28 操り人形の苦悩
明け方近く、アシルが目を覚ました。まだ空は暗い。星が見えるくらいだ。見張り以外、寝静まっている。老婆は一晩中、アシルの手を握っていたようだ。微笑み、静かにその手を解いた。ナイフと銃を持っているのを確認して、そっと屋外へ出る。
見張りの一人がアシルを振り向いた。
「どうした」
まだアシルのことを疑っている声色だった。無理もないか、と彼は諦めた。
「なんか……嫌な感じがする」
独り言のように呟き、アシルは目を閉じた。次の瞬間、見張りを振り返る。
「ごめん、俺もう行きます!あまり出歩かないで!」
そう言い、彼は森へ消えた。見張りが呼ぶ声がする。だがもう振り返ってなどいられない。かすかだが、ノルベルトの気配がした。あのまま留まっていれば、あの人たちに危害が加わる。それだけはなんとしても避けたい。
森の中を駆け、ノルベルトの気配がした方に向かって走っているうちに確信した。やはり今は、リミッターが全解除になっている。そしてノルベルトのことを思った。彼はリミッターを戻してもらっているのだろうか。それとも、あの手錠をかけられたまま夜を過ごすのだろうか。
だんだんとノルベルトとの距離が縮まるのが分かる。向こうも全力でこちらに向かっているようだ。
さらに数分走ると緊張感が高まった。もう目の前にいる。あと三キロ――。適合して自我を取り戻せるなら、ノルベルトもできるかもしれない。あの言葉を本当にできる。死にに来たんじゃない。迎えに来れたんだ。
ついに姿が見えた。ノルベルトの緑の瞳が光っている。アシルがナイフを構える。
「ノル!」
全身に衝撃が走る。金属同士が耳障りな音を立てる。逆手にナイフを持ち、ノルベルトがアシルの顔に振り下ろした。皮一枚でそれをかわす。しかし頭に巻いていた包帯が切られた。青く天使をかたどった模様が見える。
ノルベルトが右手を振り上げたおかげで脇腹に隙ができた。アシルはそこを狙ったが、すんでのところでかわされた。
そうやって幾度か刃を交えた頃だ。ノルベルトがアシルから離れた。ちらりとアシルが来た方を見た。そして見たこともないほどおぞましい笑い方をすると、アシルには目もくれずにあの集落の方へ行った。
「ノル!やめろ、俺が目的じゃないのか!ノル!」
アシルも全力で彼を追う。なかなか距離は縮まらない。かといって離れているわけでもない。常に一定の距離が空いている。マリオネットとして同じ機能が搭載されいているが所以だった。
「ノル!こっちだ!」
何度呼びかけても相手は反応しない。彼はまっすぐに向かっている。しばらく追従したところでもうだめだと思った。あと一分も経たないうちに彼はあの集落に着いてしまうだろう。
やはり一分も経たないうちに森の中にあの家が見えた。辺りはもう明るくなっている。
「逃げろ!」
アシルが叫んだ。細い木をなぎ倒しながらノルベルトが見張りの前に現れた。悲鳴が聞こえる。その見張りの顔を片手で潰し、ノルベルトは低く唸った。周りにいた者が怯えた声を出す。
ほんのわずか遅れてアシルがそこに着いた。背後からノルベルトを襲おうとする。しかしかわされた。ナイフを振り下ろしても、軍服がひっかかっただけだった。
「逃げろ、早く!」
アシルの言葉にマダム・カモミーユが頷き、逃走準備を始めた。人々を背にして立ち、アシルはノルベルトに向き合った。相変わらず相手は挑戦的な目だ。昨日少女たちフランス人を手にかけて味をしめたのだろうか。フランスの者を盾にとれば、こちらが身動きできないと。それともドイツ軍の命令だろうか。フランスを血に染めろと。
ノルベルトが再び構える。アシルもそうせざるを得ない。
「やめろ、ノル……。この人たちを殺したら、お前は一生後悔する」
だが彼には聞こえていない。理解できていない。ナイフを構え、彼がアシルと距離を縮めた。
ノルベルトの刃を受け止め、やめろと再び叫んだ。
「目を覚ませ、ノル!」
全てが伝わらない。だが、ここでもし昨日の惨劇を繰り返してしまったら。きっと一生後悔するのは自身も同じだ。あの人たちはまだ廃墟の中にいる。逃げろと言ったのに。
「だめだ、ノル、殺しちゃだめだ!」
そう叫び、アシルはノルベルトを押し返した。ノルベルトの手からナイフが飛ぶ。その一瞬を見逃さず、彼はノルベルトの腕を掴んだ。後ろにひねり、ねじ上げる。ノルベルトが唸った。逃れようと必死にもがいている。アシルも逃がさまいと押さえ込む。
もし適合できたのがノルベルトが近くにいたせいだとしたら、自分が近くにいればノルベルトも適合できるのではないかと思った。
しかしそうなる前に、ノルベルトがなんとかアシルの手を振りほどいた。彼の手首には紫に変色するほどの痣ができていた。その痣も一瞬で治る。憎しみに満ちた目でアシルを見ながら、ノルベルトは森の中へ逃げた。最後にわずかにノルベルトの荒い呼吸だけが耳に残った。
急速に離れていくノルベルトを追わず、アシルはその場に膝をついた。思わず小さなため息が出る。廃墟に隠れていた人たちが様子を伺いながら出てきた。
「あんた……」
昨日話しかけてくれたアンリという名の男が、アシルを見て顔をしかめる。
「人形……?」
「あの額の印……」
「さっきのあいつと互角にやりあってた……」
ざわざわと声が聞こえる。もちろん彼らはアシルに声が届いているなんて思ってもいない。
気まずくなり、アシルは目を逸らした。こめかみが異様に熱くなる。喉の下から何かがこみ上げる。
ノルベルトを追っていこうとして、立ち上がった。とたんに人々が息を飲んで一歩下がるのが分かった。もう何度目の経験だろう。慣れたはずなのにとても苦しい。
「若いの。行くのか」
老婆が出てきた。マダム・カモミーユだ。ええ、とアシルは返事をした。
「嘘をつくつもりはなかったんです。俺のことが分かったら、昨日は困ると思って……。でも、結果的に皆さんに迷惑をかけてしまった。ごめんなさい……」
下を向く彼に、老婆が歩み寄る。
「さっきのは噂のマリオネットじゃの。額の印を見れば分かる」
アシルは震える手を握った。
「あれが……俺の友達です」
そうか、と老婆が微笑む。
「お前さんと似て、優しそうな子じゃな。こんな世界も捨てたものではないぞ。優しい子に二人も会えた」
顔をあげたアシルが歯を食いしばる。頬に一筋涙が伝う。
「泣き虫じゃな、若いの」
老婆が笑う。なぜ、この人たちはこんなにも優しく接してくれるのか分からない。身内を殺されたというのに、責めようともしない。こんなふうに接してくれるのも怯えからではない。ましてや、優しいなんて言われたことなどない。
「涙を拭いて世界を見るがいいよ。この世界は広い。お前さんが見てきたものばかりではない。顔をあげるがいいよ。きっと未来が見えてくる。生き急いでもろくなことはないよ。ゆっくりと周りを見る時間も、振り返る時間も、未来を描く時間も、時には大切じゃ」
その時、ノルベルトが去っていったのとは真逆の森の茂みから三人の男が現れた。アシルを見て訝しげにする。
「マダム、大変だ。隣の集落のやつらが昨日誰かに殺された」
皆の顔つきが変わった。
「広場の噴水で銃殺だ。マリーみてえな小さい子もやられた、くそっ、くそっ、畜生!残ったのは半分だ。なんとかこっちに合流してえと言ってる」
構わないよ、と老婆が言う。アシルは再び青ざめていた。
「それ……俺の友達が、やったんです。俺は見てることしか、できなくて……」
目尻を拭いながらアシルが声を絞り出す。
「若いの。友を見捨ててはならないよ。止められるのはお前さんだけじゃ。あの子もきっとお前さんのように泣いておる」
老婆の言葉に、アシルがこくこくと頷いた。軍服の袖で涙を拭い、アシルはそこにいる人たちを見渡した。
「ご迷惑をおかけしました。……一つ、約束します。俺はこれからあいつを連れ戻します。そして……この世界に、平和を作ります。もしも戦争がなくなる日までこの世界が終わらないのなら、世界が生まれ変わる瞬間をこの手で作ることを約束します」
老婆がアシルに歩み寄り、手をとった。
「婆との約束を違えるかもしれんの。それほどの強い覚悟なら、止めるのも野暮じゃろうて。それでも命ある限り、婆との約束は果たしておくれよ。若いの、お前さんはこの世界を生きていくには少し優しすぎるのかもしれんねえ」
老婆の皺だらけの手に触れ、アシルは小さな声で礼を述べた。そしてノルベルトの去っていった方へ足を向ける。若いの、と老婆の声が聞こえた。
「思い描く未来には、願わくば一人でも多くの人たちの笑顔のあらんことを」
敬礼し、アシルは森の中へ消えた。
あの人たちにはもう会うこともないだろう。胸が締め付けられる。堪えきれなかった涙が堰を切って溢れてきた。ずっと後ろの方から、殺された見張りを悼む声と嘆きが聞こえる。ノルベルトの匂いをたどりながら、彼は考えた。
今だ。今やれば、世界を平和にできるかもしれない。ノルベルトが正気に戻ったら、話してみよう。
ただ、今となってはどうしようもなくあの非凡な日常が思い返される。日本中立国の同級生たちはどうしているだろう。別れ際にまたなと言ったが、果たせるわけもない。でも彼らも喜んでくれるだろうか、いつかこの世界が平和になったら。たとえその世界に自分たち二人の姿がなくても。




