3.馬車
馬車の御者台に座っているにんじんさんは、なにげなく教えたわたしの名前を聞いて、目を丸くした。ああ、しまった、言うんじゃなかった。
交差するように肩にかけている二つのかばんの中から、それぞれよく育ったにんじんを一本ずつ取り出すと、にんじんさんはそれを前方へ無造作に投げた。馬車につながれている二頭の馬がのそりと振り返り、にんじんを見事に口でキャッチする。にんじんさんの号令で、馬車は青空の下をごくゆっくりとしたスピードで進み始めた。
「千葉 休って、あの『おやすみ、ドラゴン』の?あの休ちゃん?」
まだ二十代半ばくらいのにんじんさんは、好奇心たっぷりという感じでそう言った。目は小さい男の子みたいにきらきらと輝いている。
「えーあー、まぁ。はいそうです」
「ああ、やっぱり!」
あの本のタイトルは、出版社のひとがわたしの名前とひっかけて付けたもので、なんだか響きが恥ずかしくて、他人からその言葉を聞くと妙にそわそわして居心地がわるい。それなりに、気に入ってはいるんだけど。
「へーぇ、すげぇなぁ、有名人じゃん!いやぁ、そんな人を乗せられるなんて、おれ感激」
わたしの乾いた笑みにはお構いなしに、にんじんさんは屈託無く笑う。
「・・・ってことは、何?取材の旅の最中ってこと?あ、や、おれの言葉も本に載っちゃう?やっべ、何かいいこと言わないと!」
急に慌てふためくにんじんさんの焦りようがおかしくて、わたしは思わずふきだしてしまった。悪いひとじゃないみたい。
馬車は、横合いから吹く秋風を受けながら、ゆっくりゆっくり進んでいく。お客さんを乗せる荷台には幌がついているから、寒くはなかった。
にんじんさんは、わたしの本を一通り読んでくれているみたいで、わたしのほうが忘れているような小さなエピソードを覚えていたりして、びっくりした。
「なるほど、休ちゃんのエッセイは、こういう地道な取材活動に基づくものだったってわけね。感心しちゃったよ、おれ」
思いがけず褒められて、わたしはちょっと照れくさくなった。ただ、旅先で出会った人たちのお話を書き留めて、それをまとめてるっていうだけなんだけど。でも、こんなふうに読んでくれているひとがいるのは、すごく嬉しい。
「でもさ、休ちゃん。休ちゃんの本によるとさ、ほら、色んなとこで嫌な目にも会ってるじゃん?こんな時代だしさ、心が荒んでる人、余裕の無い人、結構いるんだよね。何度もそういう人、乗せてるからさ。休ちゃんはさ、取材してて、辛くなったりすること、ないのかい?」
ふと、それまで陽気だったにんじんさんの表情が、少しだけ暗くなった。どうやら本気で心配してくれてるみたい。
確かに、旅先で出会う人たちには、本当に色んな人がいる。嫌な思いをすることもある。泣いてしまうことだってある。わたし、ほんとはけっこう泣き虫なんだ。
でも。
「嫌なことも、楽しいことも、そういうのも全部、この世界の欠片の一つだって。わたし、思うんです。どれが欠けても、世界が世界でなくなっちゃうんです。わたし、そんな欠片たちのことを、知ってもらいたいと思って。世界中の人たちに。だから、わたしは旅して・・・るわけで。そのですね、旅が・・・」
途中で、自分がなんだかクサい台詞を言ってることに気づいて、しどろもどろになってしまった。つい、本を書くときみたいな感覚で喋っちゃった・・・うー、恥ずかしい。
にんじんさんは、ひどくびっくりした顔でわたしの目をじいっと見つめていたけれど。
やがて、さっきまでの陽気な笑顔に戻って、そっか。と一言だけ言った。
美都瀬町の入り口で馬車を降りたわたしに、にんじんさんは右のかばんからにんじんを一本取り出すと、いくらか丁寧にそれを投げてくれた。馬車を引く馬たちほど器用にではないけれど、わたしはそれを空中でキャッチした。
「ありがとうー」
わたしに向かってにっこりと笑うと、にんじんさんは左右のかばんからにんじんを取り出して、馬たちへ投げた。ぶんぶんと手を振るにんじんさんを乗せて、再び馬車は、街道をゆっくり、ゆっくり進んでいく。
わたしはそれを見送ってから、手の中のにんじんをひとかじりしてみた。
にんじんは、とても甘くて元気な味がした。




