24 人形の本性
フランスに帰ると、以前との空気の違いに驚いた。反ドイツのポスターがそこら中に貼られ、破られ、街は以前よりも灰色になった気がした。恐らくドイツには反フランスの文字が溢れているのだろう。
ポールソン達ル・セルパンの三人は、街の警備をしていると言った。軍服ではなく、市民に紛れてテロリストがいないかを監視するのだ。フランスがアメリカと休戦に合意してから、ドイツの反仏感情は高まった。テロが毎日のように起こるのだという。フランス国内の反独感情も急激に高まっている。
「このままじゃ、戦争になる」
そんなことが、常にどこかで囁かれていた。しかし、何とか収めようという動きはない。人々は争うことに慣れすぎて、もうすっかり感覚が麻痺したらしい。
アシルとノルベルトの二人も帰仏した翌日から、パリの警備にあたっていた。つくづく、ここは日本とは違うのだと痛感させられる。行き交う人々は皆、疲れた顔をしている。金持ちでない子供は学校に行くことはなく、物乞いをしたり働いている。くたびれた服を着て、艶のない髪を適当に束ねる。そんな人で溢れていた。治安もどんどん悪くなっていく。スリは多いし、白昼堂々と強盗を働く者もいる。観光の目玉であるパリ市街は乾ききっていた。
そんなある日、二人はフィリップに呼ばれ、研究棟へ行った。メンテナンスを行うという。二人は別々の部屋に通された。よくあることだ。
いつもどおりのメンテナンスが始まって三十分も経った頃だ。フィリップ達、主だった研究員はほとんどはアシルのメンテナンスを行っていた。突如、ノルベルトのいる部屋の方から悲鳴が聞こえた。
「何だ!」
ガラスが割れる音がする。悲鳴があがる。足音が響く。
「ムッシュウ!ド、ドイツ軍の連中が、ノルベルト・シュヴェーダのリミッターを全解除して……!」
一人の研究員が額から血を流しながらやって来た。彼は戸口に這いつくばっている。息が切れていた。部屋の空気が変わる。
「シュヴェーダがこっちに向かっています!」
フィリップの顔色が変わった。全解除のマリオネットがやって来る。それはすなわち、死だ。
「ムッシュウ!」
部下の叫び声がする。フィリップは舌打ちして、キーボードを叩いた。
「駄目です、ムッシュウ!」
ソフィーが叫ぶ。しかしフィリップは聞く耳を持たない。二秒後、アシルが目を見開いた。身体中に貼り付けられたコードを引きちぎって起き上がる。同時に、扉が蹴破られた。近くにいた研究員が吹き飛ぶ。壁に強打され、ずるずると落ちていく。
額に天使を模した模様が光り、目は緑色に輝いている。理性を失ったノルベルトが立っていた。彼はぐるりと部屋を見回し、近くにいた研究員に飛びかかった。ソフィーが悲鳴をあげる。
ものすごい音がして、ノルベルトの拳は弾かれた。アシルが庇ったのだ。彼も額に天使の模様を光らせ、目は紫に光っている。数秒、二人は睨み合った。ノルベルトが隙を見せないまま、部屋から出て行った。
「追って!」
フィリップが叫ぶ。その言葉が消える時、アシルはもう部屋にいなかった。ノルベルトの後を追い始めた。研究室は静かになった。嵐が去った後のようだ。何人かは気絶している。フィリップは額から流れる血に顔をしかめ、立ち上がった。ふらつき、テーブルに手をつく。白衣に赤いシミができた。
「ムッシュウ……なんて命令を……!」
怒ったようにソフィーが言う。悲しそうな目をした後、フィリップは廊下を見た。もう音は何もしない。そして、唇を噛んだ。悔しさを圧し殺す。
「立てる人は、今から言う機材を持ってついて来て!」
彼は指示を出し始めた。
一方、アシルはまだノルベルトを追っていた。何も感じていないかのような動きだ。まっすぐ前だけを見ている。同じ速度で走り、距離が縮まらない。風のように駆け抜ける彼らを、兵士達は唖然と見ていただけだった。
事件は、すぐにル・セルパンのメンバーにも知らされた。ポールソンが急いで研究棟の方へ向かった。その時、棟の窓が一枚、内側から割れた。飛び出してきたのはノルベルトだ。軍服の深緑のズボン、薄い緑のカッターシャツ。どれも破れ、血が滲んでいる。もちろんそれは彼の血ではない。
「ノル!」
ポールソンが呼んだ。ノルベルトがちらりと彼を見る。空からプロペラの音がした。
「ドイツ軍だ!」
その言葉がどこからか聞こえてきた。ノルベルトが棟の近くの林に駆け込む。
「待て、ノル!」
ポールソンの叫びも届かない。ノルベルトは一瞬で見えなくなった。振り向きもしなかったようだ。その直後、同じ窓からアシルが顔を出した。
「アッシュ……」
ポールソンが彼の名を呼ぶ。しかし、ポールソンは思わず一歩下がった。いつものアシルではない。目は光り、額にはよく分からない模様がある。感情のない目で何かを探している。林を探っているかのようだ。
空から、ドイツ軍のヘリコプターが爆撃をした。悲鳴と熱風が巻き起こる。ひとしきり攻撃し、フランスも応戦した。そしてドイツ軍のヘリコプターは方向を変え、去っていった。
「何だ、あれ……」
やっと追いついたアレクサンドルが呟く。彼は砕け散ったガラスの破片で頬を切っていた。血が伝う。
慌てふためく人々をよそに、アシルは空を見上げていた。ヘリコプターが去っていった方を見つめ、低く犬のように唸る。兵士達には見えていなかったが、彼には見えていた。あのヘリコプターの窓から、憎しみに満ちた目でこちらを見つめるノルベルトがいた。
そこへ、息を切らせながらフィリップやソフィー達研究員がやって来た。棟の外からアシルを確認する。
「アシル君、こっちへ来なさい」
アシルがフィリップを睨んだ。品定めをするようにじろじろとフィリップを見る。
「命令だ」
フィリップが付け加えた。その言葉に、アシルがわずかに表情を歪ませる。そして、ゆっくりと窓を越えた。フィリップの目の前に跪き、地面を見る。フィリップがアシルの腕に何かをはめた。手錠のようだ。途端に研究員達が群がる。アシルをねじ伏せ、身体中にコードをつける。
「ちょ、あんたら何してんだ!」
ポールソンがフィリップを掴んだ。フィリップは冷たい目で彼を見た。
「何って、リミッターを戻すんだよ」
その間にもアシルは抵抗していた。しかし、本来の力が出ていない。普通の少年と同じくらいの力でなんとか逃げようとしている。鍛えられた男たちの前では全くの無力だった。
「手がつけられないからねえ。ああして人形の力を無効化する手錠をかけて、リミッターを調整するんですよ、ポールソン少佐」
「リミッターって、あんたらまさか、全部外したのかよ」
ポールソンの手に力が入る。
「状況はちゃんと聞いてるんですかあ?ドイツ軍がまず、ノルベルト君のリミッターを全解除した。だから対抗するために、アシル君のリミッターをほぼ解除した。全解除じゃない。だからノルベルト君に追いつけなかった。彼は今、僕の命令くらいしか聞かないからねえ」
それ以外、何も分かっていないのだ。痛みも、感情も、何もかも。
ポールソンは舌打ちした。
「外道だな、あんたら……」
フィリップの襟を掴んでいた腕を放す。服の皺を直しながら、フィリップは薄ら笑いを浮かべた。
その時、研究員がフィリップを呼んだ。彼はアシルの方に近づいていった。アシルはコードを貼られたまま、上半身は裸で仰向けに寝ている。
「お疲れ様ー。気分、どう?」
額を押さえ、アシルが身体を起こす。彼は小さく呻いた。
「なんか、ふらふらします……。気持ち悪い、吐きそうだ……」
小さな声で彼は答えた。
「そうだよねえ、初めてあんなにリミッター解除したもんね」
自分のシャツに血がついているのを見て、アシルは目を見開いた。そして、腕にはめられた手錠を見る。
「あの、これ……」
外して欲しそうな目でフィリップを見る。フィリップは冷たく口角を上げたまま、アシルを見つめ返した。
「駄目だよ。いつまたリミッターが外されるか分からないからねえ」
アシルは俯いた。
やっぱり、さっきのは夢じゃなかったんだ。ノルベルトを追いかけていくあの光景。走っていった先で、ノルベルトが研究員や警備兵を素手で惨殺していく。ノルベルトの通った後は、引き裂かれた死体が散乱していた。白い壁は赤かった。ところどころ、壁に血の足跡がついていた。
そして、彼はあの窓から出て行った。林の中にいるのが分かった。その後、ドイツ軍のヘリコプターに乗せられたようだ。追いかけることはできなかった。
「ムッシュウ。ノルベルトは……」
アシルが口ごもる。言いたくないのだ。認めたくないのだ。彼と、敵になってしまったなんて。
「まあ、もう仏独同盟は終わりだねえ。これから、戦場で好きなだけ会えるよ」
フィリップの言葉が突き刺さる。アシルが頭を抱えた。
「嫌だ!訳も分からず、ノルと戦いたくない!」
「なら、訳が分かれば戦うのかね」
非情な声がした。ギュイオット少将だった。
「嫌だ、嫌だ――!」
獣の遠吠えにも似た叫びだった。次の瞬間、ギュイオットがアシルを殴った。背中から無様に倒れる。唇が切れていた。いつもなら、すぐ再生する。しかし手錠のせいか、傷は治らなかった。血が流れる。
「お前は命令に従っておればいいのだ。もっとも、リミッターを解除されれば命令に従う他ないのだがね」
アシルの頬を、雫が伝う。
「そんな憐れなお前に、一つ教えてやろう。もう仏独同盟は終わった。これより、ドイツと戦争をする。お前はフランスの命運を握る鍵だ。勝利へと導く者だ。好き勝手できると思うな。所詮、この世界から逃げられはしない」
それだけ言うと、ギュイオットは忙しそうに歩いて行った。アシルがようやく身体を起こした。肩を落とし、うなだれている。
「嫌だ……ノルと戦いたくない」
いつもなら、こんな手錠の鎖は引きちぎれるのに。いつもなら、隣に彼がいるはずなのに。
「おい、気にすることはねえぞ」
宿舎に戻った後、ポールソンが話しかけた。相変わらずアシルはぼうっとして床の一点を見つめている。手錠はかけられたままだ。
「そうそう、少将はあんなことおっしゃるけど、アッシュはアッシュなんだから」
よく分からない励ましが聞こえる。アレクサンドルだった。アシルが顔を上げる。
「ありがとう。でも、少将のおっしゃったことは正しいよ」
どういうこと、とピエールが尋ねる。アシルは微笑んだ。諦めたような表情だった。
「俺はリミッターを解除した時、何も分からなかった。感情が何もなかったんだ、痛みも。何が正しいとかじゃなくて、ただ命令しか分からなかった。なんでかな……今にして思えばすごく不思議だ。だって、人が倒れててノルは殺しているし、俺はノルを殺すことにためらいがなかった」
彼は堰を切ったように喋りだした。
「いつもならおかしいって思えたんだ。なのに、あの時は違った。よく分からないけど、とにかくやらなきゃって思ったんだ。あの時、皆の顔が浮かびもしなかった」
一人で喋るアシルを見て、ポールソンは眉を寄せた。
「アッシュ。お前、怖いのか?」
アシルがびくっとして黙った。そして、笑う。狂人のようだった。
「怖い?俺が、何かを怖がってるって言うの、少佐。まさか……俺は今まで恐怖を感じたことはない」
「『恐怖』が分からないのに、よく感じたことがないなんて言えるな。お前が知っている恐怖は、言葉だけだ。音の繋がりだ。……お前は今、知ったんだろう?なぜ、死にに行かなくてはならない。もっと生きていたい。もう一度日本へも行ってみたい。ノルベルトと戦って、それでどうなる?未来が保証されるのか?軍から逃げられるのか?だったら、どうすればいいんだ?ってな」
冷たい目でアシルを見据える。
「ふざけんな!」
アシルが殴りかかろうとした。しかし、一瞬でねじ伏せられる。いつもなら、ありえない光景だ。ポールソンに押さえつけられたまま、アシルは悔しそうにした。
「お前は弱いんだ。だから、抱え込むな」
その言葉に、アシルの表情が一瞬だけ緩んだ。しかしまた強ばる。
「そうだよ、俺は弱いんだ――こんな手錠だけで、俺は何もできなくなる」
彼は唇を噛んだ。ポールソンが彼を放す。ゆっくりと座り直し、アシルは壁に寄りかかった。
「善人ヅラしないでよ、少佐。どうせ俺はまたリミッターを外されるんだ。少佐は俺が連れて行かれるのを止められない。そうしたらもう何も分からなくなる。怖くもないし悲しくもない。でも、命令があるから大丈夫だ。命令があればそれに従えばいい。根本的なことは考えなくて済む。なんで、どうしてこんなことしてるんだろうって。命令だからやるしかないって自分に言い聞かせられる」
ピエールが俯いた。彼は尋ねた。
「本当に、それでいいの?」
ああ、と答えが返ってきた。アシルが微笑んだ。
「もういいんだ。そういう運命だと思ってる。俺は命令でノルを殺しにいくかもしれない。でも……迎えに行ってくるよ」
部屋が沈黙に包まれた。




