35 人形少女と白虎
バルトシラではチェックも甘く、予想よりも簡単にロシア解放区軍に入ることができた。投げやりな入国審査に、検査なしの手荷物受け渡し。二人はそのままサンクトペテルブルクへ向かった。入国時とは反対に街の警戒はものものしい。軍事同盟のせいもあるかもしれない。二人がどこにいるか分からない恐怖は、いまや世界共通のものだ。
同盟締結の回答期限の日、二人はエカテリンブルクにいた。かつては国内でも有数の人口、産業、教育で栄えたこの都市は度重なる暴動の末、廃墟同然の建物が並ぶ。それでも交通の要所ではあるため、他の廃れた場所よりは幾分かましといった程度だ。ここには国境を守るための駐屯部隊もいる。つまり、武器がある。しかし、ここは非常に濃い毒の霧が発生することでも有名だ。そのため、ガスマスクは手放せない。もっとも、彼ら二人にとってはそんなことは少しも問題ではなかった。
「このまま行くか」
ノルベルトが呟く。そうだな、とアシルが答えた。食事と休憩は十分にとった。装備はろくなものではないし、ロシア解放区軍の制服は調達できなかったが、データ上では一人で一個師団以上に相当する破壊力は衰えていないはずだ。
曲がった金網の向こうに見える人々をちらりと睨み、二人は口元を歪めた。空から雪が灰のように舞いはじめた。
スペインの時と同じように、二人は司令塔を握ることにした。制服が調達できなかったせいもあり、手当たり次第に手にかけたせいで一時間ほどかかって二人はそこを制圧した。
「あーあ、余計な手間が増えたな」
ノルベルトがぼそっと言う。彼の目の前には血の海が広がっていた。比較的綺麗な、サイズの合う制服に着替え、二人はウファ駐屯地に連絡をとっていた。
「そうだ、人形だ。復旧作業と警備兵増員のために、そちらに応援願いたい。……え?ああ、それなら復旧作業はこちらの兵だけで行える。頼もしい限りだ。いや、報告は全てこちらから行う。確認を求められた時だけ、頼んだ。ああ、そうだ。よろしく頼む」
アシルが声色を変えて喋り、通信を断った。ノルベルトを振り返り、にやりと笑う。
「こっちに例のあいつが来るぜ」
ノルベルトの目つきが変わった。どういうことだ、と説明を求めている。
「一旦俺たちが去ったように思わせた。もう一度襲撃される可能性があるから増援を願いたいと行ったら拒むような素振りを見せたんで、シロフスカヤ大佐だけでもと言ってみたんだ。連中、自分が行かなくてもよくなったもんだから簡単に寄越してくれたよ。あっちは国境警備が主だが、ほとんど仕事はねえから安心してるんだろう。どこ行ったって、結局俺たちみたいなやつってのはどう扱われるか分かりきってるんだ」
あんまりそう言うなよ、とノルベルトは笑った。
「俺たちがその程度のクズ野郎だってことは、俺たちが一番よく知ってるだろう」
そうだな、とアシルは額に手を当てた。思わず熱くなってしまったが、なんとも馬鹿らしいことだ。
「それと、ついでに回線をハッキングしてウファ駐屯地にモスクワ司令部を装って連絡を入れておいた」
アシルの言葉に、ノルベルトが顔を上げた。なんて、と尋ねる。
「ミュンヘン、ミラノ、アンカラ、マシュハド、ハイデラバードを燃やせって」
「また派手な命令したなあ。大丈夫か?」
「なんか向こう、すごい乗り気だったから大丈夫だと思う。ベルリンは今、各国の要人が集まってるから避けたけど。軍事同盟交渉決裂がこじれまくったみたいなこと言ったら、あっさり納得してくれたよ。大丈夫かねえ」
そう言ってアシルも笑う。
「それにしても、ロシアの人形か。そろそろ準備するか。楽しみだね」
ノルベルトが不敵に笑った。外は吹雪になっていた。
それからほどなくして、二つの生命体の接近を二人は確認した。
「来たぜ、シロフスカヤ大佐だ」
ノルベルトが言う。窓から見ると、吹雪の向こうに肩にかかるくらいの銀髪の髪の人物と、ホワイトタイガーがいた。その人は目の前の惨状に言葉を失っているようだった。
「下手に連絡される前に行くぞ」
アシルが武器を手に、外へ飛び降りる。ノルベルトも続いた。
突然目の前に降り立った二人に、思わずその人は後ずさった。銀髪を風になびかせ、赤い目を見開き、銃を構えた。ベージュのコートが風を受けてはためく。虎が唸った。
「はじめまして、レーラ・シロフスカヤ大佐」
ノルベルトがロシア解放区の言葉で挨拶する。彼女はまだ何も言えないまま、少しだけ口を開けて二人を見ていた。
「なぜ、ガスマスクなしで……」
「ふうん、ロシアの人形って、そこまで性能良くないんだな」
マリオニイェトゥカという言葉を聞いた途端、彼女の表情が変わった。
「貴様ら……何者だ、我が軍の者ではないな!」
ご名答、と呟いてノルベルトが銃を向けた。
「お察しの通り、俺たちは今噂のマリオネットだ。シロフスカヤ大佐、俺たちは別にあんたと殺し合いたいわけじゃない。少し話がしたいだけだ」
「ふざけるな!交渉の余地はない、今から消す!」
彼女は全く聞く耳を持とうとはしない。困ったようにアシルとノルベルトは視線を交わし、戦闘態勢をとった。
「シロフスカヤ大佐。あんたはもう少し賢明だと思ってた。この状況でよく一対二を作れるな」
ノルベルトの言葉を彼女は笑った。
「一対二ではない、二対二だ。ルスラン!」
呼びかけに応えるかのように虎が吠えた。サーベルタイガーを思わせるような牙を持ち、青い瞳で二人を睨みつける。
「その虎も、か」
アシルの言葉に、彼女は眉間にしわを寄せた。
「その虎も、遺伝子操作と精神操作をされている。そうだろう。聞いたことあるぜ、ロシア解放区は動物を使った研究も熱心だ。そいつは軍事用に洗脳状態にあったはずだがうまく扱えず、廃棄処分が決定していたところをあんたと馬が合ったおかげで命拾いした奴だろ。以来あんた以外にはなつかねえとか言うじゃねえか」
「貴様、なぜそのことを」
「気をつけた方がいいぜ」
彼女の言葉を遮り、ノルベルトが喋る。
「スパイが紛れ込んでるってことさ。そしてあんたに親切に説明してやるのも、これが最後だからさ」
そう言った途端、二人は地を蹴った。ルスランと呼ばれた虎がアシルを目で追う。
「えー、いいなあ、ノル。交代してよ。俺、どっちかっていうとそこのお嬢さん相手にしたいんだけど」
アシルが呑気に言う。ノルベルトが笑った。
「なら、早く混ざれよ。じゃないと、俺が潰しちまうぜ」
何を、と彼女は銃を構え直し、ノルベルトに照準を合わせた。先ほどまでとは比較にならないスピードで彼の動きについていく。
「やっぱこうだな。デルタを思い出すよ」
ノルベルトが言う。彼の頬に一発、弾がかすめた。
一方アシルはルスランと共にノルベルト達からは距離をとっていた。
「お前、人の言葉が分かるんだろ?なあ、馬鹿らしくないか。人間なんかに合わせるのは」
直後に、アシルは額の赤眼を通じて言葉を聞いた。
『ソウ、馬鹿ラシイ』
一瞬きょとんとして、ルスランにお前が喋ったのか、と尋ねた。ソウ、と再び頭の中に声がする。
『私ノ言葉、聞ク者、レーラ以外初メテ』
アシルが笑った。声はどうやら額の赤眼を通じて聞こえるらしい。
「なるほど、そういうことか。廃棄処分にされそうになったのは、お前が人の言葉で返答する力を持たなかったからだ。それにしたって使い道はあっただろうに」
虎は静かにレーラの方を見た。彼女はノルベルトを追っている。顔に血がついていた。
「なにも俺たちはあんたたちを殺しに来たわけじゃない。少し、夢の話をしようかと思ったんだ。もし、話が合えば、俺はあんたたちに一緒に来て欲しいと思っている」
『ユメ?』
そうだ、とアシルは頷いて銃口を下げた。敵意がないことを見せるためだ。虎が爪を納めた。
「世界を平和にするための夢だ。そのために、一度世界をぐちゃぐちゃにする必要がある」
『ソレ、コノ国、含ム?』
ああ、とアシルは頷いた。当然だ、と付け加える。
『ナラ、共ニ歩ムコト、デキナイ』
なぜだ、と今度はアシルが尋ねた。
『私、レーラト共ニアル。レーラノ夢、コノ国最強ニスルコト。平和、望マナイ』
「違う、それでは世界は終わるんだ。だから、誰かがやらなくてはいけない。……お前があいつと一緒にいるのは、そうしなければならないからか?」
違ウ、と声がした。
『レーラ、タッタ一人ノ仲間。理解者。友人。オ前タチト同ジ』
そうか、とアシルは呟き、銃を握り直した。その呟きにはどこか悲しそうな響きがあった。
『ダカラ、オ前タチ、相容レナイ。レーラノタメ、排除スル』
アシルの口から笑い声が漏れた。
「なら、こっちも遠慮や情けはいらないってわけだな。あんたたちと俺たちの夢、どっちが叶うに相応しいか、一つ運試しといこうじゃねえか」
吹雪の中、獣の咆哮が空を裂いた。
爪が雪を蹴散らす。白い吐息が影の後を追う。真っ白な色の上に赤い雫が落ちる。コントラストが目に痛い。
白い虎の毛皮に血が滲んでいた。対峙するアシルは恐ろしいほどの笑みをたたえている。
ルスランという名のこの虎は、遺伝子操作で作られたサーベルタイガーとシベリア虎の雑種だ。遺伝子操作された時に変異が起こり、毛が白くなったらしい。特徴的なのは顎に収まりきらない長い二本の剣歯だ。だがそれが逆に徒になっている。下手をすれば刺さった剣歯は折れてしまう。歯というのは案外脆いものだ。なので、その剣歯は首など柔らかいところに突きたて、失血死をさせるために使われる。ルスランにとってアシルは的が小さいのだろう。その牙を使うことはなかった。
アシルの右肩には引っかかれた痕があった。傷は治っているが、服が破れ、生地に血がついていた。彼はナイフを持ち、平然と構えていた。自然な立ち振る舞いにして、隙を見せない構え。
ルスランが低く唸り、猛然と彼に襲いかかった。鋭い爪が空間を裂く。わずかな動作でそれをかわすと、アシルは膝でルスランの額を蹴った。鈍い音がする。手にしていたナイフを逆手に持ち替え、白い毛皮を切り裂く。彼の頬に赤い飛沫を残した。ルスランの傷はすぐさま治った。
地に足をつけると間髪いれずに力をこめる。雪が飛び散る。アシルは空中で猫のように身をよじり、向きを変えた。ルスランがそれに反応して飛びかかるが、爪は空を切っただけだった。代わりに突き出されたナイフが再び赤を散らす。
「諦めて帰れ。俺たちに同意しない以上、ここにいてもらう理由はない。ウファ駐屯地へ帰ればいい。お前たちはこの国だけを見ていればいい、そうだろう。世界に興味はないようだ。だが、世界に目を向けなければいずれこの国も滅ぶ運命だ。それすらしないというなら、もはやお前たちはこの国を守ることすらしていないのと同じだ。今にすがりついているだけでは、未来は何も変えられない」
ルスランがよろめきながらアシルを睨んだ。血を流しすぎたせいか、少し動きが鈍くなってきた。
『黙レ!オ前、何モ知ラナイ、無駄口叩ク資格ナイ』
「目を背けるな。現実は目の前にあるんだ」
アシルがナイフを構えて反論する。
『黙レ!』
次の瞬間、彼のナイフはルスランの右目を貫いていた。獣の悲鳴があがる。間をあけずにアシルがぶつかっていく。バランスを崩したルスランの胸元をめがけて一気にナイフを振り下ろす。爪をむき出しにしてルスランが暴れる。アシルが押さえ込む。ルスランの動きが段々と弱々しいものになっていく。そして、痙攣するような動きにまで小さくなった。
「……未来を変えるつもりがないなら、お前たちは邪魔だ」
ぽつりとアシルが呟いた。直後、彼の頭めがけて弾丸が飛んできた。全てを避けて振り向くと、怒りの形相のレーラと目があった。
「ルスラン……」
彼女が虎の名を呼ぶ。しかし答えない。彼女はもう一度呼んだ。それでも返事はなかった。レーラが歯を食いしばった。
「貴様、許さん!」
アシルに向けて銃を乱射する。怒りに照準が乱された弾はアシルに当たることはない。彼は綺麗に全てを避けてみせた。歪む視界にレーラが顔をしかめた時、彼女の身体が大きくのけぞった。空を仰ぐ。彼女の胸から血が吹き出る。降り積もった雪に倒れこむ。荒い息をしながら、何が起きたのかを必死に把握しようとしていた。
「敵に背中を見せるなよ」
冷淡な口調で言ってのけたのはノルベルトだった。構えたままの銃はまだ熱気を持っている。
「未来を望まない者に、希望ある明日なんてやって来るわけねえだろ。この国の明日を今日より良くしようと思わないやつに、一国を守る資格なんてあるのか?運命は俺たちに味方したみたいだぜ。俺たちは、この世界をもっと良くしたい。例え、その世界に己の姿が無くともな。だから、俺たちが前へ進ませてもらう。悪くは思うな」
雪に倒れたレーラが呻く。先ほどとは変わって、それはか細い声だった。虎の名を呼んでいた。彼女の青い両目から血の涙が溢れる。口元は血と唾液に汚れていた。
「私は……まだ、死ねない……のに……」
何やらレーラはかすれ声でつぶやいていた。
アシルがレーラの身体を抱え上げた。彼女はもう抵抗もできないようだった。虎の横に寝かせてやると、彼女はほんの少しだけ目を動かした。荒い呼吸も静かになった。しばらくすると、辺りは再び静かになった。生き物の気配がしない。また、雪がちらつき始めた。
「拍子抜けだったな。ロシアのマリオネットが案外こんなもんだったなんて」
ノルベルトが言う。アシルは空を仰いだ。
「どこも似たようなもんだろ、マリオネットなんてろくな奴がいない」
雪が、だんだんと虎と少女を隠していく。
「今頃世界は大騒ぎだ。なにせ、不可侵条約を破棄してまでロシア解放区から攻撃があったんだからな」
ノルベルトの言葉に、アシルは頷いた。そして、ちらりとエカテリンブルク駐屯地の建物の方を見た。
「さっきの通信司令室で、呼び出し音がひっきりなしに鳴ってる。まあ、誰も出たりしないけどな。いずれ人が来るだろうし、そうなればこの国は面倒だ。地獄の果まで追い詰めようとするからな」
苦笑し、行こうかとアシルは行った。一面の雪に、二人分の足跡が残る。それすら、すぐに雪が消していった。残された虎ともう一人の身体も、雪に埋まっていった。
その日、たった二人の人形に対抗すべく、世界軍事同盟が結ばれた。




