全ての始まり
時計の針の音がやけに響く。それもその筈、無言の室内に唯一聞こえるのがそれしかないからである。
カチコチ、カチコチ。終ることを知らないその秒針が、この室内の主である俺を静かに苦しめる。咄嗟に耳を塞いでも脳が記憶してしまったのか、いくら遮断をしようとも耳の奥からあの音が聞こえるような錯覚は拭えなかった。俺は思わず心の中で涙を流す。しかし、この部屋を出る気が無い俺は、仕方なしに、以前姉から譲り受けた音楽機器を探した。閉まりきった机の引き出しを開け放てば、懐かしい顔が見えた。女性が好みそうな品の良い青と、また、こだわりある人間ならば喜びそうなデザインのカバー。いくら金をかけたのかと思わず呆れた溜息が口から飛び出た。そっと手に取り見つめる。
……はて、電源はどこであろうか?
思わず自分の脳がそこで思考を停止する。薄っぺらい板状の音楽機器。生憎俺にとっては見るのも久しぶりであり、触るのさえ挙動不審の状態であった。現代人として有るまじき姿かもしれない……、音楽機器の一つも扱えないなんて、どこの箱入りだ。どこの貧乏人だ。ちなみに俺は一般家庭の平凡な高校生である。
俺は必死に姉が説明していた内容を思い出しながら、手に握る機器に命を吹き込んだ。画面が青白い光を放ち、文字が刻まれる。どうやら何とか起動は出来たようである。ホッと息を吐くが、安心するのは早いと自分を戒める。何と言ったって、自分の手に持つものは未知の物体。ある意味、どこかの未来道具を持つロボットが出す道具よりも扱いは難しいかもしれない。
……いや、それはないか?
まあいい、とりあえず電源は入った。後はどうやって音を出すのか、という事である。そもそもイヤホンなんて有っただろうか。次々出てくる自問に、俺は肩を落とした。椅子に凭れかかるように座れば、椅子が俺の体重を支える事に悲鳴を上げる。その音にさえも嫌気がさしかかり、俺は開けっぱなしの引き出しに再び手を突っこんだ。手探りでガサゴソと探せば黒いコードのような物を発見する。俺はそれがイヤホンだと祈りながら引き抜けば、それはお目当ての物であった。俺は一人口元を緩めた。
「えー……と、コレを、こう…………か?」
集中しているせいか、頭で思っている言葉がそのまま口から飛び出る。傍から見ると独り言を言ってる危ない男に見えるから悲しい。しかし、自室で独り言を言おうとそれは個人の勝手なので文句は言わせない。俺は機器の端っこに開いてある丸い穴にイヤホンを筒状の接触部分を合わせ繋ぐ。先に耳にはすでにイヤホンがあるために、繋ぎ合せた事で耳にブツッと何かの電子音が聞こえてきた。きっとそれが機器との接触音だと思い、俺は古い記憶を漁るようにして思い出した。震える指に笑いながら、俺は姉の指示通りに機器を操る。そして何とか音楽を流せる、という作業まで行きつくと、俺はそこでやっと安堵した。嬉しさのあまり涙が出そうである。……嘘だ。流石に涙は出なかったが心の中で感動はしていた。
ひと昔前に流行った音楽が流れてくる。しかし、それと同時に、あの音が耳を襲う。いや、もしかしたら脳内を襲っているのだろうか。カチコチカチコチ、耳障りな音が尚も聞こえ、俺はそれを振り払うようにして機器の音量を上げた。
俺の名は、樹喜。女みたいな響きだが、列記とした男である。ちなみに私立の男子高に通う二年生だ。彼女はいない、ちなみに、年齢と比例して彼女がいない。
別に悲しくなんてないぞ。
……悪い、嘘ついた。めっちゃ悲しい。
他人の惚気話聞かされるたびに、そいつに殺意が芽生えてくる。思わず、そいつのある事ない事を彼女に言わせて破局させたい。一度だけ興味本位でやった事がある。いやぁ、あの時は酷い目にあった。まず彼氏の野郎からの右ストレートが綺麗に入り、そしてその次には、彼女の前で土下座する自分が居た。親しき中にも礼儀ありというが、きっとあれは戒めであろう。二度とやるなという、無言にも似た教訓。傍目から見れば暴行や脅迫で捕まりそうだが、俺の所業を知ってる奴等からしてみれば「馬鹿め」という言葉で終りであろう。まあ、あれからは二度と馬鹿なことはしていない。妄想の中で片付けている。流石に二度も攻撃は受けたくない。それに二度目は命があるかどうかすら危ぶまれる。……怖い世の中になったものである。
まあ、話はこのくらいで良いだろう。そんな人としてあまり良いとは見られない人生を送って来た俺なのだが、今まさに絶望の淵に立たされている。学生の皆なら分かってくれるだろう、学生で無くても学生という人生経験をしている人間ならば共感してくれると信じている。共感できないものは生憎だが俺と友だちになれないだろう。
とにかく聞いてくれ。人生の中でも一番長い長期休暇はなにか、それを言われ俺は真っ先に「夏休み」と答える。老後と答える人間もいるだろうが、生憎俺はまだ老後を体験してないので良く分からない。そもそも老後であろうとも働いている人間が居るので休みではないだろう。
「夏休み」それは、素晴らしい響きだが同時に、悪魔のような顔も持っている。悪魔の正体、それはそう、夏休みの課題である。今年も去年同様たっぷりと出された。正直なところ、俺の能力的に全てを夏休み中に終わらせる事は出来ないであろう。誰か課題を一緒にやってくれる犠牲が必要だと思うが、仲の良い友達とは疎遠になってしまった。なんでも遠くの大学が併設してある国立学校へと進学して行ったらしい。その事実を後に家族から伝言ゲームのように聞かされた時は目を見張った物である。いつも一緒に馬鹿やっていた友達が頭の良い大学に行ったのである。才能ある奴は違うな、と一人感心したのを覚えている。
そういえば、夏休みだし帰ってきてるのかアイツ?
ふと脳裏に過った言葉だが、直ぐに首を振って考えを拭い去った。そして俺は乾いた笑みを浮かべながら、机に並べていた棚から一つのクリアファイルを掴んだ。透明なファイルには、今年の課題の一覧が御丁寧に書かれてあった。しかも各担当者からの愛のメッセージも漏れなく着いてきていた。まさにプレミアムものである。しかし、男子教師からのハートマークのメッセージは背筋を凍りつかせるものであった。いったい彼の身に何があったのだろうか……、いやきっ新婚気分をまだ味わいたいんだろう。
くそ、リア充がッッ!
……おっと失礼。思わず本音が飛び出てしまった。俺は一人笑いながら、課題一覧を眺めた。そして、最後の課題項目を見て、俺はさらに項垂れた。それは我が校に誇る美人教師からの現代国語の課題であった。
『現代国語課題:創作作品(短編でも長編でも可)提出期日:夏休み明け即日』
思わず言葉にもならない呻き声が口に含まれた。頭を覆い、クリアファイルを掴む手に力が入る。悲鳴の声を上げないファイルを見つめながら、俺はもう一度深く息を吐くと、投げ出すようにファイルを手放した。風に乗り机の上から滑り落ちたファイルを横目で見送りながら、俺は再び椅子に凭れかかる。
「無理だろ、絶対」
そんな愚痴が飛び出る。相手が見えないからこそ言える文句である。相手がコレを聞いたら問答無用で「明日にでも提出しろ」と脅すだろう。自分をあざ笑うかのような乾いた笑みを零し、俺は半ば仕方が無しと考え、勢いよく背もたれから身を起こした。机の端に積み上げられた課題の山に俺は手を伸ばす。
そもそも今回出された課題は、噂では美人教師が彼氏にこっ酷く振られた腹いせに出したものらしい。出所は不明だが、課題を出し数日たった後、別クラスの人間が挙って何やらコソコソと話していたのを立ち聞きしてしまっただけである。人の噂とは信憑性が無い。噂とは人から人へと伝わり、根も葉もないというのにまるで事実のように事作り上げてしまう。だから伝言ゲームで伝えられた言葉には確信を持って聞いてはいけない。コレは俺が生きてきた人生の中でもっとも感じた教訓である。
ちなみに、現代国語の美人教師はその言葉通り美人である。しかし、誰にでも欠点の一つや二つある。そしてその美人教師にも欠点があった。それはそう、性格である。面倒見は良いのだが、一度懐に入れた相手はとことん甘やかす性分らしく、さらに嫉妬深いようでもある。傍から聞いたら可愛らしいの一言で済ませそうなのだが、その彼女の彼氏モドキになった男たちは揃って言うのである。『あの女は危ない』と、まあその話しは当事者にしか分からないので俺には正直言ってどうでもいい。美人だと思うが付き合いという気持ちにはなれない。まあ、教え方など上手く、良い教師であることは認める。
……まあ、そんな話などどうでもいい。問題はこの課題である。
「一介の男子高生になんつぅーモン出してんだよ、まったく」
呆れながら俺は積み上げられた課題のピラミッドの間から、近くのコンビニに慌てて買い求めた原稿用紙を引っ掴む。そしてその上に積まれてある一式を落とさないよう慎重に、慎重に原稿用紙だけ抜き取る。ものぐさな俺だからやる行動である。ハッキリ言って二度手間になっても安全を取るべきなのだろうが、生憎と俺の脳には安全とか安心などの二文字は無かった。
自分でも己の行動に呆れる中、俺は何とかグラグラと揺らぐピラミッドの間から原稿用紙の入った袋を抜き取った。開けてもいない新品の原稿用紙が早く開けてくれと言わんばかりに主張しているようにも見える。いや、気のせいであろう。俺は頭を振り、思考を切り替えた。封を切り、原稿用紙を机に置く。散乱している筆記用具を適当に掴み、俺は机と向き合う。しかし全くと言って良いほど進みは遅い。というより、ペンを片手に固まってしまう。何を書こうかなど全く考えてもいなかった。ただ無情に机の中心を陣取る原稿用紙を睨みつける。俺は何度目かの深い息を吐いた。
そして再び背もたれに寄りかかり、天井を見上げる。色褪せた壁紙を見つめながら、ふと走馬灯のように過去の記憶が呼び起こる。流れるように過ぎ去る光景に、俺は思わず顔を覆う。目を閉じ振り払おうと頭を振った瞬間、誰かの声が聞こえた。
「え?」
覆っていた手を外し、周囲を見渡す。しかし、部屋に存在するのは自分しかいない。それに俺は現在進行形で音楽を聞いている。その証拠にイヤホンから耳へとダイレクトに爆音が鳴り響いている。
ならば先ほど聞こえた声はなんだったのだろうか?
ふと脳裏に過る言葉だったが、答えが出ることも無く、俺は空耳だろうと自己完結することにした。俺は首を振り、思考を切り替える。机に向き合い原稿用紙を見つめる。真っ白な紙にとりあえず名前だけでも……、と思いたちクラスと名前を記入する。題名さえ無い作品に笑いながら、俺はどうしたものかと首を捻った。唸るように鼻が鳴る。
けれど幾ら頭で考えても、俺の木偶の坊みたいな頭は何のアイディアも出てこなかった。
お手上げだ、そう思った時だ。……風を感じた。それも生温かい気持ち悪い風である。しかし、俺の部屋の窓は閉まっている。おまけに鍵までかかっている。
もしかしたら錯覚か?とも思ったのだが、そう思った瞬間、俺は自分の頭の中が空っぽになっていくのを感じた。徐々に気力が無くなっていく自分に俺は目を見張った。恐怖を抱く前に、俺は闇へと沈んでいく思考と共に意識まで失ってしまった。
*
――午後八時を回った。外はもう薄暗いどころか真っ暗であった。しかも今日は新月。月の明かりさえも頼りにならないそんな日に、少年とその友人二人は、誰もいない無人となった校内を徘徊していた。非常灯の明かりだけが唯一の頼り、少年はそう思いながら先導する友人を窺い見る。
初夏を過ぎ、秋としての肌寒さがにじみ出てきた。そんな中、十、二歳の少年二人は保護者も連れずに二人だけで学校にいた。
理由を言うならば、それは少年の隣を歩く友人にある。実はこの友人、人柄も良く人望も厚い、元気なクラスの人気者である。しかしそんな彼だが、勉学の才はからっきしで、事あるごとに「忘れた」と称して宿題無提出を貫き通していた問題児なのである。初めのころは優しく諭していた担当教師であったが、流石に半年も経つ頃からは青筋を立てて友人を叱りつけていた。少年もそんな二人をよく見ていた。酷い時は巻き込まれる時でさえあった。少年はその時の頃を思い出し、思わず項垂れるように前のめりになり肩を落とす。零れ出る溜息に少年の心は重苦しくなる。
「ん、どうした?」
急に項垂れる少年を心配し、友人が声をかける。少年が見上げるように見れば友人は明るい笑みを浮かべながらニシシと笑い声を漏らす。どうやら彼はこの状況を楽しんでいるようである。少年はそんな彼に思わずムッとするも、直ぐにその思いは沈んだ。
少年は何も言わず静かに首を横へと振る。すると友人は首を傾げるも「そうか?」と目を丸くする。無言で肯定の意味を込めて頷けば、友人は再び笑顔を作ってみせた。
「んじゃ、とっとと行って、パパッと取ってこようぜ!!」
高らかにそう言えば、校舎全体に友人の声が響き渡る。誰もいない校舎、大声で発言すれば響き渡る事は当然なのだが、二人は思わず身を震わせ驚いた。少年は直ぐに隣の友人を睨みつける。すると友人も少年の無言の訴えに申し訳なさそうに眉を下げた。そんな友人を一瞥し、少年は静かに落胆した。
「……良く言うよ、人の事勝手に巻き込んでおいて」
ギロリ、と据わった目を友人に向ける少年。そんな目を向けられ、友人は焦った顔を見せた。
「それは悪かったって!
しっかし、持つべきものは友だな!!」
ニシシ、そう笑みを零し友人は、バシバシと少年の肩を遠慮なく叩く。いきなりの攻撃に、少年の表情が険しくなる。しかし友人はそのことに気が付いていないのか、好きなだけ叩いた後は、腰に手を当てどこ吹く風であった。少年は叩かれた場所が少し熱を持ち始めた事を知り、腫れているのであろうと静かに察した。咎めの声を出そうと考えたが、無駄だと瞬時に理解した少年は、逆に先ほど言った彼の言葉に思わず疑いに似た問いかけを口に出していた。
「……よく、そんな言葉知ってるね」
むしろ驚愕である、と言った感じの雰囲気で少年は言う。すると友人は首だけ少年の方を向き、怪訝そうな顔を作る。
「バーカ、この前の授業でやっただろう?」
友人にそう言われ、少年は首を傾げる。
「あれ、そうだっけ?」
頭に手を置き、ポリポリと掻く中、そんな呟きを放つ。囁きにも似た小ささだったにもかかわらず距離が近かったためか、友人の耳にも少年の呟きは拾われた。
「そうだよ、忘れんな」
呆れに似た目を向けられ、少年は思わず低姿勢を取る。
「ごめん……て、なんで謝ってんだ?」
掻く事を止め、頭に手を置き謝る。すると直ぐに自分の行動に疑問を抱く少年。思わず声に出せば隣を歩く友人は言葉にならない呻き声を出しながら静かにポツリと言った。
「……成り行き?」
「…………なるほど?」
思わず半音が上がり疑問文になってしまう。しかし友人も少年も大して気にも留めず、静かに歩き続けた。
そう、二人が何故この誰もいない無人の校舎に忍びこんだのか。それは全て友人のせいである。先ほども説明したが彼、宿題を出さない問題児である。そんな悪童に心の広い担当教師も流石に堪忍袋の緒が切れてしまった。今まで聞いた事の無い怒鳴り声と暴言、よほど溜めこんでいたのかキレた教師は遠慮なく純粋に近い心持つ小学生相手に暴言と言われても反論できない説教を友人にぶつけた。流石に図太い友人でも泣くかと思ったのが意外に胆が据わっているのか、はたまた眼中にないのか彼の表情には無であった。しかも目は担当教師ではなくその後ろに居る少年を見ていたと後に証言した。
なんやかんやで怒鳴り声を聞きつけた隣の教師のお陰で担当教師は宥めたが、しかしまだ興奮状態だった担当教師は友人を指さし怒鳴り散らした。まあ簡単な話、散々教師を困らした友人に教師が宿題を投げつけたのである。しかもそれが出来れば金輪際、宿題提出をしなくてもお咎めなし、と言われ友人の死んだ目がキラキラと輝いた。まるで初めて目にする玩具を与えられた赤ん坊のようであった。友人はその言葉に一言「分かりました」とだけ言い、その宿題をやると宣言。その言葉に教師が涙目で喜んだ瞬間、少年の心は哀れみに包まれた。思わず教師に元気づけるようにポンと肩を叩いたのを今でも覚えていた。
……さて、此処から先が問題なのである。その肝心の宿題を受け取ったものの、その重要な宿題を友人は学校に置いてきてしまったのである。しかもそれに気がついたのが夕御飯を食べ終わり、風呂に入ろうとした時らしい。手遅れだと誰もが思う中、友人は諦めることをせず、けれど一人だと流石に不味いと感じたのか少年を電話で呼び出し、問答無用で連れだしたのである。そして二人は仲良く無人の校舎を練り歩いているのである。
暫く無言が続いていた二人だったが、友人が思い出したように声を出した事によってそれは打ち払われた。
「思ったんだけど、夜の学校って初じゃね?」
その声はどこか嬉しさと優越感で一杯だと感じられた。キラキラと目を輝かせる姿は昼間の彼を彷彿させられた。しかし少年はそんな友人の発言に呆れた顔をした。
「当り前じゃん、しょっちゅう学校に忍びこんでたらそれこそ不味いでしょう?」
溜息が飛び出る。肩を落とし項垂れれば、友人は軽い声で流した。
「まあ、そうだよなー…………。
でさ、思ったんだよ!」
「なにが?」
ウキウキとする友人に嫌な予感を感じるも、それを拒否する事など無理だろうと知っている少年は素直にそう聞き返す。
すると友人は満面の笑みを浮かべ発言した。
「やっぱり、夜の学校は雰囲気あるよな!」
その言葉に、思わず少年の肩が震える。気付きたくも無い事を気付かされ、少年は険しい表情を作る。しかし先導する友人はそんな表情には気づいてもいない様子。少年の心に苛立ちが募る。
「止めなよ、仮にも学校内で」
少年の飛び出た言葉はどこか棘のついた物だった。思わず少年は口を抑え、眉を寄せた。こんな言葉を言うつもりは無かった……そう愚痴る中、対面する友人は少年の言葉に一瞬だけ冷たい目を見せるも、すぐにニヤニヤっと、嫌な笑みを作った。
「怖いのか?」
意地悪く笑う友人に怒りが芽生える少年。しかし、彼に言い返そうにも言葉が出てこない。つまり自分は怖いのだ。そう実感させられ、少年の頬は少しずつ赤くなる。顔を俯かせ、心の中で静かに悪態を吐く。 恥ずかしい、そう吐き捨てた矢先の出来事だった。隣を歩く友人の足が止まった。
突然の行動だったが、少年のまた、遅れながらも彼にならって足を止めた。ふと頭上を伺えば見慣れた番号が書いてあった。
少々薄汚れたプラスチック製のプレートを見て、少年は直ぐにそこが自分の教室であることに気がついた。友人も確認のためか見上げたが、直ぐに目線を扉に写すと、何も言わず扉を開けた。ズカズカと遠慮なく入る姿に思わず笑う。まるでその姿は自分の家に入るかのような堂々としたもの。そして少年もまた、ここは第二の家だと思うことがあるのか、彼と同様に、しかし彼とは違い、静かに中へと入っていく。
ゆっくりと目だけ友人の方へと向ければ、彼はいち早く自分の席に向かいガサゴソと音を立てて中の物を物色していた。いくつもの教科書が彼の机の上に積み上がっていく姿に、少年は思わず頭を抱えた。
「ちょっと、殆ど置き勉してるの?」
少年が諭すように言えば友人は聞いてるのか聞いてないのか曖昧な言葉で返す。
「あー、うん?」
少年は瞬時に友人が話を聞いていないことを悟ると、静かに肩を落とし重く息を吐いた。トボトボと足取りを重くしながらも、少年は彼から離れ、自分の席へと移動した。
少年と友人の二人しかいない無人の教室。それは何処か殺風景であり不気味であった。少年は先ほど彼に言われた言葉を思い出した。
『怖いのか?』
そう尋ねてくる声が脳の中で反響する。またしても頰が熱くなる。怖いと素直に言えない、それは子供特有の意地である。下手に言えば揶揄われるのは目に見えている。だからこそ少年は苦虫を噛み潰したような顔をして自分の席を睨む。
少年の席は教室の一番奥にある。それも窓際である。教卓から離れているせいか、教師の目からも逃れられ、分からない問題を当てられる心配は無い。しかも暇になれば外の景色が一望できる特等席。何人もが男子が少年の席を譲って欲しいと強請って来た。しかし、この席順は担任教師が決めた物。それを生徒の一存で、しかも自分の欲望の為に席を変える事など出来る筈も無く、言うだけ言って皆項垂れて自席に帰って行った。
対する少年はその席に対して特に魅力的に感じた事など一切無かった。まあ少年としても外の景色が見えるこの場所は確かに素晴らしいと思う瞬間はあった。この学校は中庭がなんとも綺麗なものである。自然を大切にする、それが学校のモットーであった。その為、学校の校庭や中庭、それから教師たちが駐車する場所、あちらこちらに木々や花壇、池などがあった。池には鯉がいて、現れては消えての繰り返しを行う彼らに子供たちは面白可笑しそうに見ていた。冬になれば池の水面は氷り、子供の体重なら乗る事さえ出来た。流石に割れ目があれば乗ることはおろか入ろうとも思わない。
そんな自然で溢れている庭々は夏場はまるでパレードである。花の蜜に誘われやってくる蝶や蜂。そしてそれらを捕食しようとするカマキリや蜘蛛。少年も夏の中庭の景色は好きで教師の目を逃れ、しばしば見入っていた事を思い出した。そんな夏が終り、秋が来た。少年はあの時の光景を懐かしむようにして、自分の席を見つめ、そして何気なくその表面を指の腹でなぞった。昼間だと日に照らされ熱くなる机だが、夜の冷たさに思わず笑みが出てくる。肩を震わせ一人笑っていると、友人が大きな声を上げた。それに対しても肩を震わせ、なんだか一人可笑しくなる少年。こみ上げてくる笑みを殺しながら、少年はゆっくりと動き、友人に顔を向けた。目が合い、笑う友人。そして手に持っている紙の束に、少年は全てを察する。しかし、少年はあえて訊ねた。
「あった?」
小首を傾げそう問いかければ、友人は歯をむき出ししてVサインを作って見せた。
「とぉーぜん、だろ?」
高らかに、そして何処か誇らしげに忘れた課題を突き出し見せつける友人。それに少年は自分の顔が、笑顔から苦笑に変るのを感じた。
そんな二人が教室を出たのは時計の針が丁度、九時を指差した時である。それまで二人は教室内で他愛も無い話をした。別に特別な内容では無かった。担任の事、今日一日の事。さらには好きな女の子の話。二人は笑い合い全て話合った。二人だけ知っている話題なども持ちだし、二人で腹を抱えて笑った。そんな楽しい時間も、終りがある。二人はひとしきり笑い合うと、何の合図もなく頷き合い教室を出たのである。
どれだけ歩いたのだろうか……、暗闇に慣れた目でさえも慣れない夜の学校。昼間とはまた違う学校に歩む速度もオドオドしいものだった。しかしそんな中を友人は思い出したかのように呟いた。
「そぉーいえば、この学校の七不思議って聞いた事ないよな?」
七不思議、その単語に思わず少年の脳内に、暫く前に読んだ「学校の怪談」という本が登場した。少年は思わずその中に出てくる怪談の一つを口にした。
「トイレの花子さんぐらいじゃないのかなぁ、鉄板ネタだし」
「バーカ、トイレの花子さんは女子トイレだろ?
俺らには関係ねぇじゃん」
それもそうだと少年も思い頷く。それを見て友人はケラケラと笑う。
しかし、友人が笑い治まると同時に、彼はふと反対側の廊下を見た。釣られるようにして少年も見つめた。けれども廊下の先に何かがある訳でもなく、少年はただただ首を傾げるだけだった。不気味な静寂だけが残る空間、少年は友人に手を引かれた。それも力強く。あまりの唐突に反応が遅れる。しかし友人はそんな少年の事などお構いなしに、手頃な教室に入ると、扉を閉めるように少年に言いつける。少年は言われるがままに、扉を閉めた。そんな訳が分からない少年を余所に、友人は扉を閉めた事を確認すると何やら忙しなく周囲を見渡した。そしてある一点の場所を見つめたと思うと、嬉しそうに顔を綻ばした。
再び力強く引っ張られ、少年の足元は縺れる。しかしなんとか踏ん張り、転倒する事だけは免れた。流れるように少年は友人と共に教卓の中に滑り込んだ。少し狭い、そう思う少年だがそこまで気にする様なものでは無かった。
少年はホッと息つくと同時に、友人を見た。見れば友人は眉間に皺を寄せ、険しい顔を作り何やら廊下をチラチラと見ていた。意味が分からず、少年はただただ首を傾げて見せた――。
*
――どうやら眠っていたらしい。俺は凭れかかっていた背凭れから身を起こし、大きく伸びをする。固まっていた身体を伸ばすと、ポキポキッと関節などが悲鳴を上げた。
……なんとも不思議な夢だと思った。
二人の子供が夜の学校を体験するという、今の世の中ではありえない夢であった。今のご時世、どこもかしこもセキュリティーが厳しく管理が徹底されている。よく宿直室などで住み込みで泊っていた教師がいることを昔はやっていたらしいが。それが無くなってからは世の中は全て機械に任せている。まあ、人の目では捉えきれない部分がある。それを補うと考えれば今の現状が得策なのであろう。しかしそれだと如何せん楽しみが無いと思ってしまう。不謹慎だと思われても仕方が無いだろうが、やはり学校とは一度でもいいから忍びこんでしまいたいと思う場所である。まあ、流石に一人で行きたいとは思わないが……。
俺は口元を緩め、目を瞑る。
思い描かれたのはひと昔前にやった肝試しである。あれも丁度、夢に出てきた彼らぐらいの時であろう。なんとも懐かしい、思い出に浸り懐かしむ中で俺はふと、今更ながらあの夢について小首を傾げた。
「なんで、あんな夢……」
口から零れ出た呟きに、答えを返す者など誰もいなかった。目線を机に向ける。すると机の上には原稿用紙が置かれていた。俺は思わず首を傾げるも、すぐに数分前の記憶が呼び起こされ、直ぐに納得した。
その時である。身体の淵からふと、何かが溢れ出て来る感じがした。湧き上がるそれが一体何なのか、答える術など何処にも無い。むしろ答えを求めても的確な答えがくるとも思えない。
俺は半ば衝動的にペンをとった。
向かうは原稿用紙。
もちろん、理由など無い。いや、分からないと言った方が正しい。しかし、俺では無い誰かが訴えるのだ。もしかしたら手に持つペンかもしれない、それともペンを持つ手なのかもしれない。俺は緩む口元を必死に引き締めながら、動き出す手を見つめる。手は動き、まるで操られたかのように動き出す。それを止める者は誰一人としていなかった。
俺は漠然とした気持ちで書いていた。見れば書いていく内容は先ほどの夢の内容であった。俺は一瞬、自分の目を疑う。
手はなお動き続ける。
物語の少年の名を『紅』と名付け、友人を『聖』とした。二人は教卓に隠れたまま何も発言しない。すると、そこで意を決して紅が喋りはじめた。
それから先は俺も知らない夢物語である――。