赤無垢ストリイト
文章力が落ちました。季節錯誤ですが許して下さい。
すすけた席の上に腰を降ろすと、太ももにチクチクと古いシート特有の感触が伝わる。冬にこの不快感を味わうほど短いボトムスを履くのは、アンとのデートの日だけだった。つまりもう、しばらくはこのチクチクとさよならだ。
黄ばんだ車窓から外を見る。お洒落なコートを着た彼がまだそこに立っていて、思わず目を逸らす。なんの面白味もない窓枠の埃にため息を吹きかけながら、最後に聞こえたアンの声を頭の中で繰り返した。
『これからは舌、気をつけて』
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アンが彼氏だと、舌を噛まなくていいよ。何度も私はそう彼をからかった。安也、とまともに名前を呼んだことはほとんどない。気づいたらアンというあだ名が定着していて、アンも多分それを気に入ってくれていた。そう思いたい。
なぜ舌を噛まないのかなんて、試しにあっかんべをしながら「ア」「ン」と発音してみればわかる。口を閉じなくてもいいのだ。
けれど、私が言っていたのはそういう意味ではない。アンは町外れの小さな雑貨店で働いていた。本人はその仕事に絶対の誇りを持っているようで、私もそんなアンが大好きだったけれど、とにかく彼は収入が少ない。だから一緒に食事に出かけても、読み上げたら舌がもつれそうなメニューの並ぶ高級料理店みたいな場所に入ることは皆無だった。素朴な雰囲気の居酒屋に入るたび、私はあくまで冗談として「舌を噛まない」と言っていた。アンは嫌な顔一つせずに笑って、今日もここだけど許してね、と馬鹿ていねいに頭を下げた。
アンは優しい。けれど、口の悪い私と付き合うには優しすぎた。軽い冗談一つ一つがもしかしたら彼のプライドをえぐっている、なんて考えたこともなかった。
今日の昼、約束もなしにふらっとアンの家に行った。「ちょっと待って」と焦る彼の目は隈だらけで、何か思いつめた感じがあったから、どうしたの? と訊いた。
彼は白シャツにネクタイをきっちり締めて出てきた。そうして小さな声で、でも真っすぐこっちを見据えてたった一言だけ、「俺と別れて下さい」と言い切って深々と頭を下げた。
どうして、と私は彼に尋ねた。私に飽きたのか、好きな人ができたのか。何を質問しても彼は顔色を変えずに、直立して私の目を見ていた。思い当たってあれを訊くまでは。
「私が何か嫌なこと言って、それで私のこと嫌いになっちゃったとか……?」
アンは首を振った。けれど、その途端に彼の目から落ちた涙で、私にはわかってしまった。
彼は嘘をつくのが下手で、子供のように無垢だった。そんなひとに皮肉屋でわがままの私が釣り合っていないことぐらい、もうそろそろ認めなければいけない。
「悪いところがあるなら直すから」「別れたくない」「好きだよ」
その言葉を言う資格なんて、私はとっくに失っていた。頷いて、急に来てごめんね、と玄関を出た。
待って、電車で来てくれたんでしょ。駅まで送るよ。アンは赤い目をごしごし拭いた。
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どこをどう歩いたら路面電車の最寄り駅までこうもかかるのか、気づけば空で真っ赤に染まっている。こんなに鮮やかな夕焼けは初めて見た。
自動扉が軋む。ガラス一枚を隔てたアンが口を開いた。
環。
口の動きで呼ばれているのがわかる。けれど、もう声は聞こえない。
環、ありがとうございました。彼は口早にそう告げ、最敬礼よりも深いお辞儀をした。視線を外すことも、頭を下げ返すことも私にはできない。アンの優しい行動の一つ一つが痛かった。
「アン、やめてよ。お願いだからやめて!」
思わずそう叫んだのと同時に電車が傾く。「て」と言ったときに出た舌を、震動でがりっと噛んだ。アンの影がぐんぐん遠ざかっていく。私は上下の歯で舌を挟んだまま、きつく噛みしめた。
大事な人を傷つけて、その上さよならはろくに言えないこの舌を千切ってしまいたかった。前歯を強く突き刺し、窓にうっすら映る自分の口元に血が滲むのを待つ。けれど舌を噛み切ることはできなかった。かわりに、目の下に透明な水が滲んで、ぼろぼろと零れた。
踏み切りの音と共に電車が止まる。後ろを見てももうアンのいた駅はないけれど、彼のことだからまだあの場に立っていると思う。
バイバイ、安也。私は他の乗客に見られないように、最後にもう一度舌を出した。シートに触れる足がまだチクチクする。
意味不明な物語ですみません。
お読みいただきありがとうございました!