買い物とお風呂
母ちゃんと一緒に買い物にいった。学校から帰ると僕は夕食の買い物にいく母ちゃんに付き合うようにしている。今日は兄貴も一緒だった。僕は小学四年生で、兄貴は小学五年生だ。僕たちはとても仲が良い兄弟だった。
野菜売り場のところにいくと、たくさんの野菜がずらーっと並べてあった。母ちゃんはその中からナスでもキュウリでもトマトでもなく、ジャガイモとニンジン、そしてタマネギを手に取った。昨日はナスとトマトとキュウリを買っていたが、今日はその三つだった。カレーを作るのかな? 僕が質問しようとすると、兄貴が待てというように手で遮ってきた。
「ここは俺がいう」
と兄貴はいった。僕は、
「何で?」
ときいた。きいたけど僕にはその理由の大体が分かっていた。兄貴はいつも僕の先をいきたがるのだ。今回もそれが理由だろう。僕が質問する前に、兄貴が質問したかったんだ。
僕は兄貴に質問していいよ、といった。うん、と兄貴が頷いた。それから、質問した。
「母さん」
兄貴は母ちゃんのことを僕と違って、母さん、と呼ぶ。
「なあに?」
「今日はカレーを作るの?」
「いいえ、違うわ」
兄貴は一瞬、え、というような顔になった。僕も顔には出さなかったけど、心の中で、え、と思った。
「今日はカレーじゃなくて、カレーライス」
と、母さんがいった。
何だ、そういうことか。兄貴も僕も納得した顔になった。難しいなぞなぞの答えをきいたときのような顔だったと思う。兄貴は、そういう顔をしていた。
結局買ったのはカレーに使うジャガイモとニンジンとタマネギだけだった。母さんと兄貴と一緒に店を出ると、外はもうすっかり日が暮れていた。今は冬だから太陽が外に出ている時間が短いのだ。でも、あれーー今日の昼間のことを僕は思い出そうとした。確か、今日の昼間は真夏日のように暑かったはずだ。しかし、何も思い出すことはできなかった。今日の昼間のことがだ。もう一度思い出そうとしたが、やはりできなかった。
「ねえねえ、兄ちゃん」
僕がそういうと、兄貴は僕の方を振り向いた。僕たちは今、縦に並んで歩いているところだった。先頭が母さん、真ん中が兄貴、一番後ろが僕、といった順番だ。
何だ、と兄貴がいった。
「僕、今日の昼間のことを思い出そうとしたけど、なぜかできないんだ。今日の昼間はとても暑かったはずだったんだよ。でもわからないんだ。今日の昼間は暑かったっけ?」
兄貴は僕の方を向いたまま、いった。首にしわが寄っていた。
「知らないよ、そんなこと。でも今日の昼間はとても暑かった気がしないでもない。何で急にそんなことをきくんだい?」
「よくわからないからだよ」
僕はいった。兄貴はそうかと呟いて、前に向き直り歩いていった。僕たちはそれから、家に着くまで一言も喋らなかった。
家に着くとまず母ちゃんに手を洗いなさいといわれた。
「えー、でもどうせこの後お風呂入るんだから、二度手間じゃないか」
と兄貴がいった。我が家では食事はお風呂に入ってからなのだ。食事してからお風呂に入るとお腹が痛くなる、ときいたことがあった。だからこれはいいことだと僕は思う。
「今日はお風呂に入らないのよ。手を洗ってきなさい」
と母ちゃんがいった。
僕たちはそれをきいて顔を見合わせた。お風呂に入らない。今そういったの? 僕は兄貴に向かってきいた。そういったな、と兄貴が返す。
「早く手を洗いなさい!」
母ちゃんが怒鳴ったので、僕たちはそそくさと手洗い場に向かった。向かう途中、僕は心の中で快哉を叫んでいた。きっと兄貴もそうしているに違いない、と僕は思った。
お風呂に入らないというのは我が家にとって、何かいいことがあったときにやることの一つだった。他にも色々とあるが、お風呂に入らないというのが一番多かった。我が家では父ちゃんが全てを握っている。母ちゃんは王に仕える家来みたいなものだった。といっても、暴力だとか、ひどい仕打ちをさせられているわけではない。僕の父ちゃんは、とても優しい。休日には遊んでくれるし、この間なんか遊園地に連れていってもらえた。そこで兄貴とジェットコースターに乗ったときのことは忘れない思い出だ。思い出すと、そのときの情景が浮かんでくる。兄貴は僕の隣に座って、力の限り叫んでいた。真っ暗な牢獄から湧き上がる囚人の悲鳴みたいだった。こんな怖い表現をしているけど、実際はとてもおかしかったのを覚えている。おかしくて、ジェットコースターからおりた後も僕は笑っていた。兄貴は無言で僕を見つめていた。
話を戻すと、つまり今日は何かいいことがあるということだった。何かに入るものはわからない。ただ、何かいいことがあるのだった。何かいいことがある。そう思った。もっといおう。何かいいことがるのだ。とてもいいことだ。何だろう。考えた。
けどわからなかった。