ひとひらのさくら
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――――奥多摩の山陰の中に、一枚だけ散らない桜の花びらがあるという。
青年、平泉涼太郎は、その桜の花びらが見たいと思った。
それは、従妹が最後に視めた桜であった。
自分のことを好いてくれた女の子で、もう、幾年も会っていない。
それでも、不意に、瞼を閉じれば思い出す。
元気にはしゃぎ回る姿。兄ちゃんと呼ぶ声。広場を駆け回ったあの日々を。
少々お転婆で、快活な夏のような香を漂わせた、そんな子であったと。
事故に遭い、寝たきりのままの彼女は、目を覚ますことも無く、面会謝絶なために、会うことも叶わない。その娘の両親。涼太郎にとって伯父夫婦が、電子機器に繋がれて、ただ生きながらえているだけの痛ましい姿は見せたくないという、たっての希いであった。
涼太郎自身も、たとえ面会したとしても、何も声など掛けてやれないと、後ろ暗さもある。
そんな折りに、ふと思い出し、彼女が最後に視めたという桜を、見に行きたくなったのだ。
駅舎を通り抜ければ、四辺は瑠璃の空の階段の下。柔和らかな光が降り注ぎ、鮮烈な青碧が、惜しみなく、彼の目の前に展けた。そのままほうっと感慨深く息を吐き、天上を打ち眺める。
むかし道を通れば、薪小屋に、軒には玉葱を吊した古民家。血色の良い老人が、じっとりと汗ばんだ額を手拭いで擦る。それでも時折、ぽたり、ぽたりと、雫が土へとこぼれる。熱で火照り赤らんだ顔色で、頭に麦わら帽子を乗せ、備中鍬を手に取り、畑に肥料を撒いている。その横の案山子にも同じ帽子の。通り抜ける人が、時折、人間だと見紛い、うっかりと挨拶をする姿を見かけるという。というのも、彼、涼太郎のことである。
こんにちはと会釈をするが、反応が無く、良く見れば、という訳で。
まだまだ日は落ちることを忘れたように、じりじりと、肌を焦がすように降り注ぐ。
それでもまだ夕方は涼気を伴った心地良い風が吹く。
道端の日影では猫が、暢気に欠伸などをしている。
多摩川に沿って徒歩くと、原生林らしき古道の香が、寂寞の気勢と、薫風と共に運ばれる。
川のせせらぐ音。ひゅるるると鳶の声。
常緑樹の杉の木が一目に棚引いて、見事であるが、しかし春になれば、恨めしい目を向けることになる。
道祖神への挨拶もそこそこに、これから山中を登ろうと思案っていれば、遠くから山鳥が風切り羽を母衣打する音。まるで、涼太郎を拒み、威嚇するように響いている。廃線路跡の隧道を潜った先、どこか鼻に菊花の香の様な匂いを感じ、そこはさながら未知の世界への入口のよう。
背負ったザップから、コンパスと登山地図を手にし、向かう場所を確認する。
登山靴で土を踏みしめながら、ストックを突き刺し、一歩、一歩と登っていく。
山陰に暖かな光が落ちると、その照らされた場所だけはくっきりと浮き出したように、濃い緑に囲まれて、じっとりと、清涼な草木の香が彼の鼻をまさぐるようで。
それだのに普段とは違う感覚に、少し戸惑いながらも、ほっと、呼吸をした。
道なき小径にはひっそりと生えた桃の木と、大岩が転がっていて、大変歩きづらい。
そこを抜けると、やがて小さな泉が姿を現す。
そこには桜があった。
みすぼらしく、葉の抜けた、枯れ木のような桜だ。
それを視める涼太郎は、息を呑み、漠然と立ち尽くした。
散らぬ花びら、と言うが、それはくすみ、ただ、木の枝にしがみついているだけだと思っていた彼であったが、違う。
木漏れ日の影の中。
すっきりと浮き出したように、彼岸桜の、鮮麗な、一枚の花びらが、風に靡きながらも、しっかりと、決して舞い落ちぬように、凝と、その場に留まっている。
「桜を、見に来たんですか?」
「はい、その通りで……」
はっと、突然の声。
驚きつつも、涼太郎が直ぐに応じることが出来たのは、四辺には他に人の姿もなかったからであろうか。声の人物と顔を向け、凝然と視めた瞬間。彼は言葉を失い黙然。
白雪の小袖。桜染めの帯。白の扱きに身を包んだ、艶な娘の姿。
いや、娘と言い表すにはあまりにも現実離れした容姿の女性であった。
物思わしげに細められた眸。くっきりとした鼻梁に、やや陰のこずんだ気配を漂わせているが、決して、暗く落ち窪んだ沼のものではなく、月から降り注ぐ鱗粉の如く儚げで優柔な、近くの躑躅と立ち並べれば、山野に咲く花といった有り様。
容貌と、風采と、その挙動までもが、朦朧と映る陽炎の如く、彼女が媚めかしく微笑むと、彼の胸の裡は銅鑼を打ち鳴らすように、どんどんと、体中に血液を送り出した。
「わたしも、この桜を見に来ました。だって、とても素敵ではありませんか」
見上げる彼女の半襟の縫いから打覗く咽頭の白さに見惚れそうになる。
心易い声に安心しつつも、遠い郷愁の記憶が呼び戻されそうで、不思議と、まるで彼女のことを見知った人物かのように錯覚する。
それも偏に彼女の人柄が滲み出ているのだろうと、彼は頭振った。
それほどまでに異彩を放った彼女の立姿と雰囲気に、彼はたとえ幻想の生き物だと、天上から羽衣を無くして立ち往生している天女か。さもなくば妖精がその技工のすべてを出し尽くして創り出した魔力を帯びた人形だと言われても納得してしまいそうな気勢。
涼太郎はカラカラの喉に、唾を押し流し、ごくりと、嚥下する。
そして、絞り出すように。
「君の……名前は」
そう尋ねたのは、いかなる期待心からだったのか。
彼女の口から、見知った人物の名が出てくるとでも思ったからか。
いくら心易い人物だとしても、彼の記憶の中に、このような女性と出会ったことはない。
「あら登山者のお兄様。名前なんてこの場ではほんの些細なものでしょう。わたしとお兄様のお二人だけ。阿と言えば吽と鳴きましょう。ですが、ですがもしもわたしの名前をお呼び頂けるのなら、世理と、そう思し召しませ」
響く声は巫女鈴にも似て。
薄紅梅の花びらを重ね合わせた唇が、柔和らかな笑みを含ませると、一時の幻か、あるいは果無立つ花か、ほんの一瞬、快活な香と、媚めいた容色とが表に顕われ、掻き消えた。
時折見せる仕種の中に、忘れ果てた思い出の、幼き、夏の香を漂わせるが、それに反し、滲み出る雰囲気は、幾年の時を得て習得した貫禄さえも感じられる。
それが余計に涼太郎の裡に、鮮烈な印象を置き、ふっと、息を吐き出したのは、思いのほか緊張していたらしい身体が、休息を覚えたからであろう。彼は漫ろになりそうな呼吸と、胸の高鳴りを抑えようと、花びらに向き直った。
「どうして一枚だけ散らないのでしょうね」
「きっと、誰かを待っている。そう考えたほうが素敵ではありませんか?」
物言わぬ花からその表情を窺い知ることは出来ない。が、涼太郎はなんとなしに、物語を頭の中に浮かべた。曰く、誰かを待ち続け、じっと耐え続ける姿を。何ともいじらしいではないかと。
そのまま熟と眺めようとするが、水場が近いためか、どこも少々露に濡れているように感じる。いくら登山ズボンだとしても、自ら濡れに行くというのは憚られる。彼の様子に気付いた世理が、ごろごろと転がる岩場の、座るに丁度良い場所に、惜しげもなく、自らの着物の、袖を敷布にし、白い指と、紅の爪化粧を優雅に上下させ、手招き。
「どうぞ、こちらへ」
「いいや、そんなことをしてもらう訳にはいきません」
「ですが、そのまま座ればお尻が冷えてしまいますよ」
「それよりも、君の綺麗な着物を汚してしまう方が心苦しい」
「お気になさらずに」
「それに、そこの石に手巾を置いて座ればどうとでもなりますよ」
彼女が垣間見せた気遣いは、じんわりと、浸透するように胸を打った。
自分の心の内側というのが露わになり、勿怪と、幾年の知己かとおもんぱかるほどで、自らを取り繕うことが出来そうにもない。自然と、真摯に接することになる。と言うよりも、惹かれていくのを感じた。
君もと、今度は涼太郎が手招きをすると、彼女が隣にちょこと座る。
少し恥じらったように、顔を俯かせると、先程感じた艶めいた気色は形を潜め、年相応の顔貌が垣間見えた。どうにも二つの気勢を具えているようで、相反することもなく潜在している。
「わたしはこの景色が好きなんです」
「そうなんですか」
「わたしにはずっと想い人を待っているように見えるんです」
「それは先程言ったように?」
「はい。幾年も、幾十年も、じっと、風に晒されても、雨に打たれても、耐え抜いて、一目だけでも会える日を夢見て……」
「それは、少し物悲しい話ですね」
「もはや誰を待っているのか忘れてしまったとしても、きっと、想いを捨てる事なんて出来ないんです。さもなくば、誰かの希を叶えるまで……」
遠くを見上げる彼女の横顔は、秋の愁いを帯びた、散り行く葩のような危うさを感じた。
それから他愛もない世間話などをして、穏やかな時間を過ごす。それこそ時を忘れるほど。
やがて腕時計の針は、もう、下山しなければならない刻を指し示す。
名残惜しむように、愛惜の尾を曳き、彼女に背を向けると、すっと、裾を摘む。
「ここでお終いなどと言うのはあまりに寂しすぎます」
「それは……」
「お兄様。わたしの手を取って頂けますか?」
「――とても冷え切った手です」
「お兄様は、わたしをはしたないとお思いですか?」
「そんなことはありません」
「今日、ようやく会うことが出来ました。それは二度と適うことはありません」
「どういう意味で……」
「一目惚れ、と申せば、お兄様のお気を惹くことが出来ますか?」
「…………」
「このまま、どうか温めては頂けませんか?」
幾年も連れ添った良人のような。
今、彼等の居る場所は、花降る園であろうか。
杉の甍、赤と白と紫の躑躅の瑞垣、花の唐戸、蝶が遊び、華やかなる森の殿裡の中。
自然の彫刻の柱に、掘り深く、風情が燻って見え、さらりと、首を傾げる彼女の鬢が、波打ち際の砂のように顔に流れる。
はらりと、扱きが解かれた。
さながら、一夜だけの鈴蘭の花嫁。
すみれ色の接吻をし、千一夜物語の王に聞かせる寝物語のように、囁きながら、手を枕にし、清純にして官能的な一夜を共にする。それは、白い花の如く。
指を絡め、胸に手を置き、お互いの呼吸が混じり合うくらいの距離で。京太郎が顔を覗くと、完爾と返す。
それも長く続くこと訳もなく、終わり自ずと訪れる。
彼女が未練を断ち切るように、唇を軽く噛むと、「さよなら」と一言。
その瞬間に、はらりと、桜が散った。
あれほど強固に留まっていた花びらは、すでに無く。
あまりにもあっけなく、まるで、己の希は叶ったとでも言わんばかりに、あっさりと、彼女の額へと降り注ぐ。はっと、その花びらを目で追うと、次に彼女を視めようとした時、どこにも姿が見えなかった。
どれほど探そうが、影の尻尾すらも掴むことは叶わない。
涼太郎が帰路に着き、最初に耳にしたのは、従妹が命を落としたという。
丁度、あの花びらが散った、あの時間に。
久しく見た従妹の顔は、血の気が無くなったというのに、新雪に血を一滴垂らしたような容色に、あの日出会った、世理と瓜二つで。
その時に涼太郎は確信したのである。
あの桜の花びらにも、彼女にも、霊魂に姿があるのだと。
夢幻的にも思える一夜に、彼の心を深く打ち付け、鮮明に、想起する。
はらりと、散った桜の花びらは、まるで彼女の泪のようで。
彼の頬にも、はらりと、ひとひらの桜が散るのを感じた。
それは、春の雨のように、暖かな――――
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