27 守るべきもの
一方アシルは全力でそこから遠ざかっていた。痛みを感じない身体のはずなのに、頭が割れるように痛い。ノルベルトが追ってこないのを幸いとして、彼は再び森の中に見つけた廃墟の街の、とある家へ潜り込んだ。頭の痛みが収まるまでそこに隠れることにしたのだ。こんな状況ではろくに戦えもしない。
少しすると雨が降ってきた。もう暗くなった頃だ。音が激しい。食卓らしき部屋のガラスが割れた窓から外を見てみると、雨樋があった。手の届くところが大きく破損している。そこからゴバゴバと不規則な音を立てて水が溢れていた。彼は手を伸ばし、水をすくった。急いで口へ運ぶ。数回飲んで、彼は座り込んだ。埃っぽい床だ。雨が吹き込んでいる。奥の方は砂が入り、白くなっている。ソファーの上にはぼろぼろになった犬のぬいぐるみがある。持ち上げてみると、虫が逃げ出した。三回叩いて埃を払い、彼はぬいぐるみを元の場所へ戻した。その瞬間、また耐え難いほどの頭痛が襲った。思わず声を漏らし、頭を押さえてしゃがみこむ。意識が飛びそうになる。床に散らばっていたガラスの欠片を握り締め、手に傷を作ってなんとか意識を保つ。歯を食いしばって耐えていたが、そのうちゆっくり目を閉じた。
次にアシルが目を覚ましたのは数時間後だった。雨はすっかりあがっていた。ぼうっとした目で彼は周りの気配を探った。
「ノル……?」
そう呟いてきょろきょろとする。
どこだ、ここは。俺は何をしていた。なんでこんな廃墟に一人なんだ?
そう思った時、彼は今までのことを全て思い出した。リミッターを全解除されたこと、ノルベルトを捕らえにきたこと。噴水の前で友人が虐殺をしたこと。耐えられないほどの頭痛に負け、ここまできたこと。そしてそれ以前、日本での留学から強制的に帰らされ、ノルベルトが暴走したこと。
そんな彼に疑問が浮かんだ。なぜ、メンテナンスも受けていないのに、こんなにも自我がはっきりしている?だがその答えは分からなかった。
睡眠は十分にとった。足りていないのは食べ物だ。いくら人形は食べなくても少しは生きていられるとはいっても、つい数時間前、彼は血の涙を流したことを思い出した。あれはマリオネットが生命の危機に陥った時の警告のようなものだ。食べ物を漁りながら彼は考えた。なぜ、俺はそれが生命の危機だと知っている?今まで研究員たちから聞かされたことなどなかった。思い出そうとして、彼は手に持った空のペットボトルを落とした。
あの時、一度死んだから――。
思わず口を覆う。呼吸が激しくなる。血が身体を駆け巡るのが分かった。
そうだ、あのデルタとかいうアメリカの人形と戦った時。ノルベルトと二人で倒したように思っていた。今なら分かる。これは上書きされた記憶だ。本当はあの時、俺は一度死んだのに。
一度そう思うと、どっと記憶が溢れてきた。一度死んだなんてもんじゃない。何回死んだ?メンテナンスを受ける部屋のさらに奥には、スペアボディがいくつもあった。今のこの身体だってスペアだ。ノルベルトだって何回も死んでいた。その度に記憶を上書きされていたのだ。あのギュイオットの歪んだ口元が思い出される。
耐えられなくなり、彼は吐いた。胃液がわずかに出てくる。臭いだけでも気分が悪くなった。外に出て、野ざらしのバケツに溜まっている雨水で口をゆすいだ。ついでに顔を洗い、一つ深呼吸をした。
なぜ今、メンテナンスを受けていないのに自我が戻ったか。デルタの一件でノルベルトがお前はアシルの偽物だと騒いでいたように、死ぬ度にそういうことがあった。お前は偽のノルベルトだと罵ったことも思い出した。この身体とマリオネット化するチップが馴染む以外にも、対であるノルベルトのチップも新しい身体に適合しなければならないのだろう。その過程が面倒だから、今までは記憶の上書きという形になっていたのだ。それに、死ぬ度にこうして生かされ続けることを知れば、こっちの気が狂ってしまう。
デルタの一件以来、二人共死んでいない。アシルはこの新しい身体で一度適合を経験している。首を絞めようとノルベルトに近づき、恐らく適合と似たようなことが起こったのだ。自分の身体に関しては一番自信が持てないが、きっとこういうことだろう。
夜の暗闇だが、上弦の月が出ている。十分目は使える。自我が戻っても体機能がそのままなのはありがたいことだ。おかげでここから一キロほど北に、人が数十人固まっているのが分かった。もしかしたらドイツ軍かもしれないが、一般の市民かもしれない。食べ物はここにはないようなので、行ってみる価値はあると思った。額の天使の模様を隠すために包帯を巻き、彼はその廃墟を後にした。
歩いていくと、その集団はドイツ軍ではなかった。ここはフランス領内だ。市民が逃げてきているらしい。もしかしたら、先ほどの廃墟に住んでいた人々かもしれない。森に街が侵食され、逃げていく人も多い。そういえば、少佐たちはどうしただろうか。
ここも景色は先ほどの廃墟と大して変わらなかった。家は崩れかけ、草が茂っている。見張りに何人かの男が立っている。わざと足音を立て、彼は近づいた。あのう、と声をかける。銃を向けられるのが分かった。男の一人が暗視装置を覗く。
「誰だ。見たとことろ、フランス軍の者のようだが。一人か」
ドイツ軍も同盟期には同じ制服を使っていた。疑うのも無理はない。
「一人です。フランス陸軍の者です。どうか、食べ物を分けていただきたい」
男は軍服の左腕についている国旗を確認し、他の者に目配せした。マダム・カモミーユをお連れしろ、と呟く。一人が廃墟の中に入った。
「下手な真似をすれば殺す」
アシルの耳元で囁く。構いません、と彼は答えた。今更になって、自分が血まみれの軍服を着ていることを思い出した。
マダム・カモミーユと呼ばれていたのは腰の曲がった老婆だった。黒っぽいマントを頭から被っている。白髪でシミだらけだった。杖をつきながら彼女は出てきた。
「食べ物が欲しいと」
「そうです」
「ろくなものはないが……少しは休んで行かれるがいいよ」
「ありがとうございます」
数人が小声で反対意見を述べた。アシルは血まみれだ。武器も持っている。招き入れて何かあれば困るというのだ。だが老婆はそれを制した。
「我らが仲間の子じゃろうよ。労わることに何の問題もなかろうて」
アシルがぽかんとしてそれを見る。まだ不服そうな顔の男たちが見えたが、老婆はアシルの手をとった。
「優しい子の手じゃ。早う来なさい、若いの」
老婆の手を見つめるアシルの目から、涙がこぼれた。なぜ泣くという問いに、なんでもありませんと答えた。なぜかは分からない。皆、それを不思議に思って見ていた。
手を引いて屋内に連れて行かれた。外側は黒く内側は赤いカーテンが隙間なく引かれている。窓とカーテンの間には拾ってきた板のようなものも入って、外からは光が見えないようになっている。中にはランプが一つ、床に置かれていた。数人がその周りに座っている。使える家の中は、全てこのようになっているらしい。三十代くらいの女性がアシルにパンの欠片と水を差し出した。礼を言ってそれを受け取る。
ガタイのいい髭面の男が小声で喋りかけてきた。
「よう、あんた部隊は?」
驚いてアシルが彼を無言で見つめ返した。すると男はしまった、という顔をした。
「いきなり悪かった。俺はアンリだ。若い頃、一度だけ従軍してたんだ。俺は歩兵第六七三部隊だったんだ」
「言っても分からないですよ、きっと。新しく創設された部隊なので。陸軍特殊部隊です」
そうか、とアンリが笑う。老婆が部屋に入ってきた。アシルの隣に腰を下ろす。
「今はなんだってここにいるんだ。最近、この辺じゃドイツの人形の目撃情報もあるぜ」
別の男が言った。それでここにいるのか、と付け加えられる。そうですと彼は答えた。
「おお、恐ろしい。マリオネットだの、同盟期に変なもん作りやがって。軍部は知らせもしねえで、何だってんだ」
「そうよ、あんなものがフランスとドイツに二つもあるんでしょ。勘弁してほしいわ、ほんと。さっさと処分してくれないかしらね」
「そのマリオネットとやら同士、戦って互いに死んじまったら一番安心だ」
彼らは急にアシルが軍人だったことを思い出したようで、口をつぐんだ。皆の目が一斉にアシルに注がれる。彼は目を閉じてそれを聞いていた。
「そうですね。俺も、マリオネットなんかいなくなればいいと思いますよ」
そう言って皆の顔を見て、にこっと笑う。人々は少し安心したようだった。
「そういやあ、あんた、名前は何て言うんだ」
アシル・ロレオン、と彼は答えた。パンの欠片を噛みちぎる。硬いパンだった。
「出身はどこだ?あんまし訛ってねえな」
「分からないんです。家族もいないし」
そうか、と聞いてきた男は少し申し訳なさそうにした。別に孤児が珍しいわけではない。
「でも、同じ部隊にとても大切な友達がいたんです。ずっと一緒に育ってきた友達が。……気付いたら、敵になってました」
ドイツか、と囁きが聞こえる。
「今はその……マリオネットの出没の報告を受け、ここに来たんです。いろいろ動いているうちに宿営地からだいぶ離れてしまって」
パンの最後の欠片を彼は口に入れた。
「怪我はないの?」
血まみれの軍服を見て、心配したように女の声がした。見れば、同年代の娘だった。金髪を乱雑に一つに束ねている。ふとアイリーンのことが思い出された。モルゲンシュテルンのあの娘と、どこか目が似ている気がする。
「ありがとう、これ俺の血じゃないんだ」
自然な感じで嘘をつく。誰も疑いはしないが、いい顔もしない。
コップに残った水を、彼は一気に飲み干した。
「若いの、無理せず寝るといいよ」
一息ついたところで老婆が言った。構いませんよ、と彼は答えた。一晩くらい寝なくたってしれている。
「助けていただいたお礼です。一晩、見張りの手伝いでもしましょう」
「いや、ならん」
彼らはアシルがマリオネットであることは知らない。昼間に動き回っているはずだから休めというのだ。ここで断れば、マリオネットであることがばれてしまうかもしれない。そう判断し、彼はそこで休むことにした。
壁際にうずくまる彼の頭を、老婆が優しく撫でる。
「礼はな、お前さんが生きていることじゃ。若いの。この広い世界のどこかで、お前さんが生きておればいいよ。たとえもう会うことがなくとも、生きておればいい」
アシルの肩が小刻みに震えた。老婆は撫でるのをやめない。
「婆はいつも思うよ。もし人間がなかなか戦争をやめられなくとも、いつか戦いがなくなる日まで世界が続いていたら、その時こそ、世界は生まれ変われると。手を取り合い、認め合い、語り合い、笑い合い、共に生き――何億の今の世の苦しみも、いつか生まれ変わって何億の幸せになれる日が来ると」
老婆はそこで小さくため息をついた。
「まあ、こんな言葉……日々戦場を駆けるお前さんにとっては、綺麗事か妄言でしかないかもしれんが」
顔を覆うアシルの手の隙間から、か細い呻きが聞こえた。鼻をすする音がする。乱れた呼吸を整えようと、肩が大袈裟に動く。指の間を温かな雫が流れる。
皆が彼を見ていた。




