少女
――覚悟していた死は、いつまで経ってもやって来なかった。紅は恐る恐る硬く閉じた目を開けば、それは息を呑むほどに驚きに包まれた光景が広がっていた。
それはまるで恐ろしい絵画のように、そうまるで、その光景の閉じ込め、固めたような……、紅は目の前に広がるあり得ない出来事に目玉が飛び出す程に見開いた。
「……止まってる?」
紅のポツリと何気も無く飛び出された呟き。しかし、その問い掛けに答えてくれる者はその場に誰一人としていなかった。紅は咄嗟に庇い合うようにしていた聖を見やった。
「お、おい……、おい!」
震える唇を噛んで止め、紅は固まる聖に必死に呼びかけ触れた。けれど、触れても声を掛けても聖はピクリとも動こうとはしなかった。
……いや、正確には出来なかったのだろうが、紅にはそれが理解出来ず、ただ涙を浮かべながら必死に呼びかけていた。やがて紅の滲みだした塩辛い涙が、頬を伝い始めた。
その時だ。紅の耳に、自分の声以外の音を拾ったのは。しかしそれは人の声では無かった。どちらかと言うと、足音に近い音だった。けれどそれは、コツコツと何かを突いて歩く紅にとっては馴染の無い音であった。聞き覚えの無い音に、紅は一人あの能面の仲間では……? という恐怖が襲い掛かる。顔色が一気に青ざめ、紅は恐怖のあまり再び震えあがった。しかし紅は動かない聖の事を思い出すと紅は聖を守るように、自分の身体を盾に動き出した。すると、聞こえていた音は突然ピタリと止まった事に気が付いた。紅は内心、首を傾げ周囲をキョロキョロと見やれば、紅は能面の居る方向とは反対側の方を見やり、そして固まった。
白い塊がそこにはあった。
「うわああぁぁああぁぁあああ!!」
紅の悲鳴が溢れんばかりに飛び出た。しかし、白い塊は紅の存在を目にしても、一向に襲いかかる気配が無かった。けれど先程の恐怖が思い出されている紅には何をしても恐怖の対象でしかなかった。紅の悲鳴は今も尚、口から飛び出ていた。けれど子供の肺活量ではそう長くは続かず、やがて紅の悲鳴も掠れ、次第に何も言わぬ音へと変わっていった。
……粗方叫んで少しだけ冷静になったのか、紅はいつまで経っても襲い掛かってくる気配の無いことに漸く気が付いた。紅が首を傾げた時、白い塊は動き出した。近づくにつれ、紅はその白い塊が人としてのシルエットを模っていることを知った。そして、紅の見つめる先、漸く近づいて来たのが人だと知った時、紅は緊張で張りつめていた顔を破顔させた。
「見つけた」
そう零し、紅の見える範囲まで現れたのは自分と同い年ぐらいの女の子であった。しかし、唯一紅たちとの違いを比べるなら、彼女の顔立ちは少しだけ大人びていたことぐらいであろう。彼女は純白に包まれた服を身に纏い、綺麗に整った顔に小さな溝を眉間に作りながら、憤然とした態度で紅たちを見つめていた。
「随分と探しましたよ」
一人でそう喋り出す彼女に目を白黒とするしかない紅。しかし彼女にとっては大した問題ではないようで、彼女はコツコツと音の鳴る靴を踏み鳴らしながら近づいて来た。
「ここは広すぎます。
もう少し、範囲を狭くしても良かったのではないでしょうか?」
彼女の零す小さな笑みに思わず紅は見惚れてしまうも、紅にとっては何のことかよく分からず、ただ首を傾げるだけであった。それに見かねたのか、彼女は少しだけ落胆の色と溜息を作り出した。思わず小さな怒りを覚える紅であったが、それを口に出す前に、彼女が先に口を開いた。それに気づけば彼女は、紅の前まで近づくと足を止め、ゆっくりとしゃがみ込む紅と目線を合わせるようにして、立膝を付き、腰を落とした。
「多少、荒事になりますが、ご了承を」
彼女はそう言い切れば、紅の返答も聞かず彼の右手を断りも無く掴む。突然の事に顔を思わず赤らめる紅。慌てて手を離そうとした時、紅は目の前が歪むのを感じ、反射的に目を閉じた。
……身体の内から何かが浮き上がるような不思議な感覚が紅を襲った。しかしそれも数秒で無くなり、やがて紅はゆっくりと、そして怯えながら目を再び開かせた。
すると紅は、目の前に広がっている光景に唖然とした。
「え、ここって……」
紅は思わず首を忙しなく動かし周囲を見渡した。目に入ってくるのは本、本、本。本ばかり。というより、本の棚しかそこには無かった。気難しそうな物から、小さな学年の子でも分かるような物。それを目にし、紅は漸くそこが一体どこなのかを理解した。
しかし、それと同時に疑問も浮かんだ。咄嗟に紅は、彼女を探した。気づけば掴まれていた右手も解放されており、不自然な形で固まっている右手がそこにあった。
「ここは図書室よ」
彼女の声が紅の両耳に飛び込んでくる。紅は自身の右手から弾かれたかのように顔を上げ、声の聞こえた方向に身体を向けた。丁度、真後ろの位置に彼女は窓際の本棚の上に座っていた。彼女は膝に広げた本を繁々と見つめていたが、紅への視線に気が付いたのか、ゆっくりとした動作で顔を上げた。
「まあ、知っているでしょうけどね」
そう零し、彼女は広げていた本をしおりを挟むことなく、勢いよく閉じた。
――パタン、分厚い本が乾いた音を立てて閉じられていく。そして彼女は本を流れる動作で自分の左横へと置くと、再び紅へと顔を向けた。
「……どうやら、何かご質問等がお有りの様にお見受けいたします。
どうぞ、なんなりとお聞きください」
ニッコリと微笑む彼女に、再び紅は頬を染めてしまうものの、すぐに冷静さを取り戻し、紅は不安そうな眼差しで彼女を見つめた。
「君はいったい……?」
そう零した時、彼女は口元をまるで三日月のように緩めた。彼女の眼も、不思議と赤く染まっているような気がして、紅は一人、身体が震えていた。彼女の両手がまるでオーケストラの指揮者かのように、踊り出す。
「手始めにしては、何とも模範的なご質問で大変ありがたい次第です」
両手が躍るように宙を動くも、彼女が両手をポンッと軽い音で叩いた瞬間、その場に眩い輝きが襲った。暗闇に慣れてしまった紅の目にしてみれば刺激が大きすぎていた為、紅は光りから目を守るようにして腕を交差した。やがて光が治まり、腕を下ろした時、紅は彼女の両手に握りしめられてある存在に、目を見張った。
「あなたを助けに来た正義の味方……、という奴でしょうか?」
手に収まっているのは一本の剣。そしてそれは真っ直ぐと紅へと向けられていた。訳が分からないという困惑の表情で、紅は彼女を見つめていた。彼女はすぐに剣を下ろし苦笑を浮かべながら口元を緩めた。
「これ以上の接触は危険と判断させていただきましたので、こちらから確認も無く入ったのはもちろん謝罪いたします。
ですが、事は一刻を争う事態なのです」
そう言い切り頭を垂れる彼女に、紅は目を白黒させ始めた。彼女の言っていることが訳が分からず、紅は一人混乱をしていた。……けれどその時、紅は何かを忘れているような錯覚に襲われた。何故であろう……、と首を傾げた瞬間。紅は友人の聖の存在を思い出した。周囲を見渡しても聖の姿はどこにも無かった。紅は彼女の手に持つ剣に初めは怯えていた物の、聖の安否もまた心配であった為に、紅は怖れる事無く彼女に詰め寄った。
「聖は!
聖はどこに!!」
紅が切羽詰ったような顔で尋ねれば、彼女は驚いたのか目を丸くして紅を見つめていた。けれど、彼の問い掛けを聞き終えれば、彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。
「申し訳ありません。
最優先事項はあなたでしたので……、それにご友人は御無事ですよ」
何ともあっさりと彼女はそう言い切るので、紅は彼女に呑まれるようにしてポカンと口を開け間抜けな顔を浮かべた。そして、静かに彼女を見つめ、半開きとなった口を一度閉じ、そして開いた。けれど、その時に飛び出された声は震え、なんともオドオドとしたものであった。
「……ほ、本当に?」
「ええ、あなたが御無事ならば、ご友人は必然的に開放されますので」
笑顔で言い切る彼女を見て、紅はそこでやっと強張っていた肩に力を抜いた。ドッと安堵の気持ちが足の底から湧きあがってくるのを、紅は感じた。嬉しそうに小さく笑う紅に、彼女もつられて頬を紅色に染め微笑んだ。二人の間に少しだけ和やかな空気が流れ始めた時、紅は思い出したかのように彼女を見やった。
「そういえば、君はどうして此処に?」
その時紅は、彼女が数分前に口にした言葉が脳裏をかすめた。彼女は確かに先ほど『助けに来た』と言っていた。けれど、紅は目の前にいる彼女とは初対面であった。道ですれ違ったことも、ドラム缶でも見たことが無い。それが謎と不思議を呼び、紅は彼女に再び訪ねていたのである。
彼女は少しだけ困ったような面持ちをした。けれど、すぐに何かを吹っ切ったような晴れた顔で口を開こうとした。
けれどそれは、すぐに閉ざされた。どうしたのだ、と紅は一人困惑の表情を浮かべていると、彼女の眼差しが自分の先である事に気が付いた。紅は、不思議に思い後ろを振り返ると、そこには先ほど安否を気にしていた聖の姿がそこにはあった。そんな聖は顔を伏せていたが為に、紅から見たら彼が一体どんな表情をしているのかが分からなった。しかし、そんな事など紅にとっては大して気になるところではなかった。紅の顔には光が溢れ、歓喜に満ちていた。
「聖!」
思わず彼の名を叫び、聖の方を振り返った瞬間、紅は動きを止めた。いや、止めたというより振り返る手前で固まった。そういった方が正しいであろう。紅はあり得ないといった面持ちで聖に目を向けた。紅の足元がふら付き、やがて紅は崩れるようにしてその場に倒れ込んでしまう。彼の口から赤い一滴が床へと落ちていく。ポタポタと零れてくる赤い液体を紅は他人事のように見つめていた。紅は何気なく自分の脇腹に手を添えた。
「くっ……うぅ」
紅の顔に痛みの表情が走る。僅かに開かれた目で脇腹へと目を向ければ、紅の脇腹は赤い染みでいっぱいだった。震えて添えていた手をマジマジと紅が見れば、彼の片手は真っ赤に染まっていた。紅は再び聖に目を向けた時、紅の目は大きく見開かれた。
「せ、聖……、なに持ってんだよ」
紅が見つめるその先。それは聖の左手に握りしめられている一つのナイフであった。しかもそのナイフには赤い液体がベッタリと付いていた。赤い液体の量が多いせいか、赤い液体はポタポタと重力に引かれ床へと落ちていく。それが小さな水溜まりとなっていく。紅は痛みと共に何かが失われていくのを感じ、底知れない程の寒気に襲われた。意識が誰かに引っ張られていくのを感じた。紅は震える体を鞭打ち、聖を掴みかかった。
「聖、答えろ!」
その瞬間、紅に再び何かが貫かれる痛みを感じ、今度こそ意識を手放した。紅の光のある目が濁った目へと変わる。ゆっくりと目蓋が降りていくと同時に、彼の力はまるで糸の切れた操り人形のように力を無くしていく。紅は流れるようにして聖に凭れかかり、そのまま目を閉じた。彼が意識を完全に手放す前、紅は遠のく意識の中で一つの声を聞いた。
「問題発生、接続を一時切断」
その声と共に、紅の意識も闇へと落ちていった――。
*
――家族で食事をするという機会など、一年通して片手で数える程度しかない。そもそも両親共働きの自営業などやっていれば、致し方が無いと思うところもある。今日だって家族とか言っても父親の姿はリビングのどこにも無かった。聞いてみようかとも思ったが、何故か気恥ずかしい部分と、返ってくる返答に大体の予想が付いた為に、俺は追及をすることもなく食事を取る為に、席へと付いた。
「はい、さっさと食べてね」
母からふっくらとした白く輝く米の山が入った茶碗を受け取り、小さく「いただきます」と口にして食事を始めた。みそ汁も置かれ、小学生でもないのに牛乳を片手に俺は黙々と食事を進めた。
そんな時である。ふと思い出したかのように母が何気なく話題を口に出した。
「そういえば、お向かいさんの所の子、今夏休みだからって帰ってきてるんですって!」
けれどその言葉に、俺は僅かにだが動きを止めた。けれどすぐにまた復活し、黙々と食べ進めた。そんな俺の行動を見ていたのか知らないが、隣で静かに母の話を相槌しながら聞いていた姉が、俺に視線を向けてきた。
「……そういえばお前、その子と昔遊んでなかったっけ?」
「あ?
……まあ、な」
アイツとの思い出はほとんど碌な事が無かったのが多く、俺は歯切れの悪い返事で答えた。まあ、もっとも楽しい毎日であったのは確かであった。けれど、俺の胸の縁には一つのしこりの様な塊が一つあった。幼い自分と、アイツの顔が脳裏を過り、俺はハッとした。首を振り拭い去ろうとしても、脳裏の映像は消えることは無かった。それが溜まらなく悔しくて、俺は震える唇を噛みしめた。
「久しぶりなんだし、顔でも見せに行ったらどうなの?」
母の要らぬお節介が攻め立てるようにして俺を襲う。しかし俺は静かに「いや、止めとくよ」と零し、席を立った。気づけば食欲など無に等しいほどに失せてしまったため、俺は申し訳なさに苛まれながら、食器を流しに置いた。俺の変わり身に母と姉は揃って首を傾げているが、俺はそれに追及されることを恐れ、早々に自室へと向かった。階段を駆け上がり、部屋へと飛び込んだ。運動不足が祟ったのか、少し駆け上がっただけで脇腹に激痛が走った。俺はそのままズルズルと扉を背にし、床へと腰を下ろした。
「はぁ…………」
安堵にも取れる溜息が俺の口から飛び出される。俺は、力尽きたように視線を床へと向け、小さく笑った。
「……今さら、どうやって」
ポツリと呟いた言葉は誰かに聞かれることもなく、空中へと霧散されていく。乾いた笑いが突如として俺の口から止め処なく溢れ出てきた。頬に生温かい何かが流れ落ちていくのを一人感じながら、俺はそのまま意識を手放した――……。