04 幻影
また別の日のことだ。いつものように授業が進んでいた。二人が退屈そうに受けていたのは社会科だった。地理の教科書を持ち、眼鏡をかけた痩せ気味の中年教師が喋っている。気候や変形した地形など、二人にとっては一番基本的なデータばかりが喋られる。しかし、どれも古いデータだ。こんなものが最新版の教科書に載っているなんて、大丈夫だろうか。
生徒の中には熱心に聞いている者もいれば、うたた寝をしている者もいる。ノートを広げて別の作業を、いわゆる内職をしている者もいる。その中でノルベルトとアシルは教科書を開いているだけで、ノートもとらず、窓の外をぼんやりと眺めていた。青い空には鮮やかな緑の雲が浮かんでいる。どこから流れてきたのだろうか、あの瘴気の塊は。
すると、そんな二人に教師は目を止めたようだった。
「じゃあ、ノルベルト。オセアニア連盟国の環境と工業について説明してみろ。ぼーっとしてるなら、出来るんだろうな。俺は留学生だからって甘くはせんぞ?」
はい、と適当な返事をしてノルベルトが立ち上がる。うとうとしていた生徒まで目を開き、彼の方を見ていた。中には心配そうに彼を見る者もいる。だが、構う様子もなくノルベルトは喋りだした。
「二〇四八年頃から各地で水害が相次ぎ、二〇九四年には二〇〇〇年に比べて海抜一〇〇メートル以内の地域が水没。シドニーやブリズベンなどにあった工場は内陸に移動を余儀なくされました。また、砂漠化が進行し、動物の放牧が政府によって制限され、同時期にアメリカ連合に拠点を置くテロリストによる無差別攻撃があり、混乱の中経済が崩壊、羊などが野放しにされました。同時にL54―V9型ウイルスのパンデミックが起こり、羊を媒介として人々に多大な被害が出ました。その消毒活動のために散布された消毒液の副作用で、旧オーストラリア連邦のウォルゲットや旧ニュージーランドのへースティングスでは土壌汚染問題も深刻です。工業に関してはメルボルンを例に挙げると、以前は自動車工業や食品加工業などが盛んでしたが、英豪戦が始まった時期から軍需産業が盛んになり、かつて豊富だった地下資源を活用して建艦が行われました」
ノルベルトが一息ついたところで、教師が遮った。
「まあ、書いていないことも多少入ってはいたが……よし、よく勉強しているな。さすがだ」
しかし、ノルベルトは座らなかった。どうした、という教師の問いに、彼は表情を変えずに答えた。
「まだ、説明が途中だからです」
教師は不思議そうな顔をした。教科書には先ほど彼が述べたよりも短い説明しかない。しかし時計を見て、彼は発言を許可した。残り時間を彼の発言に充てた方がきりがいいと判断したのだろう。続けなさい、と彼は言った。
「はい。軍需産業と度重なる兵器実験による大気汚染で、現在国際環境ランキングは中華共栄圏よりもまし、といった程度です。現在国際環境保全機構から警告がなされてはいますが具体的な対策は講じられないままです。また、昨年は化学兵器の増産によってマスタードガスが流出したという報告があり、チャールヴィル一帯が立ち入り禁止地区に含まれます。排煙からの被害も相次ぎ、降雨によって川に化学物質が混入、バークタウン付近の生物の大量死滅が確認され、土地の約六七パーセントが――」
「待て待て!」
教師が慌てて遮る。どうしたのかとノルベルトは不思議そうな顔をした。
「そんなこと、資料には書いてないぞ。どっか別のところと間違えているんじゃないのか」
もういいから座れと彼は言った。ノルベルトはおとなしく従った。
間違えているはずなんてない。この資料が古すぎるだけだ。能天気な奴らだ。言葉には出さないが、彼は心の中でそう呟いた。
その日の放課後にアシルとノルベルトは、学校の図書室で本を漁っていた。だが、二人にとってはどれも内容まで知っている本ばかりだ。それも仕方がないかもしれない。娯楽のための本など、出版できる国は限られている。日本国内で流通しているものは、ほとんどが国内の作家のものか、アメリカのものだ。最新の小説などは、メンテナンスの際に内容がダウンロードされてしまう。二人は一言一句違えることなく、その本を暗唱できてしまうのだ。
今では失われてしまった本ですら、データが残っていれば二人は知ることができる。学術的なものから大衆向けのもの、漫画や雑誌の内容まで彼らは知っていた。
アシルは随分と古い雑誌をめくっていた。もう刊行されていないものだ。旅行用の雑誌で、今よりまだ平穏で美しかった頃の世界の写真が載っている。『中国』の遺跡が紹介されていた。今は周辺の国を無理に吸収し、中華共栄圏となった。国土は荒廃し、内部から砂漠が広がる。世界では政治的に、張子の虎だと揶揄されているような状況だ。工業は比較的続けられている。そのほとんどが粗悪な軍需工場なのだが、煙や水はそのまま流しているため、環境は世界レベルでも最悪と言っていい。人が吸えばすぐ死ぬような高濃度の毒の霧も発生する。空はいつも垂れ込め、重い。太陽が顔を出さないため、農業はまともにできない。
その雑誌の下にあったものではイタリアが紹介されていた。ヴェネチアが特集されている。今や水の下に沈んだ都市だ。政府はそれを逆に観光資源とし、水中カフェなどを作った。今は観光する者など少ないが、半世紀前に戦闘が大規模になるまでは人気があった。
ヨーロッパはどこも似たような状態だ。個別に存続する国が多い。農業もまだできる土地がある。海抜が低かった場所は水没してしまったが、人々は内陸に移住した。工業も発展してはいる。群を抜いているのがリヒト=ドイツ王国だった。今や世界中で活用されている軍事用ロボットで最も高品質なのがドイツ製のものだ。
歴史的に貴重な建造物も度重なる争いで失われた。
最も大きな領地を持つのがロシア解放区だ。周囲の国を併合して大きく成長した。極端な気候変動のおかげで永久凍土は溶け出し、植物が豊かに生い茂る。世界的にみても農業に一番適している。しかし、移民が多いせいで紛争は絶えない。
アフリカは発展していたところを中断させられ、再び二世紀以上前の状態になった。ヨーロッパに足枷をつけられたのだ。そのため、彼らは武器を手にした。
アメリカ連合はかつての威厳を失った。しかし認めたくはないのだろう、各国と交戦を続けている。国力は疲弊しきっているはずだが、それを表に出さないようにしている。
「万里の長城、まだ少し残ってんだろ。本当に一部だけみたいだけど」
ノルベルトが雑誌を覗き込みながら言う。図書室には二人以外誰もいなかった。アシルが顔を上げた。
「城壁の崩れたやつだろ。まあ、中華もいろいろあったしな。一回、本物見てみたいな」
ページをめくりながらアシルは言った。本物ねえ、とノルベルトが呟く。
「実際見たらこんなもんかって感じなんだろうけど。前に研究員が旅行に行ったらしいんだけど、瓦礫の山みたいな感じでがっかりしたらしいぜ」
アシルは曖昧に返事をしただけだった。彼はまたページをめくった。
「それにしても、図書室に誰も来ないんだな」
彼は言った。
「誰も興味ないんだろ、壊れた過去なんて。今生きてる現実が大事だし、振り返ったって戻ってくるもんでもないし。俺達が生まれた頃には跡形もないんだし、懐かしくもねえだろうよ」
ノルベルトは笑った。そして、急に真面目な表情で呟いた。
「やっぱり……俺達はここにいちゃいけないって身に沁みて感じるよ。俺達は戦場にいるべきなんだ。あいつらは知らないだろうけどさ、こんな血塗れの手で同級生と手をつなぐのは俺はいい気がしない。何やってんだろうな、ほんと。毎日殺してた数ヶ月前が嘘みたいだ」
彼はごしごしと顔を両手のひらでこすった。
「こんなのは間違ってるって思う?」
アシルが尋ねた。指の隙間から、ああ、とノルベルトが答えた。
「いつか……いつかさ、本当に平和な世界をこの目で見たいんだよ、俺は」
呟いたノルベルトを覗き込むようにし、アシルは微笑んだ。
「俺達がやるんだよ、それを」
どうやって、と疑問が返ってくる。アシルは額を指した。額には彼ら二人に埋め込まれた特殊な送受信装置がある。小さな赤い点が肌の下に見えるが、注意して見ないと気づかないくらいだ。それを使えば、言葉を口にしないでも意志の疎通が可能になる。便利な機能だが、それがあることで二人は自分達が普通の人間でないことを痛感させられていた。今はいろいろな制御装置をかけているが、戦闘時、つまりリミッターを解除していると、二人の額にはユートピアプランの象徴的な模様も現れるようになっている。それは、青く天使の姿を模した紋章だ。
研究員や他の兵士達からは気味悪がられたりもした。この赤い装置は「第三の眼」とか「赤眼」と呼ばれていた。
アシルはその装置を使ってノルベルトに言葉を伝えた。ノルベルトが驚いてアシルを見る。そして乾いた笑い声を発した。
「それ、名案だ」
だろ、とアシルが悲しげに笑う。ノルベルトは再び顔を覆った。
「でもそれ、俺の願いは叶ってないじゃんかよ……」
声が重い空気に溶ける。無言でアシルは俯いた。
その時、図書室の扉が開いた。
「なに、お前らだけなの」
そうだよ、とアシルが応えた。岩田は二人の方にやって来た。アシルが手にしていた雑誌を見て、彼は表情を変えた。いつもの人懐こそうな笑顔になる。
「それ、面白いよな!俺、『アメリカ合衆国』のやつが好きだ。コロラド州の、ザ・ウェイブが好きなんだ。もうだいぶ崩れたみたいだけど……絵みたいだよな」
そうか、とノルベルトは微笑んだ。
「俺、いつか世界が本当に平和になればいいと思うよ。皆が安心して暮らせるようになったら、きっと外国にだって行けるだろうし。日本は平和な方だけど、こうしている間にも世界中で死んでる人がいっぱいいるんだと思うと……だから、俺はきっと将来政治家になってやるんだ。中立国だからできるものがあるんじゃないかなって思うんだ」
目を輝かせながら喋る彼を、アシルとノルベルトは黙って見ていた。岩田がはっとして二人を見る。
「悪い、いきなり……なんかちょっと恥ずかしくなってきた」
彼はそそくさと目当ての本棚に行き、二冊ほど手にとってカウンターへ行った。
「なんだよ、図書委員、今日もサボりか」
手馴れた様子で貸出用のパソコンに入力を済ませ、彼はじゃあなと言うと出て行った。扉が閉まった後、二人は顔を見合わせた。そして、同時に呟いた。
「本当に平和な世界、か……」