05 明けの明星
ある朝、ノルベルトとアシルの二人が教室に入ると、そこにいた皆が三谷という少女の席に集まっていた。挨拶をした後、何があったのかと二人は尋ねた。
「留学生だって。またうちの学年みたい。今朝、先生から聞いたの。今度は女の子が二人みたいよ」
三谷が教えてくれた。
「留学生……どこから?」
ノルベルトが尋ねた。
「さあ、たしかアメリカからだったと思う」
二人は顔を見合わせた。別に留学生が珍しいわけではない。確かに昔ほど世界的な留学生の人数はいない。だが、金さえあれば今でも留学はできる。ただ何か嫌な予感がしたのだ。しかし、自分たちに未来予知の能力はない。なので、二人は何も言わなかった。
だが、異変をはっきり感じたのはそのすぐ後だった。廊下を歩いて教室を移動している最中、隣の教室の前を通った時だ。明らかに空気の匂いが変わっていた。窓が閉まっていたので中までははっきりと確認できなかった。しかし、これはよく知った匂いだ。日本に来てからは触れる機会が減ったが、この鼻につく嫌な匂いを忘れるわけがない。硝煙の匂いだった。
「この歳で硝煙の匂いばらまく奴に、ロクなのいねえだろ」
ノルベルトが笑う。
「俺たちも人のこと、言えねえけどな」
アシルも笑った。二人の笑い方は、どこか自嘲気味だった。
その日の昼休みのことだ。教室では隣のクラスに入ってきた留学生の話でもちきりだった。わざわざ見に行く者もいた。自分たちが来た時と一緒だ。二人はそう思った。わざわざ隣のクラスや他の学年から見に来る者がいたのを思い出した。だが、一瞬にして教室の中が静まり返った。自分たちに注がれる視線をはっきりと感じながら、ノルベルトがそっぽを向いたまま喋った。
「俺達に何か用か」
少女の笑い声がした。
「ちょっとお話したかったの。留学生、私たち以外にもいるって聞いたから」
英語で返された。ため息をつき、二人は席を立った。振り返ると、廊下には二人の少女が立っていた。一人は黒髪をショートボブにした冷ややかな目の少女だ。もう一人は茶色いウェーブした長髪を持った目の大きな少女だ。黒髪の少女よりも背が低い。
少女二人は愛想よく笑った。
「ついて行けばいいのか?」
アシルが尋ねる。茶髪の少女がにこっと笑って頷いた。二人はおとなしく少女達に従った。背後から好奇の視線が突き刺さる。だが、誰一人ついて来ようという者はいないようだ。
着いた先は、ゴミ捨て場の裏だった。プールの近くで、今は使われていない焼却炉と、分別してゴミを出すスペースと、腐葉土を作る区画が設けてある。周りは木に囲まれており、特に昼休みなどに人は滅多に来ない。
「おいおい、こんなとこで何の話をしようってんだ。ロマンチックにもほどがあるぜ」
ノルベルトがとぼけてみせる。少女二人が振り返った。
「話すだけならどこでも良かったんだけど……私たちには、ここがお似合いだと思って」
黒髪の少女が言った。
「私はローザよ。ローザ・ハリス。中華系に見えるけど、ちゃんとボルティモア出身なの。よく疑われるからね」
彼女は笑った。だがノルベルト達は表情を変えない。
「私、アイリーンっていうの。アイリーン・ヒューストン。よろしくね」
四人の間にしばし沈黙が流れた。
「名前、教えてくれないの?ノルベルト・シュヴェーダ君と、アシル・ロレオン君?」
アイリーンが上目遣いで二人を見た。ノルベルトがあからさまに嫌そうな顔をする。
「先に名前知ってるなんてね。誰かに聞いた?」
ローザとアイリーンがにこっと笑った。次の瞬間、彼女たちは懐からナイフを出した。ナイフが宙を切り裂く。アシルの首すれすれのところをナイフが飛んでいった。ナイフが彼の後ろの木に刺さる。だが、アシルは微動だにしなかった。ノルベルトは右手の人差し指と中指で器用に刃を挟んでナイフを止めていた。
「なんで、避けないの」
悔しそうにアイリーンが言う。アシルが笑った。
「当たらないのが分かってたからね。角度、風の方向、スピード。当てる気、なかったでしょ」
ばかやろう、と隣でノルベルトが舌打ちした。
「こいつは当てる気満々だったぜ」
そう言ってローザを睨む。ローザも彼を睨み返した。あのままナイフを止めていなければ、ナイフは確実にノルベルトの額に刺さっていただろう。もう、とアイリーンがローザに向き直った。
「だめじゃない、ローザ。今日は話するだけってあれほど……」
「悪かったわね。こいつの顔みたら無性にいらついたのよ」
ローザが腕を組み、つんとそっぽを向いた。
「なんだとてめえ……」
ナイフを握り、ノルベルトが顔をひきつらせる。それをアシルが呆れたように止めた。そして彼は尋ねた。
「で、なんだってこんな丁寧に挨拶してくれるんだ」
ローザを止めながら、アイリーンが彼を見た。
「フランス陸軍っていうの、本当かどうか確かめたかったの。だって、あなたたち、データに名前がないんだもの。でも、本当みたいね。ちゃんと正規留学できるってことは、身分証明ができてるってことだもんね。それに、さっきの反応すごかったよ」
それはどうも、とアシルがにこやかに返した。
「で、あんたらは何?」
ノルベルトがぶっきらぼうに言う。
「モルゲンシュテルン」
ローザが短く答えた。
モルゲンシュテルンとは、明けの明星という意味を持つ。ドイツ系の女性がリーダーを務める傭兵団のことだ。特徴的なのは、構成員が皆女性だということだ。今はアメリカ連合に飼われている。
「アメリカの犬が、何か用か?」
ノルベルトの問いかけに、別に、と彼女は返した。
「ただの留学よ。私たちが希望したの。そしたら懐かしい二人がいたから思わず声をかけたってわけ。三年前、キエフにいたでしょ?私たちもそこにいたのよ。あなたたちは忘れたかもしれないけど、私はよく覚えてる。だって仲間を殺した奴らだもんね。忘れたことなんてない」
「だったら、俺たちを殺しとくか?」
余裕のあるノルベルトの顔に気分を害されたのか、ローザの表情がだんだんと険しくなる。
「手が滑るかもね。でも、ここは中立国だから無駄な面倒事は避けたいわ」
「ああ、やめといた方がいい。俺たちはいずれ、世界の平和のために必要になる」
ノルベルトが言った。どういうこと、とローザとアイリーンが彼を見た。
「文字通りの意味だ。それに……」
アシルが言う。次の瞬間、少女二人は腕をねじ上げられ、取り出したナイフを奪われていた。何が起こったか分からないといった表情をしている。
「あんたらじゃ敵わないから」
アシルが言葉の続きを言う。彼に動きを封じられたまま、アイリーンが悔しそうにアシルを睨んだ。
常人には有り得ない体力、スピード、反射能力。
「何なの、あなたたち……」
ローザが呟く。
「世界の救世主」
ノルベルトが笑った。そして彼はローザの足に視線を落とした。
「学校にいつもこんな装備して来てんのか」
そう言い、彼はローザの腿に軽く触れた。腿にベルトを巻き、そこにナイフが隠してあった。ローザが顔を赤くして思い切り彼に平手打ちを食らわせた。よく響く音がして、ノルベルトが思わず手を放す。
「どこ触ってんのよ、馬鹿!」
ノルベルトがぽかんとして彼女を見る。
「え、どこって、足」
「馬鹿!くたばれ!」
ローザはナイフを二本投げ、そのまま走り去った。ノルベルトは二本のナイフをわずかな動作で避けた。一本は木の枝に刺さり、もう一本は地面に刺さった。
「あ、待ってよ、ローザ!」
アイリーンがもがき、アシルが手を放す。ごめんねと小声で謝り、彼女はローザを追いかけて走っていった。
「なんなんだ、あれは」
呆れたようにノルベルトが呟く。彼は叩かれた頬をさすった。少し赤くなっている。
「お前にそのまま返すよ、その言葉。女子生徒の足触るとか、昼間っから大胆な変質者だな」
なんだと、とノルベルトがアシルを見た。
「それにしても、モルゲンシュテルンか。あいつら、確かに見たことある。キエフの独立軍にいた。傭兵として雇われてたんだな。あれ、俺たちが実験で派兵されたやつだろ」
そうだな、とアシルが返事をした。
三年前、移民によって民族間の紛争が絶えなかったロシア解放区の主要都市キエフで大規模な民族紛争が起こった。ロシア解放区からの独立を求める軍と、押さえつけようとする解放区軍に分かれて戦っていた。そこにアシルとノルベルトも参加した。ただし、独立軍ではなく、解放区軍の一員としてフランスから派遣されたのだった。リミッターをほんの少ししか外さず、銃で戦闘に参加するよう命じられた。そこでたくさん手にかけた。その中に、モルゲンシュテルンのメンバーがいたのは覚えている。まだ髪が長かったローザを庇うように戦った女性がいた。彼女の仇を討とうとして立ち向かってきた女性もいた。忘れるわけなんてない。この手にかけてきた者達の顔は、忘れられない。
無言のまま、アシルが投げられたナイフを回収した。刃を陽に透かして彼は悲しそうに微笑んだ。
「必要なかったな。こんなもの」
そう言って腰に巻かれたベルトにナイフを挟んだ。そこには彼がもともと持っていたナイフがあった。
「だけど、あいつらの目的はまだ判明していない。中立国だから殺らないとか言っていたが、警戒はしといた方がいい」
ノルベルトがアシルからナイフを一本受け取り、懐に隠した。
「フランスへの報告はしておくか」
そうだな、とノルベルトが答えた。そして彼は不敵に笑った。
「必要があれば中立国だろうが関係ない。邪魔が入らないところで消した方がいい」
二人は空を仰いだ。今日はばかみたいに晴れている。毒々しい色の雲はない。空気も比較的綺麗なようだ。青い空が突き抜けるようだ大昔の人達が、天が球体だと勘違いしたのも頷ける。風が吹き抜けた。木々の葉を揺らす。音が耳に心地よい。この空のずっと向こうでは、今なおくだらない争いが続いているというのに。