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Underwater

作者: 白檀

 昔々、深い海の底に人魚の王国がありました。


 人魚たちはみな美しく、魚やイルカ、クジラなどの海の生き物と共に平和に暮らしていました。国を治めているのは人魚の王です。

 王は、常に王国の民のことを考え、皆が幸せに暮らすことを願っていました。しかし、もし人間に見つかってしまったらどうなるでしょう。人間は醜い二本足を使って動く陸の生き物です。彼らは船に乗って海へやって来ては、魚を捕まえて殺し、食べるのです。

 もし、人魚の王国のことを人間に知られてしまったら、同じように人魚を捕まえて殺すでしょう。

 王は、人間に見つかり平和な王国が失われることを恐れていました。そこで、国中にある命令を出したのです。

「海の上に出て、人間に近づいてはならない」

 命令に背いた者には、厳しい罰が与えられます。海の上に行ったり、陸に近づこうとする人魚はいなくなりました。


 人魚の王には、子供がたくさんいました。その中でも、いちばん末の王子を特にかわいがっていました。

 末の王子は、名をシエルといいます。シエルは、人魚たちの中でもひときわ美しい姿をしていました。

 腰から下へ続く尾びれは青銀色で美しい弧を描き、泳ぐたびに鱗がきらきらと輝きます。髪と瞳は人魚たちでさえ行ったことのない深海の底のように黒く、上半身の白い肌によく映えていました。

 末の王子が泳ぎ回るたびに、人魚の娘たちはその優美な姿に見とれ、ため息をつくのでした。

 しかし、娘たちがもっとも胸を高鳴らせるのは、王子の美しい声を聞いた時です。彼がその美しい声を響かせ歌い始めると、人魚たちだけでなく、魚の群れやサンゴ礁を横歩きしているカニでさえ、動きを止めてうっとりと聞きほれるのでした。


 シエルは賢く、心優しい王子でしたが、いつも心の奥に物足りなさを感じていました。彼は賢いが故に好奇心が強く、海の中を泳ぎ回るだけでは飽き足らなくなったのです。

 この世界はもっと広いはず。海の底だけではなく、海の上や陸がどのようなところなのかを知りたい。そして、人間という生き物も見てみたい――――。

 海の上に出ることや、人間に近づくことは禁じられています。しかし、禁じられているからこそ、王子の胸の思いはより強くなるのでした。


 ある日、シエルはついに父王の禁を破りました。

 その日の宴に人魚たちが夢中になっている間に、そっと宴を抜け出します。そして、王国からずっと遠くへ泳いでいきます。

 独りで泳ぎ続ける王子は、海面を見上げました。ドン、ドンと大きな音が聞こえます。海の上で、何かが光っています。そして、黒い影が海面に浮かんでいます。

 ――――人間の船だ。

 シエルは期待に胸を膨らませ、上へ上へと急いで泳ぎました。


 海の上に顔を出したシエルは、まず夜空に瞬く無数の星に目を奪われました。上を向いて眺めていると、耳の奥が破れそうなほど大きな音と共に、夜空に星とは別の光が現れます。その光は夜空で丸い模様を作った後、静かに消えていくのでした。

 シエルは花火を見たことがありませんでした。花火は目の前にそびえる大きな船に付けられた大砲から発射されたのです。彼は初めて見る船の大きさに圧倒され、少し離れて泳ぎながら船を眺めました。

 こんなものを作るのが人間か。

 シエルは父王に幾度となく聞かされた人間の話を思い出しました。父王の話では、人間はとても醜く、海の中を泳ぐこともできない生き物です。そして、泳げない代わりに船に乗って海へ来ては生き物を殺していくのです。

 彼は恐ろしくなり、人間を見るのをやめて、人魚たちの元へ戻ろうかと考え始めました。

 そのとき、船の人間たちが叫び、騒ぐ声が聞こえました。

「嵐だ! 嵐がやってくるぞ!」

 シエルは夜空を見上げました。いつの間にか無数の星は暗雲に覆われ、見えなくなっています。強い風が吹き、高波が船を打ちつけます。

 白い光が閃き、船を照らしました。その直後、海の底が割れるような轟音と共に、光が船を貫きました。

 雷が落ちたのです。落雷を受けて、船はあっという間に燃え始めました。強い風が、炎を煽っているのです。人間たちは、嵐の海に翻弄される船の上で、悲鳴を上げながら逃げまどっています。

 初めて見る嵐と炎に恐れをなしたシエルは、困ったように炎に包まれる船の周りを泳ぎます。

「誰か、助けて!」

 甲高い悲鳴が聞こえたほうへ泳いでいくと、人間がひとり、マストによじ登ろうとしているところでした。甲板を燃えつくそうとする炎から逃れようとしているのです。

 ――――あれが、人間の娘。

 シエルは胸を躍らせて、もっと近くで見ようと船に向って泳ごうとしました。そのとき、船が大きく横に傾きました。嵐のせいで波が荒れているのです。

 マストにしがみついていた人間の娘は、海に放り出されました。

 シエルは、尾を翻して海へ潜り、沈んでいく娘に手を伸ばしました。娘の身体をしっかり抱きかかえると、もう一度海の上に顔を出しました。

 娘は意識がなく、ぐったりとしています。

 ――――このままでは、死んでしまうかもしれない。

 シエルは、娘を抱えたまま、荒れ狂う嵐から逃れるように泳ぎだしました。


 泳ぎ続けるうちに嵐を抜け、静かな海が戻ってきました。あんなに暗かった空が明るく、白み始めています。夜明けが近づいているのです。

 シエルは、そう遠くない海の向こうにぼんやりとした影を見つけました。陸地です。

 彼は陸地へ娘を連れて行くことにしました。


 陸地へ泳ぎ着いたシエルは、人間の娘を海岸の砂に横たえました。娘は相変わらず気を失ったままです。

 ――――なんと美しい生き物だろう。

 彼は、うっとりと娘を見つめました。父王の話に出てくる醜い生き物と、この娘は全く違っていました。

 冷たかった肌は朝陽を受けて血の気を取り戻し、薄いピンクに色づいています。ふっくらとした赤い唇はかすかに開き、浅い呼吸を繰り返しています。卵型の顔を縁取る髪は豊かで長く、黄金色に輝いていました。彼は娘の額に張り付いた髪を、優しく手ではらいました。

 ――――瞳はどんな色をしているのだろう。

 シエルは知りたくてたまりませんでしたが、娘は目を閉じたままです。

 そこで、彼は歌い始めました。娘が目を覚ましてくれることを祈って。


 しばらく歌い続けると、娘が身じろぎしました。目を覚まそうとしているのです。

 シエルは歌うのをやめ、期待のこもった目で、娘を見つめました。

 娘がうっすらと両目を開け、その素晴らしく青い目にシエルの姿が映り込んだそのとき、海岸の遠くから人間の声が聞こえてきました。

「昨夜の嵐で、流れ着いているかもしれん」

「あっちを見てみよう」

 どうやら、シエルと娘がいる砂浜へ来るようです。

 ――――他の人間に見つかってしまう。

 シエルは名残惜し気に娘を見つめましたが、もう海に戻らなくてはなりません。彼は急いで海へ戻り、自分の王国へ帰ったのでした。


 王国へ戻ってから、シエルはため息ばかりつくようになりました。

 あれほど美しいと思っていた人魚の王国が、海の上に出て人間を見てからは、違って見えるのです。

 海の底には輝く太陽や星はなく、顔を撫でる風もありません。王子を憧れの目で見つめる人魚の娘たちの肌は青白く、冷たい色をしています。彼が助けた人間の娘のように、太陽の光を受けて輝く髪と肌を持つ者は、この海の底にはいないのです。

 ――――あの人間の娘に会いたい。

 王子は、人間の娘に恋をしてしまったのでした。


 人間の娘と彼女の住む世界に恋い焦がれるシエルは、自分も人間になりたいと願うようになりました。

 人魚のままでは、人間と共に生きることはおろか彼女と会うことすらできません。しかし、人間になれば、あの娘のもとへ行くことができます。

 ――――魔法の力で、人間にしてもらえばいい。

 シエルは、王国の外で暮らす魔法使いに会いに行くことにしました。


 魔法使いが住んでいるのは、王国の人魚が近寄らないような深海の洞窟です。魔法使いはかつて王国で暮らしていたのですが、魔法を使って罪を犯したために、深海へ追放されたのです。その罪が何だったかは明らかにされていませんが、魔法使いが妻を殺したからだといわれています。

 シエルは洞窟の入口で、期待と恐怖に震えました。この奥へ進めば、後戻りはできません。父王や兄弟、友人たちと別れ、人間として生きるのです。


 暗い洞窟の奥にいた魔法使いは、シエルがやってきて願いを口にすると、しゃがれ声で笑いだしました。

「王子様は人間になりたいのかい。それも、人間の娘のために」

 シエルが頷くと、魔法使いは笑い声を止めました。

「あなたならできるでしょう」

「もちろん、できるとも。だが魔法の力を使うには代償が必要だ」

「何でも望むものを差し上げます。人間になれるのなら」

 シエルは真剣な顔で言いました。それを見た魔法使いの目が狡そうに光りました。魔法使いは、王子以外の誰も持っていないものを欲しがっているのです。

「お前の声が欲しい。その美しい声をくれれば、人間になれる薬をやろう」

 シエルは、自分の喉を押さえました。声がなければ、人間の娘と話すことはできません。

 魔法使いは、更に続けました。

「ただし、娘の真実のキスを貰うことが必要だ。キスをしなければ、お前は元の姿に戻ってしまうよ。魔法が効くのは一度きりだ。海の底で、娘を手に入れられなかった運命を呪い続けることになる」

 魔法使いは、王子に薬を差し出しました。

 ――――これを飲めばあの娘に会うことができる。

 シエルは薬を受け取り、一気に飲み干しました。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 海辺にあるお城には、豊かで小さな王国を治める王が住んでいました。王にはひとり娘がおり、その美しさは周辺の国々にも名高く知れ渡っていました。

 そのお城で働く人々の間では、ある噂が囁かれていました。それは、まもなくこの国の王女ローサ姫に隣国の王子が求婚しに来るというのに、王女はそれを嫌がっているという噂でした。


 ローサ姫は、お城にあるバルコニーから、海岸を見下ろしていました。その赤い唇からは、ため息がもれます。

 お城の人々は、隣国の王子を迎える準備で慌ただしく動き回っています。王女が独りでため息をついていることなど、誰も気にしていないのでした。

「お隣の王子様と結婚なんてしたくないわ」

 ローサ姫は呟き、目を閉じました。瞼の裏に、嵐の海で助けてくれたひとの姿が浮かびます。姿はぼんやりしかと覚えていませんが、白い肌と優しい黒い瞳をしていました。そして、何より美しい歌声を忘れることはできません。

「あの方にもう一度会いたい」

 王女の悲し気な声は、海岸に打ち寄せる波の音にかき消されてしまいました。


 その夜、父である国王と夕食の席についていたローサ姫は、やはり元気がありませんでした。そんな王女に、父王が話しかけます。

「王女よ、隣国の王子がまもなくお前に求婚しに来るというのに、ため息ばかりではないか。城の者だけでなくも民も心配しているぞ」

「お父様にも話したでしょう。私を助けてくれたひとのことを」

 王女は国に戻ると、嵐で船が遭難したことと、誰かが溺れかけた自分を助けてくれたことを話したのでした。

「お前の命を救ってくれた者には、私も会って礼をしたいのだ。しかし、国中を探してもお前の言うような声を持つ者は見つからぬ」

「あの方に会いたいの。好きでもない王子と結婚なんてしたくないわ」

「お前はこの国の王女なのだ。わがままを言ってはならん。隣の国の王子と結婚することが、わが国のため、ひいてはお前のためなのだ」

 父王はそう言ったものの、ローサ姫が塞ぎこんでいるので、贈り物をすることにしました。父王は傍らの侍従に、贈り物を持ってくるようにいいました。

「王女よ、お前への贈り物だ」

 ローサ姫は、とても驚きました。王の贈り物というのは、ひとりの若者だったからです。

「あなた、あの方によく似ているわ」

 若者は、王女を助けてくれたひとに似ているような気がしました。

「あなたが私を海で助けてくれたの?」

 ローサ姫は若者に尋ねました。しかし、若者は微笑むだけで、何も言いません。

「この者は、口が利けぬ。海岸で倒れているところを城の者が見つけて連れ帰ったのだが、何を聞いても答えない。だがご覧、見目麗しい若者だろう。お前の傍付きにするといい」

 口が利けないのでは、あの方ではないわ。

 ローサ姫はがっかりしました。しかし、父王の言う通り、若者はとても美しかったのです。。

 彫刻のような顔は雪花石膏(アラバスター)のように白く、豊かな髪と瞳は光の届かない海の底のような黒です。質素な服をまとっていますが、見る者に高貴な印象を与えるので、平民のふりをしたどこかの国の王子のようにも見えます。

 王女は大喜びで、この贈り物を受け取ったのでした。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 シエルは、人間の姿でローサ姫の傍にいられることができて、幸せでした。口が利けないとはいえ、海の中で思い焦がれた王女を毎日見ることができるのです。

 王女もこの無口な美しい若者に心を許していました。彼は口が利けない代わりに話をよく聞いてくれるし、嫌なことやひとを傷つけることを言わないからです。

 ローサ姫は、シエルにいろいろなことを話してくれます。シエルは、王女が話している間、生き生きとした青い瞳や柔らかそうな黄金色の巻き毛、そして言葉を紡ぐ愛らしい唇にうっとりとみとれてしまうのでした。


 ある日、ローサ姫はシエルをダンスに誘いました。ダンスなどしたことのないシエルは、首を傾げます。王女はそんな彼を見てにっこり笑いました。

「ダンスを知らないなら、私が教えてあげるわ」

 ローサ姫は彼の両手を取って、踊り始めました。

「私の動きに合わせればいいのよ」

 シエルはその通りにしました。王女の動きに合わせてくるくる回るのが楽しく、笑みがこぼれます。

 ローサ姫もそんな彼を見て、楽しそうに笑います。

 二人は休まずに踊り続けたので、息が上がってきました。そして、ついにどちらともなくステップを踏むのを止めました。

 ローサ姫の頬は息が上がったせいで薔薇色に染まり、青い目は楽しげに輝いています。シエルの視線は、微笑みを浮かべた赤い蕾のような唇に注がれました。

 ――――キスをもらえば、人間のまま王女の傍にいることができる。

 彼は、王女に口づけようとしました。

 しかし、ローサ姫は、顔を強張らせて彼を拒みました。

「こんなことをしてはだめよ。私はこの国の王女。もうすぐ隣の国の王子と結婚するの。あなたは美しいけれど、王子ではないわ。平民でしょう。――――それに、私を助けてくれた方でもない」

 それを聞いたシエルは、ひどく傷つきました。声が出せたなら、王女を助けたのは自分だと言えたならどんなにかよいでしょう。しかし、それはできないのです。

 ――――助けたのが王女ではなく普通の娘ならばよかった。

 シエルは今更ながら、声と引き換えに人間の足を得るこの魔法の残酷さに気付いたのでした。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 次の日、ついに隣国の王子がやってきました。ローサ姫に求婚するためです。

 国王やお城の人々は、王子を喜んで迎えました。隣の国は大きく豊かで、強い兵隊がたくさんいます。ローサ姫と王子が結婚すれば、この小さな国はますます豊かで平和になるでしょう。そのうえ、隣国の王子はハンサムでしたし、剣の腕も国で一、二を争うほどと言われています。

 しかし、ローサ姫はちっとも嬉しくありません。隣国の王子は素敵でしたが、ローサ姫を悲しませることばかりを言うのです。

「結婚したら、私の国で暮らしましょう。このちっぽけなお城とは比べ物にならないくらい立派なお城があるのです」

「この国は海が近すぎます。私は海があまり好きではないのです。陽も強すぎる」

「ダンス? そんなものは男に必要ありません。男は剣術を磨いていればいいのです」

 ローサ姫は、隣国の王子と話すのがすっかり嫌になってしまい、自分の部屋にこもるようになりました。


 部屋にこもっていたローサ姫を心配して、シエルが王女の部屋を訪れました。

 シエルのキスを拒んでから、彼とはあまり会っていませんでした。彼はローサ姫の顔を見ると、微笑みを浮かべました。

 その微笑みを見ると、ローサ姫はいろいろなことを思い出します。

 シエルがいつもお城を感心したように見ていること。

 彼が太陽に向かって眩しそうに微笑み、野に咲く花を見て喜んでいたこと。

 時々海をじっと見ながら何かを考えていること。

 楽しそうにダンスを踊っていたこと。

 ――――そして、焦がれるような目で自分を見ていること。

 ローサ姫は、シエルにむかって言いました。

「あなたが王子様だったらどんなによかったでしょう。そうしたら、あなたと結婚できたのに」


 ローサ姫の元を訪れようとしていた隣国の王子は、部屋の外で話を聞いていました。王子は聞いたことをローサ姫の父であるこの国の王に話しました。

 話を聞いた父王は、かんかんに怒りました。そして、王女を呼ぶと、今夜王女と王子の結婚式を行うことを告げました。驚き悲しむ王女に、さらに父王は続けます。

「お前にあの若者を与えたのは間違いだった。あの者は王族をたぶらかした罪で牢に入れる」

 ローサ姫は、泣きながら父王にやめてくれるよう頼みましたが、父王がそれを聞き入れることはありませんでした。

 こうしてローサ姫は、隣国の王子と結婚することになったのです。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 シエルは、海辺のほとりから、お城を見つめていました。お城からは鐘が鳴り響き、ローサ姫と王子の結婚を祝福しています。

 彼を牢屋から逃げて、この海辺へやってきました。牢屋に放り込まれたものの、口の利けない彼を哀れんだ牢番がそっと逃がしてくれたのです。

 しかし、牢屋の外へ出ても、シエルの傷ついた心は治りません。ローサ姫は、隣国の王子と結婚するのです。

 王女のキスをもらうことは、もうできないのです。

 シエルは、嘆き悲しみ、海へ飛び込みました。魔法が解けて、彼は人魚に戻っていたのです。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ローサ姫と隣国の王子、父王やお城の人々は、船に乗っていました。海沿いにあるこの国では、船の上で結婚式を挙げるのが古くからの習わしなのです。

 ローサ姫は、白い花嫁のドレスを着ていました。みなその美しさを褒めたたえましたが、王女の悲しそうな顔を見るとひそひそ囁きあうのでした。

 ローサ姫と王子は、これから誓いのキスをします。キスをしたら、二人は夫婦となるのです。

 立派な花婿の衣装を着た隣国の王子は、勝ち誇った顔で言いました。

「さあ、そんな顔をするのはやめなさい。これから私とあなたは口づけをし、夫婦となるのだから」

 王子はローサ姫にキスをしようとしました。


 そのとき、どこからともなく美しい歌声が響いてきました。船の上の人々は、その歌声にみな聞きほれました。

「いったい誰が歌っているんだ」

 誓いのキスを邪魔された王子は、声の主を探そうとしました。

 しかし、ローサ姫だけは、誰が歌っているのかわかりました。嵐の夜に、溺れたところを助けてくれたひとの声です。

「あの方だわ」

 ローサ姫は、船のへりから、海を覗き込みました。

 波の間で漂いながら、船を見上げながら歌っているのはシエルでした。

「やっぱり私を助けてくれたのはあなただったのね」

 王女は驚きと喜びでいっぱいでした。シエルは王女の顔を見ると、にっこり微笑みました。王女は彼に手をのばし、船から身を乗り出しました。

「やめなさい」

 ローサ姫を、王子が止めました。王子は怖い顔で、海の中のシエルを睨みつけます。

「あれは海の魔物です。心を惑わされてはなりません」

 王子の言うとおり、シエルは人間ではないようです。波の間からときどきのぞく彼の腰から下は、青鈍色に輝く鱗に覆われていました。

 しかし、たとえ人間ではなくとも、シエルは溺れたローサ姫を助けてくれました。海岸まで王女を運び、美しい声で歌ってくれたのです。口が利けない間も、シエルはローサ姫の話に耳を傾けてくれましたし、王女が笑えば彼も笑いました。王女が悲しめば、彼も悲しんでくれました。

 ローサ姫は、やっと気がつきました。

「私はあの方を愛しているんだわ」

 それを聞いた隣国の王子は、化け物を見るかのような目を王女に向けました。

「すでに魔物に惑わされているようですね。式を挙げたら、すぐに陸に戻りましょう。あなたを二度と海には近づけません」

 王子は、ローサ姫の肩をつかもうとしました。しかし、ローサ姫は王子の手を避けました。そのまま王女は船から身を乗り出し、海に飛び込みました。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 シエルは、海に飛び込んだローサ姫の元へ泳いで行きました。王女が溺れないようにしっかりと抱きかかえます。

  人魚に戻った彼は、王家の船が出航するのを見てやってきたのです。

 ――――ひとめでいいから、もう一度ローサ姫の姿を見たい。

 そんな思いを抱いていたシエルは、今まさにローサ姫が自分の腕の中にいることが信じられません。

 彼は腕の中の王女を見つめました。


 王女は、青い瞳を潤ませてシエルを見上げます。

「私を愛しているなら、あなたのもとへ連れて行って」

 そう言うと、王女は目を閉じました。


 シエルは、喜びに震えました。

 そして、夢にまで見たその薔薇の蕾のような唇に口づけました。

「――――これであなたは僕のものだ」


 シエルとローサ姫は、真実のキスを交わしたのです。シエルの魔法は解けてしまいましたが、ローサ姫が彼と共にいることを望んだのです。

 真実のキスによって、今度はローサ姫が人魚の姿になったのでした。


 美しい人魚たちは、手を取り合って水の中へ潜っていきました。そして、深い深い海の底で、幸せに暮らしたのでした――――。

アンデルセンの人魚姫よりも、いろいろな映画の要素が強いかと思われます。

if設定が楽しくて結構意気込んで書きました。


お読みいただき、ありがとうございました。

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[良い点] 主人公もお姫さまも心がきれいで、気持ちよく読み進むことができました。 [気になる点] 本文とはまったく関係ないのですが……キーワードの「大人向け」を見て、もっとオトナの事情を想像してしま…
[良い点] 人魚姫ではなく人魚王子だからか、ちょっと原作より積極的な展開で新鮮でした。 ハッピーエンドでホッコリさせていただきました! [気になる点] 泡にならないで人魚に戻るだけなら、リスクが小さい…
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