34 雪の嘆き
無言のまま、二人はうっそうとした木々の中を駆けていた。フィリップを置いて施設から飛び出した時、周りはすでに何重にも囲まれていた。それを全て蹴散らし、東へ向かった。おかげで二人は全身を血に染めることになった。乾いた血が皮膚を引っ張るように感じる。
「さすがフランス、予想通りしつこかったな」
ノルベルトがうんざりしたように言う。ああ、とアシルが頷いた。
「でも俺の予想ではもうちょっとねばってくれるはずだった」
東に進路をとった彼らを見て、次はドイツだと誰でも分かる。軍はそれを予想して、まずパリから逃がさないよう包囲網を作っていた。さらに東に幾重もの人の防壁をつくり、国境付近の旧ベルギー領リエージュには注げる戦力の全てを費やしたような包囲網が形成されていた。それすら人ならざる力で突破した彼らは、ドイツ領の森へと侵入した。しかし、いくら敵対しているとはいえフランス政府はドイツに連絡をとり、二人が国境へ向かったことを伝えたのだろう。ドイツ領の森に入ってから、ドイツ軍を見かけた。最初は捕獲しようとする姿勢も見られたが、一時間ほど攪乱しているうちに、だんだんとそれはあからさまな攻撃へと変わっていった。
「ノル、適当なところで少し休んでおこう。さすがに身体がもたない」
ああ、と悔しそうにノルベルトが頷いた。この身体に適合してもなお、疲労からは逃れられない。このまま無茶をすれば死はまぬがれないのが本能的に分かってしまう。
闇夜の森は、比較的安全な方だ。人間は目が使えないので機械を使うが、そんなことをすれば二人は簡単に察知できる。反対にやられるのは人間のほうだ。
「一度ロシア解放区へ入って、そっからドイツを攻撃した方がいいと思うんだけど」
ブナの実をぽりぽりと齧りながら、アシルが呟く。賛成だ、とノルベルトが返した。
「どうやってロシアへ入る?俺はここからなら、デンマーク経由の方がいいと思う」
「同感だ」
森の中を動き、今はリューベクというデンマークの近くにいる。この近くには軍港もあり、危険なことに変わりはない。今までの様子から見て、軍部は陸伝いで移動すると予想しているはずだ。デンマークは北欧五連合に所属しているからノルウェー、スウェーデン、フィンランドといった北欧各地へ連絡船を出している。最初にスウェーデンを渡り、フィンランドへ入国して、ロシア解放区へ行く算段だった。一度北欧五連合のどこかへ侵入できれば、あとは割とフリーで移動できる制度があった。この時代に甘すぎると不評を買っていた制度だ。これを機に、一気に見直されるだろう。
「なあ、ロシアには人形って言われてるやつがいるらしいぜ」
へえ、とアシルが興味深そうにノルベルトを見る。
「それって、レーラ・シロフスカヤ解放区軍大佐のことか」
知ってるんじゃねえか、とノルベルトが笑う。
「そう、俺たちと同い年のどうやらマリオネットだな。サーベルタイガーとシベリア虎の雑種といつも一緒にいるって聞いたけど。ロシアに行ったら、そいつとも会えるかもしれねえな。初めてだ、俺たち意外のマリオネットにちゃんと会えるかもしれないなんて」
会ったらどうなるかは目に見えて分かってはいるが、ノルベルトは呑気にそう言ってのけた。
数日後、彼らは計画通りにフィンランド領オウル行きのフェリーに乗っていた。さすがにこの辺りには雪が積もっている。ボスニア湾では一部、氷が張っているという気象ニュースも聞かれた。
二人は適当に見繕ったコートで服を隠し、帽子を目深に被って額の印を隠していた。フェリーの中といっても、昔のようなサービス満載の客船とは訳が違う。暖房も少ししか効いておらず、場所によっては全くついていないところもある。移動する人も多くはなく、先ほどまで彼らを含めて七人いた乗客のうち二人は、他の場所へ移動してしまった。
「ねえママ、寒い……」
彼らの座っている丁度隣で、五歳くらいの少女が呟いた。マフラーをぐるぐる巻きにされ、目がちらちらと動いているのが見える。ノルベルトがぎゅっと拳をつくった。思い出したのだ。フランスで、自分が手にかけたマリーという少女を。
「ヘンナ、もっとこっちにおいで。我慢よ。皆寒いの」
ノルベルトが見ているのに気づいたのだろうか、母親がごめんなさいと言った。
「構いませんよ。よければ、これ」
そう言ってノルベルトはマフラーを渡した。あまりに軽装では怪しまれると思い、途中の市場で買った灰色のところどころがほつれたものだ。でも、と言う母親に押し付けるように渡し、彼は微笑んでみせた。礼を言い、彼女は受け取ると娘をさらにそれで包み込んだ。
「私、シュレフテオの工場で働いていたんです。でも、この前解雇されてしまって……仕方がないから、遠縁だけれど親戚が来てもいいと言ってくれるので、ケッロセルカへ娘と行こうと思って。最近はスペインでも人形が出たって聞いたし、できるだけ遠いところの方が安心だし」
一気に喋ると、彼女ははっとしたように口をつぐんだ。
「ごめんなさい、勝手に一人でぺらぺらと」
「いいえ、とんでもない」
ノルベルトが丁寧に応える。
「あなたがたは……だいぶお若いようだけれど」
アシルは相変わらず無言だ。
「ええ、士官学校を早期修了できたので、一度故郷へ戻りに」
「まあ……そうでしたの。こんなぼろ船を使わずとも、もっといい交通手段もあるのでは……?」
ええまあ、とノルベルトは微笑んでみせた。
「あまり無駄な金は使いたくないのです。それに、僕たちの故郷はオウル湖の近くですから、こっちの方が便利で」
「そうですか……」
女性がうつむく。二人にはなんとなく理解できた。きっとこの人の夫も戦地へ趣いている、もしくは行ったきりなのだ。そうでなければわざわざ遠縁を頼る必要もない。
それ以降、彼女はあまり喋ろうとしなかった。適当な世間話を時折交わし、時間は過ぎていった。アシルは結局一言も発さなかった。
「なんか不満でもあったのか?」
フェリーを降り、雪道を歩きながらノルベルトは尋ねた。
「いや……そういうわけじゃないんだ。ただ、これからも俺たちはあんな人を増やしていくのかなって思って」
ノルベルトは空を見上げた。冷たい風が吹きつける。
「それでも俺たちはやるしかないんだぜ」
分かってるよ、と素っ気ない返事が返ってきた。
彼らはロシア解放区の国境警備が手薄なバルトシラを目指すべく、鉄道に乗った。
そこからは驚くほど平穏な日々が過ぎていった。途中で下車し、一泊することもあった。そんなある日、新聞を見ていたノルベルトが額の赤眼を使ってアシルに話しかけてきた。いくら列車の中だとはいえ、乗客も少ない。わざわざ何事か、と返事をした。新聞の一面がデータとして送られてきた。フランス・ドイツ両王国を中心に世界軍事同盟結成の呼びかけが記事にされていた。彼ら二人を捕らえるため、世界を救うため、世界で手を組もうというわけだ。回答期限は三日後になっていた。
やっとだ。
ノルベルトが言ってきた。どこか少し嬉しそうだった。だが、アシルは心から祝うことができなかった。これで自分たちの余命のカウントダウンが始まったことになるのだから。世界が自分たちの死を望んでいると、目に見える形で知ることになったのだから。手放しでは喜べなかった。




