようという仲良しのお仕着せの末に手が滑ってはちみつをニナのドレスにこぼしてしまいドレスを汚す」という茶番をやるのだ。
そしてそれで済ませず、汚してしまったドレスの代わりを持ってくるからと、ニナを更衣室へ連れていき、御用聞きの仕事をさせないという二段構え。
今日のポールソン先生は時間に厳しい人で、時間厳守はまあ当たり前だけど、一秒たりとも待ってはくれない。ジャストタイムではなく五分前に来てレディたるもの余裕をもちなさいと、殿方を待たせてはいけません、という先生だ。
だから御用聞きの仕事を連絡もなくサボるなんて言語道断、どんな雷が落ちるかわからない。
その様子を影から見て笑おうという、半世紀以上前の漫画みたいなことをこれからやる。人間何が刺さるかなんて、実は石や槍で狩りをしていた頃から変わらないのかもしれないが。
やはりニナは少し早めに登校してきた。
気が重いがやるしかないのだと言い聞かせ、僕は鞄から教科書を出しているニナの机の前に立つ。
「おはようございます、ニナ様」
「おはようございます、カーリン様」
こんな僕にもちゃんと挨拶をする。強い子だな。しかし警戒感はちっとも隠そうとしていない。
「ニナ様、マリアン様から美味しいハチミツをいただいたのだけど、貴女もいかがかしらと思って。甘いものはお嫌い?」
瓶のフタを開けると甘い香りが広がった。
「いえ、嫌いではありません」
ニナは媚びるわけでもなく(それは当然だ)、かといって他のお嬢様方と接するようなフランクな感じもなく(それも当然だ)、とても他人行儀な返答だった。
「ではこれ、一口いかがかしら」
僕はニナの横の席の椅子を借りて座ると、持ってきた木のスプーンで蜂蜜を掬ってまずは自分が食べて見せた。何か良からぬものが入っているとここで警戒されては困るのであらかじめ害はないのだと示す。いや、そもそもそこまで酷いことはしないししたくない。何かしらの薬品や野草が手に入るものなのかも知らないし。
「とても美味しいのです。ニナ様もどうぞ」
僕が口を付けたスプーンをニナに差し出す。ここでスプーンを取り替えてしまえば何の意味もない。カーリンが口をつけたスプーンだからセーフだ。女の子同士問題ない。
「ありがとうございます」
ニナもそこまで警戒していないのかすんなりスプーンを受け取った。この黄金色は誰しも抗えない魅力がある。美味しいと言うしかないだろうといわんばかりの香りはベッドでいい夢を見せてくれそうだ。
ニナがハチミツ瓶へスプーンを伸ばす。その時。
「!」
僕は驚いて瓶を滑り落してしまった。わざとじゃない。その予定ではあったけど、これは決して狙って落としたわけでは……。
僕とニナは多分それぞれ違う理由で固まっていた。信じられないとしかいいようがないものを見てしまった僕と隠しておきたかったものを見られたのだろうニナ。
スプーンを持ったニナの手が黒い靄に包まれていた。それは数秒で消えてしまったのだけど。なんだこれ。
「す、すみません。せっかくのはちみつが」
ニナが止まった時間を動かす。
「いえ、ごめんなさい、私が落としてしまったの」
小瓶は見事にひっくり返って、当初の目標通りニナのドレスを汚してしまった。
「ニナ様、本当にごめんなさい。代わりのドレスを持ってこさせますのでどうぞ更衣室へ」
黒い靄は気になったけど訊いていいのかわからないし答えてくれるかもわからないし、ドレスもちゃんとしなければならない。さすがに汚れたままではニナが可哀そうだ。なによりそれは計画通りのことでもあり。下手に訊いて走って逃げられでもしたら台無しだ。
「いえ、大丈夫です。このくらい何でもありません」
ニナは少しうろたえているようだったがしっかりと僕の申し出を断った。
「駄目です、ニナ様、ドレスに染みができてしまいます。マリアン様、ボエル様、ニナ様を更衣室へ」
「まあ、ニナ様、お召し物が。私と背格好が似ていますし家も近いので、私が代わりのものをご用意いたしますわ」
半ば強引にマリアンがニナを立たせる。
「え、あの、マリアン様、大丈夫ですので」
「レイフ様にそのようなお姿お見せできません。ハチミツをこぼした私が叱られます」
そんなことはないと思うけど、案外レイフならいちゃもんをつけそうではあるとちらりと思った。
「ニナ様、どうか早く」
ボエルとマリアンに挟まれて、ニナは更衣室へ連れていかれた。僕もその後ろを歩く。
教室を出る際に時計に目をやると始業ニ十五分前だった。ポールソン先生は十五分前に職員室へ来るようにと言っている。今から更衣室へ行ってドレスの替えを待っていては完全に間に合わない。しかしマリアンも極悪非道な人間ではないので御用聞きができないにしても授業に間に合うよう準備はしているはずだ。ドレスが届かなければ僕らも授業に遅刻してしまうことになるのだ。
花組の教室から女子の更衣室は一番近いところで五分。ニナを何とか更衣室へ押し込むと、マリアンとボエルはドレスを取りに出て行った。残った僕は見張りだ。盛大にこぼしたハチミツの香りが更衣室にも広がっている。
「本当にごめんなさい、ニナ様」
黙っているのもどうかと思ったので、僕はニナに話しかけた。本心と芝居と半々な気持ちで。
「……カーリン様」
置かれた木製椅子に座った僕をまっすぐ見て、ニナは声を潜めた。僕の謝罪は無視。
「え、はい」
「さっきのあれ、見なかったことにしてください」
「さっきのあれ?」
「カーリン様は私の手が黒くもやったところをご覧になったはずです」
「ええ、まあ……」
まさか僕が脅されるのか? 見てはいけないものを見てしまったとかで。そう思うほどにニナはぐいぐい僕の方へ寄ってきて。
「あの時声を出さなかったことには感謝いたします」
ニナは深々と頭を下げた。確かに黒い靄は、上手く言えないのだけど「良いもの」という感じがしなかったのだ。直感的に邪悪という言葉が浮かんだのだ。
「え、それは、声も出ないほどに驚いたからで、貴女に気を遣ったというわけでは」
悲鳴めいた声を上げることに、少しははしたないと思いとどまったところはあるが。
「失礼ながら、マリアン様でしたら叫ばれていたかと思います」
ああ、想像に難くないかな。
もしかしてニナはこれを言いたくて大人しくついてきたのか? 僕が一人になることを予想して。ポールソン先生に怒られることよりも黒い靄の口止めを優先した。この行動力、メインストーリーで主役張れるよ。
「どうか見なかったことにしてください。花組の皆様に迷惑をかけるようなことはありませんしカーリン様にももちろん」
いやまあ、ヤンからそんな話がないことを考えれば僕に関係なさそうだしそれはいいんだけど、これじゃニナとの距離が近くなってしまうようで。このままお友達みたいなことになってしまってはルートから外れてしまう。ニナとレイフの距離を縮めるのはカーリンの役目であるはずだ。マリアンとボエルを捨てることにもなりかねない。
「私に関係のないことでしたら口外も追求もしませんけど、それで私が何か得をするようなことがあるのかしら」
小物感半端ないな。すぐに画面から消えるフラグだ。しかしそれでこそカーリン。
「お金ですか?」
「そんなもの平民の貴女からいただくほど落ちぶれてはいないわ」
「……なるほど」
なるほど、って。そんな鋭い目でこっちを見るヒロインがどこにいるんだ。
「カーリン様は私のことが嫌いですよね? 私の何が嫌なのですか?」
ストレートに切り込んでくるな。
カーリンがニナを嫌いな理由は、平民なのにここへ出入りしてることとレイフを取られたこと。
よくよく考えれば大した理由じゃないな。どちらも子供じみていて、婚約者がいる女性が声を大にして言うことではない。まあ、子供ではあるのだ。十六歳なんて。きっとカーリンは恋愛経験もないに違いない。ニナとレイフはそうじゃないだろう。ちゃんと恋に落ちてデートをして二人の恋心は育っていったはずだ。
……自分のことは棚に上げて言わせてもらえれば。
「ではレイフ様と婚約解消してい」
「いやですっ!」
この食い付きぶり。僕は面食らってニナをまじまじと見た。
なんだ。この子のウィークポイントはレイフだったのか。
こんなにムキになって。
……レイフのことが大好きなんだな。
僕たちは攻めどころを間違えていた。この子自身に意地悪をしたって暖簾に腕押しだ。どんなことだって耐えるか、ダメージにすらならない。
そうなれるほど大事な人がいるなんてちょっぴり羨ましくもあるな。
「……失礼しました。取り乱しまして」
ニナはバツ悪そうに僕から目を逸らした。
揺さぶりをかけるなら今だ。
「平民である貴女がこの国の救世主になるレイフ様と一緒にいるなんて許せないのよ」
私と同じなのに!
…………?
「カーリン様もレイ様のことを慕っていらっしゃるのですね」
僕は今、何を言った? 何を思った?
「ですがこれだけは譲れません。レイ様はパートナーとして私を選んでくださった。私は全力でレイ様の背中をお守りします」
私と同じって。
私って誰だ……。
「随分と勇ましいわね。その気概に免じて黒い靄のことは誰にも言わないけど、レイフ様との婚約は絶対に認めないわ」
ニナの熱に当てられたのか、興奮してするすると言葉が出たけど。確かにこの筋でニナの邪魔をすべきだと思ったけど。
僕は自分の言葉ではない気がした。
「ニナ様、お待たせしました」
ピリピリムードな中、マリアンとボエルが少しだけ息を切らせて更衣室へ入ってきたので僕とニナの密談は強制的に終わった。一応区切りはついていただろう。
二人が抱えてきたドレスは意外にもちゃんとした、古着感のないものだった。マリアンの家に見すぼらしいドレスなんかないということか。
「カーリン様、私達はニナ様のお手伝いをしてからまいりますので、どうぞお先に教室へ」
「そう。それではよろしくお願いいたします」
僕はそそくさと更衣室を出た。結構時間がギリギリだ。それでも僕を先に行かせるということは三人でなんとか間に合うとマリアンは踏んだのだろう。
マリアンの有能さに感謝しつつ思うことは。
私、の正体は。
カーリンだ。あれはカーリンの気持ち。
でも私と同じって。何が同じなんだ。
僕にはこれ以上わかりようがなくて、とりあえず保留にするしかなかった。
お読みいただきありがとうございました