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小説家になれない男

作者: 富山晴京

 後ろから車のヘッドライトが私と、私の前方を強く照らした。夜の暗闇の一部が光に染められる。それから黒い車が私の横を通り過ぎようとした。

 その車の速度が遅かったことに私は気づくことができなかった。前を向いていたから、その車が不自然なところで速度を落としたことに気付かなかったのだ。

 車が私の横で停止した。車のドアが開き、男が飛び出してきた。男が私の体を抱え込んだ。それから黒いヴァンのスライドドアを開けた。私は後ろ向きに車中に押し込まれた。車の座席シートの上に私は倒れた。その時ドアのプラスチック部分に頭をぶつけた。

 男も車の中に入り込もうとしてきた。手には肉切り包丁を持っていた。それを見た瞬間、男が何か危険なことをこれから私にしようとしているのだと悟った。

私は男の腹を足でけった。蹴りはしっかりと命中したのにもかかわらず、男はさらに車中に入り込んできた。興奮のあまり、痛覚がマヒしているのかもしれない。

 私は男の股間を蹴った。これはどうやら効いたようだった。男はお腹を押さえて、動きを止めた。股間を蹴ったのにどうしてお腹を押さえるのかを疑問に思ったが、その疑問を解消している場合ではなかった。

 私は頭の側のドアを開けた。そして出ようとしたが、そううまくはいかないことに気が付いた。逃げようと背を向けたりすればすぐにでも肉切り包丁で切られることになってしまう。しかし男を迎撃するために足で男を蹴り続けていては、いつまでたっても逃げられないのだ。

 出ることを考えていて、男から気をそらしていた間に、男に右足をつかまれた。そして足を包丁で切り付けられた。私は悲鳴を上げた。

 男がさらに近寄ってきた。そして首筋に包丁を突き付けてきた。この時初めて、私はこの男のことを怖いと思った。

「両手を出せ」

 男が言った。それはどこかで聞き覚えのある声のような気がした。それから、この男が小説教室で出会った男であることに気が付いた。私にはこの男にどうしてこんなことをされるのかがわからなかった。私はこの男の名字の一文字さえ覚えてはいなかった。

「早くしろ。できれば君の顔面を切り刻みたくはないんだがな」

 私はあわてて両手を出した。男は結束バンドを取り出した。

「親指をくっつけあわせろ」

 私が親指をくっつけ合わせると、男は元からわっかにしてある結束バンドを親指にかけた。それから男は開いているほうの手でバンドを押さえて、包丁を握っているほうの手で結束バンドを閉めた。その際、包丁が首筋から離れることはなかった。うっかり間違いで私の動脈を切ってしまうのではないかと、恐ろしくてならなかった。

 それから男は私の左足をつかんだ。そしてふくらはぎに包丁をあてがった。

「待って、おとなしくしてるから」

「悪いな、初めからこうするつもりだったんだ」

 そう言って男はふくらはぎを深々と切りつけた。私は悲鳴を上げた。その際、悲鳴を聞きつけて誰かがこの状況に気付いてくれないものかと思った。しかしそれにはあまり期待できなくなっていた。さっき悲鳴を上げてから大分時間が経っているような気がする。このあたりには住宅街がある。彼らの何人かは悲鳴を聞きつけているだろう。しかし誰一人として出てこない。

もしかして彼らは気づかないふりをしているのではないか?その情景はありありと想像できた。家の中でテレビを見ている途中で女性の悲鳴が聞こえる。しかしそれは家の中にいてはひどく遠くで起こっている出来事のように思える。それは痴話げんかの際に男に頬を叩かれた女の悲鳴かも知れないし、DVDで見ている映画の音量が大きすぎてたまたま聞こえてきただけの声かもしれない。いずれにしろ、彼らが外を調べに行くことはない。そのしないことには人によってそれぞれ様々な訳があるのだろうが、突き詰めれば自分には関係がないから、ということに尽きるだろう。

 ジーンズが血で赤く染まっていく。もはや足を動かすことすらつらかった。男は足をつかむと、足を束ね、ビニールひもで私の足首をぐるぐる巻きにして縛った。それから口に猿轡を噛ませた。

 男は運転席に座った。そして車を発進させた。

「君は僕のことを覚えているかい?ああごめん、君は喋れないんだったね。今回は乱暴な手段に出てしまったけれど、決して君を傷つけるつもりじゃなかったんだよ」

 傷つけるつもりがなかったとは。両足を切りつけるとき、初めからこうするつもりだったと言っていたではないか。

「僕は君を愛している。君は初めて僕の作品を理解してくれた人だ。僕の書く作品は難解だったからさ、あの教室じゃ誰も僕の作品を評価してはくれなかった。だけど君は僕の作品を理解してくれた。言葉は難しいけど、難しいテーマに挑戦していると思うと言ってくれた」

 そこまで言われて思い出した。私はその時確か、小説教室に入ったばかりだった。そして互いの作品を読みあう場で、たまたまこの人の作品を読んだのだ。作品を読んだ時、退屈で、何を書いているのか全く分からなかった。けれども自分が新参者であること、先輩の作品であるからとにかく素晴らしいものには違いないのだろうという思いから、私にはよくわからないけれどとにかくすごいと思います、といった趣旨の感想を口にしたのだった。

「君は僕の理解者だ。是非とも僕の作品を見せ続けたい。君から読んだ感想を聞くことは僕の成長につながるし、何より僕の作品を読み続けられることは君にとっても幸せだろうからね」

 そんなの死んでもお断りだ。そう、死んでもお断り。

 この男はバカだ。結束バンドで両手を縛って、足を縛ったくらいで動けなくしたつもりでいる。私は車のドアロックを外した。幸い男は自分の話に夢中で、ロックを外したことに気が付いていない。

 私は車のドアを開けた。

「え、おい!何をしている!」

 景色の流れるスピードから察するに、五十キロメートルくらいの速度で車は走っていると思われた。

 私は芋虫のように足を縮め、体をくねらせながら外に飛び出した。私は地面に、肩からぶつかった。それからゴロゴロと転がった。景色はめまぐるしく入り乱れ、夜の照明と、路地の地面の景色とが切れ切れに見えた。

 やがて体が止まった。体中が痛み出した。てっきり後続の車に引かれるのかもしれないと思ったが、車は私の十メートルくらい手前で停止していた。

 車の中から男が出てきた。

「大丈夫ですか?」

 私はうなずいた。それから私はちらりと、あのアマチュア作家の男の車が進んだ先を見た。あの男の車は姿を消していた。


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